源有綱
源頼政の孫であり、1180年の以仁王の乱の際は「伊豆」にいたため難を逃れたそうである。(wikipedia)
1182年に義経の与力として活躍。
『吾妻鏡』の元暦2年(1185年)5月19日条に、有綱が義経の婿であると称して多くの荘園公領を掠め取っているとの記録がある。
…という事は、1159年生まれの義経、1174年に近江国蒲生郡鏡神社で一人で元服。
1185年「義経婿」というのは、娘10歳前後カ。平安から鎌倉時代のことなので、それもあったかもしれない。
とにかく「有綱殿、私の娘を妻としてくれ」という事で約束したのだと思う。
という事は、有綱が歿する前に「大和国宇陀」の義経の母のところにその娘を預けるために行ったのかもしれない。娘はまだ10歳前後の時の1186年に有綱は歿している。
その有綱は、自分が亡くなった後のことも考えて源光綱に託したのかもしれないし、義経が越中国の方面へ逃げ延びていた噂を聞いた娘が追いかけて行ったのかもしれない。
既に光綱の養女となっていて、そこを頼って義経が逃避行の際に寄ったのかもしれない。
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/2cc83ca921d06d2f5cc594055ba858db
いろいろと考えられるが、義経という人物を父に持ったため「渦」に巻き込まれた女性である。
吾妻鑑には「婿」とあるので、妹ではないように思える。
妹とすると、義経の荘園公領を掠め取るようなことは、できないのではないだろうか?
有綱の勝手な行動を許している義経は闘うことにすべてをかけていたに違いない。
兄頼朝のためを思って闘って、源氏再興を願って闘っている義経が、頼朝から疎んじられるという結果に終わる、、、
ぶつけようのない悲しさが私の中にも残る。
この感情こそが「判官贔屓」なのだろうか?