同時代に義泰が4人いる。
一人目は中島太郎義泰で法名が覚念。
霜月騒動で鎌倉で没しているようである。
二人目の出雲六郎義泰は次郎時光の弟で、波多野五郎義重の息である。法名は義詮である。
(義基の息七郎義泰で、註は無かったため略する。)
三人目、同時代にいる『大曾根義泰』が、私の感触では中嶋太郎と同一人物なのではないかと思うのである。
なぜならば、大曾根義泰の法名は覚然。
そして歿した年月日が中島太郎義泰と同じである。
覚念と覚然 そして歿年月日弘安八年十一月十七日
そしてその「大曾根」という地名が尾張にあるのである。
中島も尾張と縁深い。
安達氏と同じ祖を持つ大曾根氏。
其の祖とは藤九郎盛長。
大曾根氏は代々上総介を名乗っていたそうだ。
疑問もある。
安達時長のwikipediaより
「所領は建保元年(1213年)の和田合戦で武蔵国長井荘(埼玉県熊谷市)を拝領した。時長の名字大曾禰は大曾禰荘(山形市)に由来しており、同地の明源寺境内には盛長創建と伝える毘沙門天があり、この堂は安達一門が代々住持した毘沙門山真妙寺の堂を移設したと伝える。兄景盛の出家後、その嫡子義景が安達氏の家督を継承して以降、時長の子長泰から大曾禰を名字とした分家が成立した。」
・・・と山形市の大曽根という。
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以前調べた際には「隠岐時清の妻が大曾根長経の娘」とあった。
四人目は、其の時清の弟に富田義泰がいるのである。
この大曾根氏の祖は安達時長(盛長の二男)という。家紋が十文字である!
更に時長の父「安達盛長」の娘は源範頼の室となっているのである。
比企氏の娘婿が藤九郎であったはずである。
富田義泰も同年代である。
いやはや、複雑だ。
そして隠岐時清の妻の父親大曾根長経。
その弟こそが大曾根義泰なのである。
どこか、オカシイ?
富田義泰と大曾根義泰も同一人物と思う。
とすると、波多野松田系の中島義泰=富田義泰=大曾根義泰なのか
はたまた出雲六郎義泰=富田義泰(出雲玉造荘)=大曾根義泰なのか。
出雲六郎義泰の法名は義詮なので覚然ではないのだが、同じ出雲関係のため富田義泰ではないかと疑われるが、違うかもしれない。
出雲六郎義泰=富田義泰かもしれないと疑われる。
そして富田義泰の兄が隠岐時清で、妻が大曾根である。
富田義泰=大曾根義泰と思われる。
法名と歿年月日が同じため、中島義泰と大曾根義泰も同一人物であると思われる。
中島義泰=大曾根義泰(上総三郎右衛門尉義泰)
悩める。
しかし、ココが藤原秀郷流と出雲佐々木氏とをつなぎ、且つ安達氏・比企氏とも繋がる線なのかもしれない。