本を読んで気になった事のみメモしておくことにする。
諸説あるようだが
堅田 殿原衆の特権 = 鴨社供祭人の特権 に由来
殿原衆⇒供祭人
全人衆⇒ワタリ
ワタリとは漂泊民(ワタリ・タイシ)
賀茂社供祭人の根拠地 船木北浜
堅田網人 国司により鴨社御厨の供祭人となっており、毎日御膳料の鮮魚を漁進 ← 国役免除【鴨脚(いちょう)秀文文書】957年天徳元年
白河院御宇 承暦2年 4月7日 依 勅願被下庁宣 為御祖者日供調進 所被御厨子所膳部六人也 皆以下北面之輩也
大江清蓮
藤原宗兼
橘高弘
平義春
大江貞行
中原重則 等
~~~*~~~
1078年のことである。下北面の人たちが堅田網人の統轄者であった(推定)
~~~*~~~
寛治4年 賀茂社安曇川(船木北浜) 相論
保安3年(1122年)鳥羽天皇 あらためて堅田御厨を鴨社に寄付 公家による保証
鎌倉初期 供祭人
「賀茂社国神戸記」 建久3年 1192年~
供祭神人・貢御神人・貢祭網人 をまとめる 下司光貞 この下司を通して供祭人たちは預所・領家鴨社禰宜及び大明神に「御菜」を 貢進していた。そのお返しに米を給付してもらっていた。
承久の乱 光貞の流れをくむ下司は京方へつき、その後没収される。
1227年 嘉禄3年 佐々木信綱は 佐々木・豊浦・羽邇・栗本北郡などと共に堅田の地頭職を与えられる。
堅田衆と相論?堅田衆勝訴
堅田大宮…今の伊豆神社
殿原衆 玉泉安・祥瑞庵など禅宗寺院を外護 廻船業に携わる
全人衆 商工民 湖上をはじめ広く諸国に活動 一般市民・一向寺本福寺の門徒
1468年 堅田の大責め(山門による)
~~~*~~~
近江国
彦根の北「磯」 古くは筑摩御厨の贄人に源流
集落の多くが古くから天皇・神社等につながる
漁撈民~供祭人・神人の根拠地
菅浦 内倉寮 供御人
堅田 鴨社供祭人
奥嶋 大島奥津島神社の供祭人
~~~*~~~
北船木 ⇒ 若宮神社文書
~~~*~~~
1391年 明徳2年 9月24日
賀茂社の社司とみられる豊兼は安曇川御厨所務職を佐々木氏の一族田中氏に請け負わせている「朽木文書470号」賀茂別雷神社 社家豊兼証状案
1429年 正長2年 3月22日
貞経書状案 田中下野入道に対し御厨代官職に対する…
田中氏と御厨 室町期を通して長く続いた関係。
1497年 明応6年
船木北浜の若宮権現 棟札に地頭殿 能登守長綱 神主伊香氏 とある。
御厨と幕府の外様衆 佐々木田中氏
~~~*~~~
以上が、気になった点であった。
船木北浜と蒲生郡の舟木庄との関係は不明ながらも、同じ賀茂社に関わり、同じ名前である点が気にかかっている網野氏。
私も、そこが気になるんです。
佐々木田中氏と船木北浜との関係がわかっただけでも、ちょっと前進できそうである!
また、ワタリとは、渡里/渡氏のことかもしれない??
他の方の説で、ココに最初に住み着いたのは和邇御厨の人々 天皇の贄人 和邇の海民か…とあった。(9世紀)
諸説あるようだが
堅田 殿原衆の特権 = 鴨社供祭人の特権 に由来
殿原衆⇒供祭人
全人衆⇒ワタリ
ワタリとは漂泊民(ワタリ・タイシ)
賀茂社供祭人の根拠地 船木北浜
堅田網人 国司により鴨社御厨の供祭人となっており、毎日御膳料の鮮魚を漁進 ← 国役免除【鴨脚(いちょう)秀文文書】957年天徳元年
白河院御宇 承暦2年 4月7日 依 勅願被下庁宣 為御祖者日供調進 所被御厨子所膳部六人也 皆以下北面之輩也
大江清蓮
藤原宗兼
橘高弘
平義春
大江貞行
中原重則 等
~~~*~~~
1078年のことである。下北面の人たちが堅田網人の統轄者であった(推定)
~~~*~~~
寛治4年 賀茂社安曇川(船木北浜) 相論
保安3年(1122年)鳥羽天皇 あらためて堅田御厨を鴨社に寄付 公家による保証
鎌倉初期 供祭人
「賀茂社国神戸記」 建久3年 1192年~
供祭神人・貢御神人・貢祭網人 をまとめる 下司光貞 この下司を通して供祭人たちは預所・領家鴨社禰宜及び大明神に「御菜」を 貢進していた。そのお返しに米を給付してもらっていた。
承久の乱 光貞の流れをくむ下司は京方へつき、その後没収される。
1227年 嘉禄3年 佐々木信綱は 佐々木・豊浦・羽邇・栗本北郡などと共に堅田の地頭職を与えられる。
堅田衆と相論?堅田衆勝訴
堅田大宮…今の伊豆神社
殿原衆 玉泉安・祥瑞庵など禅宗寺院を外護 廻船業に携わる
全人衆 商工民 湖上をはじめ広く諸国に活動 一般市民・一向寺本福寺の門徒
1468年 堅田の大責め(山門による)
~~~*~~~
近江国
彦根の北「磯」 古くは筑摩御厨の贄人に源流
集落の多くが古くから天皇・神社等につながる
漁撈民~供祭人・神人の根拠地
菅浦 内倉寮 供御人
堅田 鴨社供祭人
奥嶋 大島奥津島神社の供祭人
~~~*~~~
北船木 ⇒ 若宮神社文書
~~~*~~~
1391年 明徳2年 9月24日
賀茂社の社司とみられる豊兼は安曇川御厨所務職を佐々木氏の一族田中氏に請け負わせている「朽木文書470号」賀茂別雷神社 社家豊兼証状案
1429年 正長2年 3月22日
貞経書状案 田中下野入道に対し御厨代官職に対する…
田中氏と御厨 室町期を通して長く続いた関係。
1497年 明応6年
船木北浜の若宮権現 棟札に地頭殿 能登守長綱 神主伊香氏 とある。
御厨と幕府の外様衆 佐々木田中氏
~~~*~~~
以上が、気になった点であった。
船木北浜と蒲生郡の舟木庄との関係は不明ながらも、同じ賀茂社に関わり、同じ名前である点が気にかかっている網野氏。
私も、そこが気になるんです。
佐々木田中氏と船木北浜との関係がわかっただけでも、ちょっと前進できそうである!
また、ワタリとは、渡里/渡氏のことかもしれない??
他の方の説で、ココに最初に住み着いたのは和邇御厨の人々 天皇の贄人 和邇の海民か…とあった。(9世紀)
羽邇っていう文字も気になりました。羽生くん今逆境にもめげず受けれて更に向上しているので。
和邇ってワ+ニだと和はワと読んでいるんですよね。でね、田中も佐々木もハニって音のが相性良さそうに思うんですよね、土の関係のハニ。
土はベースですからね。
今大阪和泉市との連動が出てきましたよ。大きな井戸もくり抜きであったようです。環濠集落も父の関係では多いキーワードです。お水制御で祓う信仰ありますね。
あとカニさんでも和邇の邇付いてなかったでしたっけ?米+邇でしたっけ?ニが大事そうですね。
あと渡りでいくと東北では二渡さんという神さんがいます。東京でも怪しい所行ってます。ワタリもキーワードになりそうですよね、今後。
楽しみです。大井様ありがとうございます。
品川の大井にも蔵王権現います。あそこにも木ですね。大きな井戸と水神さんと木の神様、根本のキーワードですね。巫覡じゃないとお水の制御は出来ないんでしょうね。9915