北の方に目をみけてみると「磐城平藩 九里達四郎」というものに目が留まった。
室桜関(読み)むろ おうかん
下に出てくる「九里鋒太郎」と関係がある人物だろうか?
http://book.geocities.jp/gifurekisi/rekisi/no17.htm
8.明治維新政府への磐城平藩と加納藩の対応
東山道鎮撫総督達
慶応4年(1868)1月21日、東山道鎮撫総督・岩倉具定が率いる討幕軍が京都を出発しました。このとき、中山道沿いの大名に対し、総督の本陣に出頭しない者は厳しく処罰するという命令を出しました。
28日、切通陣屋の上席郡奉行九里鋒太郎が近江醒ケ井の総督本陣に参上して、「藩主安藤信勇(のぶたけ)が未だ帰順の申し出をしていないが、それには磐城と言う地域的な事情や、祖父信正が幕府の老中であった事、および、それ以来の幕府との関係や、国元(磐城平藩)と美濃とは距離も遠く情勢判断に藩主が手間取っている」など、種々事情を陳謝釈明しました。しかし、磐城平藩藩主安藤信勇と不破郡岩手陣屋の竹中重固は、なお徳川慶喜に通じていたので、2月4日、重固の知行地と共に、切通陣屋管轄地(平藩美濃領32ケ村、石高1万7200石分)は接収され、これらは暫時大垣藩と尾張藩に管掌されることになりました。
2月22日、総督は河渡を経て加納宿に入り本陣に宿営しました。当時、江戸幕府にあって若年寄兼会計奉行という要職にあった永井尚服は、その要職を辞め、21日に急いで加納に戻り、総督の本陣に出頭しました。これが認められて、謹慎で済むことになりました。総督軍が加納を出発すると、加納藩は100人の兵を出して警護に当たると共に、途中から東征軍の先鋒となって江戸へ向いました。
こうして、慶応4年4月11日、東征軍は江戸城に錦旗を翻して無血入城し、これを接収し、慶喜は恭順の意を表して水戸へ退去することとなり、徳川260余年の権勢を誇った幕府は終に滅びました。
永井の字も出てますし、醒ケ井に行かれた方もいたなあ。
記事の内容は私には全く頭に入ってきませんけどキーワードはこちらの研究にもとっても役立ちます。6272