宗長:高長長男、初名小二郎という、前野右馬入道宗長と成る 滝口を称号す始祖なり。
宗長は尾張守平忠盛卿に召し出され、京師に罷り越し北門警固の御役儀を仰せ出られるため、御帝より滝口の姓を勅許蒙る者なり、よって右馬入道宗長をもって武門と成る始の人なり。
長高:高長次男 羽黒氏元祖 長高初名二郎という、羽黒二郎長高と成る。
長高の子孫は長俊・吉高・佐高
長俊の系は吉綱・幸範
吉綱ー安義・高光(土佐三郎)
安義ー義光・長光(羽黒村居住)
吉高(箱羽三郎云)-住高ー高俊(この人後僧と成る)
吉高の息安氏ー佐善(長谷部氏の元祖なり)
長高ー佐高ー祐義(長高三男 岩部氏と成る)
女子:
右は羽黒三党なり、岩部氏箱羽氏長谷部氏長高元祖なり、尾張国羽黒村に居住仕る者なり、羽黒長高は前野右馬入道宗長と共に京師北門警固の武門の家繁昌。
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宗安:宗長嫡子 佐兵衛尉、前野右馬入道宗安滝口を称号。
嘉禎元年1235年卒 七十二歳。
入道宗安の室は越後国頸城郡菅原天神の社家吉田氏の女なり。
宗安は尾張国守平忠盛公に召し出され忠盛の家人と成る、親宗長と共に京師北門警固の任に当たり、養和元年1181年信濃国の住人木曽冠者源義仲人数を催し越後国に乱入を企てるの時、相国平清盛公の御舎弟薩摩守忠度卿、越後国守城助職公加勢のために入道宗安を遣わされる、すなわち宗安人数を相集め越後国頸城郡吉田荘に下向、塁城に拠り取出を築きこれを守る、城助職公は越後越中勢を召し連れられ、信濃国横田河原に攻め入りなされ布陣、勢い盛んなり、さりながら戦い利非ず越後の国府まで敗退、同年六月越中国倶利伽羅の一戦に大敗、越後勢は四散廃軍と成る、御舎弟の長茂公に随い奉り共に山城国に隠れる、建仁1201年二月長茂公源氏追討のため、院宣を乞うも許されず、遂に東洞院御所に人数差し向けこれを囲む、この時入道宗安勇戦仕る、身方は無勢郎党多く討ち取られ大和国吉野郡吉野山なる処に隠れる、源氏の詮議は吉野山中に及び、やむなく同国生駒郡山中に潜み隠れるの時、院宣これあるに依り河内判官代に罷り出て旗下に参ずる者なり、この御陣は生駒山中に隠れ候いて依り十有余歳の後の事、入道宗安関ねんの宿志果さんと判官代に随い城南寺に駆け向う、河内判官代は尾張川に部署を定む、入道宗安は尾州住人中嶋左衛門尉と共に洲俣川を守る、宮方は敗退して北条義時の軍門に降る、中嶋左衛門尉は六波羅に願い出でなされ仍って旧領安堵の御沙汰あるに依り、入道宗安は左衛門尉の被官と成り、先祖代々の本貫の地前野邑九十五貫文下し置かれ候事、維時承久の歳三年春1221年 宗安公の事永正改め系図を写す。
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明俊:前野左兵衛尉高長三代、右馬入道宗安舎弟土佐坊明俊信濃国伊奈郡笠原牧居住、前野氏元祖。
明俊ー定俊(土佐坊)・宗光・高近(左兵衛尉高近勢州河内住居前野氏)
宗光ー宗吉ー安定(前野二郎宗光美濃国 土岐郡笠原牧居住)・宗高(前野氏)
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城長茂=長茂公とは、城四郎 のことで、城資長・坂額御前の兄弟である。
城氏(じょうし)は、平安時代から鎌倉時代初期に越後国に栄えた豪族。本姓は平氏。常陸平氏大掾氏の傍系で越後平氏ともいわれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%95%B7%E8%8C%82