藤堂高虎が前野長康の娘を洛北の岡田氏に匿ってもらえるようにと連れて行ったのが1595年頃と思われる。藤堂高虎が40歳の頃である。
藤堂高虎は加茂郡の常念寺に滞在していたことがあるのは1620年。
前野氏の事の以前からのつながりであったのかもしれない。
そして洛北には岡田鴨神社がある。この神社は常念寺と同じ加茂郡である。古くは加茂郡は「岡田」と言っていたそうだ。
藤堂高虎は江州中原氏の系図の中に登場する。同じ系の中にいる。
良峯姓の前田氏と江州の中原氏はどこかでつながっていたと想像できる。
そして、それこそが九里の祖である九里左衛門太郎経久 蓮忍入道の周辺なのではないだろうか。
この人と息・弟・甥の可能性もある常忍の二人は因幡国にいた形跡もあり、伊福部氏・長田氏を見知っていたはずの人たちである。
長田氏とは同族であった可能性もある。1249年あたりまで因幡国に居住していた。
平氏でありながらも(私の直系の九里は平姓)源頼朝の配下に入った良峯姓原氏と似た立ち位置にいる。
その九里と良峯姓の原氏が近い関係であれば、その良峯姓原氏と同族(兄弟からの分れ)の前野氏が藤堂氏に助けられるのも、納得できる。
もっともっと後の戦国時代にできた藤堂氏と前野氏の関係がそうさせたのかもしれないのだが(藤堂は前野長康雅自害に追い込まれた際に、その場にいた人物でもある)
氏族の関係も少なからずあったのではないかと想像する。
また、大和宇陀松山藩の九里に二度も佐々氏となった元の前野氏が養子に入ってきていることもその傍証と成るのではないだろうか。
そして、其の九里は、宇陀藩に入った際、最初の頃は「岡田氏」を名乗っていた。岡田政直とある。
その政直が九里に改めているのである。理由は記されていない。
ここに、私はつながりを感じる。
しかももしも岡田鴨神社に潜んでいたことがあったとすれば、そこも賀茂氏と関係がある場所である。
1615年 織田信雄 宇陀藩主となる。
もしもその匿われた1595年に岡田政直として九里政直が生まれていたとすると、1615年には二十歳である。
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常念寺
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近くに岡田国神社も見つけた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE