山科家の山科東庄の栗を贈答としていたことの論文の中に「家司久守」(大澤久守)が登場する。
この方は、お花(立花)でも有名であり、掘り下げようと調べていたら、菅浦文書に記載があることがわかった。
それらを読んでいると「九里三郎」が登場。
天文九年のことである。(1540年)
天文元年(1532年)には山科本願寺の戦い=天文法華の乱
九里源兵衛も調停役となっていた乱である。(調停に失敗)
近江愛智郡志 2巻 九里三郎が信長に仕えている時のもの ↓
さて、一体どのようなことが書かれているのだろう。1560年 永禄三年??
永禄三年に、もう信長の配下に九里三郎左衛門がいたのだろうか?
(三好山城守長康と思われる)三好山城守の馬の耳を鯰江八郎貞政が射貫き、其の矢を三好から信長に渡すのに、三好の使者から九里三郎左衛門に渡り、信長に渡しているようなのだが‥‥
観音寺騒動
この観音寺騒動までは、九里も佐々木六角氏に付いていたと思っていたので、ちょっと意外である。
もしかすると永禄三年の八月の野良田の戦いの際にすでに浅井氏に付いていたのかもしれない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%89%AF%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
六角家は三好三人衆と結んで義昭と敵対する側に回り、義昭を奉じた織田信長・浅井長政に攻められるという事態を招いたと言える。 (wikipedia)
そうか、足利義澄を以来は将軍家の近くにも九里はいたはずなので、きっと九里浄椿の裔がいたのだろう。
九里三重郎(1500年位の生まれか?)の息なのかもしれない。孫かもしれない。
そう思うと、九里も佐々木六角氏の配下にいた者・佐々木京極氏の配下にいた者、または浅井氏に移った者、将軍家についていて信長にも近くなった者…と様々である。
佐々成政に知行宛行状なるものが見つかっているようなので、佐々氏の下にもいたはずであり、その人物こそが我が九里の直系と思われる。
佐々成政は1550年に織田信長に仕えている。