大江広元 1148年生まれ である。 つまり15歳で娘が生まれたとしても1163年生まれとなる。
一方
源義朝 1123年生~1160年没
つまりこの年の差から見て、娘が義朝嫁ぐ…という事はありえないと思う。
一方、それが何かを表わしているとすると、義朝に嫁いだ『中原氏』『大江氏』がいたのかもしれないという可能性である。
古い系図に「中原」「大江」など一言書かれていて、中原・大江ならば「広元」であろう‥‥と誰か早合点したのではないだろうか?
そして、源義朝に嫁いでいた朝長の母が、もしかすると中原であったかもしれない可能性を思うのである。
波多野義通の妹と云われているが、もしかすると以前ご紹介していたこちらにも義通に嫁いだ女性の妹のことではないか?とあったように思う。
中原の女性が波多野に嫁ぐ。その女性の妹が源義朝に嫁ぐ。
そして、義朝に嫁ぎ朝長を産んだ女性は離婚し、中原に再嫁する。充分にあり得ると思う。
その朝長の弟となる息が久経であったろうと思う。
更にその朝長には姉か妹がいて、その息が親鸞であったという説であったと思う。
親鸞1173年生であり、こちらも充分にあり得ると思う。
久経の異父姉となる女性が親鸞を産んだという事になる。
波多野義通の妻は「中河辺清兼」とwikipediaにある。
一人ではなかったかもしれないが、いちおう中河辺氏を調べてみる。
秦野氏市史によると
「『秀郷流系図』(松田)には(経)馬允義常の母は中河辺清兼の女とある。清兼の女姉妹は、姉は義通の妻となり、妹は義朝の妾となって朝長を生…」とある。」
「波多野義通の妹坊門姫あるいは中河辺清兼の女ともいう。範兼.則兼は「範」,
今のところ、この程度だが、気にかけておけば、判るかもしれない。
因みに「中原清兼」は存在する。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/d31c799782a353f776d99ea8e30aaa1f
こちらを先にご覧いただけますと、全貌がわかるかと。
コメントありがとうございました。
広元が1148年生まれという事で正しいならば、広元自身が12歳の時に義朝が歿しています。
娘云々以前に、まだ広元の子どもは、一人も生まれていなかったかもしれません。
・・・という意味です。
結構「二人の年」が離れていることがわかりますね。
それよりもなぜ、広元が東国と関わることとなったのか、そこが知りたいと思っております。
源義朝 1123年生~1160年没」
廣元の娘が義明の嫁になったのは上記の経緯、無理ではとの解釈ですが、物理的には可能でしょう。
大江広元(1148~1225・6/10)78歳卆と家譜は書きます。
次代の四男李光は1202年生まれですので、廣元に子作り能力はあったと思います。
義明はもっと早く殺されました。
義明が死ぬ前までに廣元は記録上四人の子を産んでいます。(記録外はわかりません)この辺が系図で判断すると危うい元となります。
しかし系図上は女は五人いますが一人を除いて嫁家が分かっています。
後の一人が不明ですが、義朝の嫁なら後世大々的に書くはずなのですが、頼朝の父とは当時認識していなかったのかもしれません。
古い系図ほど後世のその子供たちの活躍など分かりませんから淡々としています。
ただ、義朝に嫁に大江広元の娘が嫁したエビデンスにはなりません。
何故か昔、義朝の墓がある「野間大坊」に行ったことがあり、何気なくお守りを買って車につけていますが、10数年になりますが事故や自損をしたことはありません。有難い事です。
これもご利益でしょうかね。
本当ですね。
八田=ハ+タ
萬幡豊秋津師比売命・栲幡千々姫命のハタ、も、気になっています。
これから宇都宮と絡んできそうなのです。
薩摩遺跡って奈良にあるの?ってびっくりしたんですけどそこで出てくる木簡に波多里長檜前主寸(スグリ)ってあったんでそれを思い出してコメントしたようです。スグリって音だけでも黒すぐりが好きなんで気になっていたんですけどこの字が木簡であるので今後はこっちで色々と妄想しようかと思ってます。檜前も良く出てくるのと隈の文字も熊も和歌山にも山形にも繋がりそうで楽しみです。波多ノは間の調子付け意味もありそうですけど、〜ノ〜っていうのは個人的には好きですし、文字通りに読まないからまた文化風習もあるので民族は決まってきそうにも思います。柿本人麻呂あたりと絡むと東北や北陸にも行けそうにも思います。
でそんな事よりも面白いのが里というおそらく範囲を指す言葉に長付いているので役職なのでしょう。里長ってのがあり木簡等でも郷への移行とか律令前後の変化とか気になって研究されていそうですからまた面白そうですよ。時代は奈良なのでもっと前が知りたいんですけど、潅漑や池なので治水なのも確かですからドンピシャでした。で里って九里さんの文字にも入ってますよね。
そう思うと確実に村の単位を収めていたお役目を持っているお家でおまけに里が継承されているとしたら凄い嬉しい事です。梅雨を迎え、明日から東京は降ってくるみたいなんで少なくても素質ある方々が地形に応じて考えて対処をしないとお水の被害は今後も続きますからね。大江さんも多いですよね。あと仁徳さん絡みも。今関東で人徳さんを探しているんですよね。そのワークにも繋がりそうです。
9個(数字で行くと最多)の里を管理出来た長(オサ)がいるべき所は多分決まってるでしょう。里については論文などきちんとした資料もありそうですが私はそっちではなく時代ももっと遡って古墳時代で長がいるなら探してみます。朝長の最期もどうなのかな?大江さんの義朝との絡みも含めてドラマがありそうでワクワクします。
そんな事はこちらでは枝葉かもしれませんが、それぞれの関係者が枝葉を主要な枝として調べてくれると見えてくる木は別物にもなりそうに思います。
村主はスグリで主寸もスグリだとすると文字とも関係ない当て字っぽくも思いますよね。むしろ里のがリって読むし、徳川は一里塚ってこだわっていたようにも東大の門の辺りでもあったような?松だったかなぁ?この辺りの関係と里が気になります。ちらっと見た里刀自って文字また色々と関係してきそうです。
私は義朝の周りはスルーした方が身体にも良いので高市あたりと大阪平野の長原あたりを考えておきますね。
ちょっと思ったのが私の好きな八重姫さんと繋がってこないのかあな?と。そう思うと色々なドラマがありそうですよね。義朝も嫌いではないので個人的に年齢的な物も含めて考えてみようと思います。でヒントなどが現実に何か起こらないか?と楽しみです。
別件で古墳の方だかでハタノっぽい文字の羅列をみたような?木簡だか?なのでハタでは旗とか幡とか普通に考えちゃうんですが、ハ+タで考えると八多と八田とか羽田とか波多とか。でそこに野があると灌漑っぽい立地なのでお水の制御はうまいはずですよね。五穀豊穣にも影響及ぼすので。畑とか畠とかも、文字が付く芸能人とかもイメージ入れたりもしちゃいます。
一般的には秦や機になり七夕近いのでそっちに誘導されちゃうんですが、お水の祓いと考えると川や水、水無月(水の月)でもあるし衣は石器時代でもやっていただろうけど縄文の縄を作る事出来ないと縄文時代も来ない。定住出来るのはお水の制御が出来ないか知識で避けられないと無理なのでまずはお水の観点でのハタを考えてみたら石器時代から縄文弥生って繋がってきそうに思うんですよね。そこにハタノが物理的にな証拠がある物で関わってきそうならお知らせいたしますね。