尾張国の佐治氏。
知多郡にある大野城の佐治氏のことになろうと思うが、尾張氏が祖という説もある佐治氏なので、それ以前にも尾張国にいたことがあったのかもしれない。
姓氏・姓氏研究の決定版 丹羽基二 著
『子孫に熱田神宮の社家、氏人の一族がある。
広畠、橿園、望月、篁岡、... 主なものは、荒木田姓(伊勢内宮祠官)、藤原南家真作流(美濃)、清和源氏斯波氏族(美濃)、織田氏族(美濃)、桓武平氏佐治流(尾張)、清和源氏多田氏族(摂津)、三善族(石見)など。』とある。
知多郡は『熱田神宮領』の多いところとのことが関係するのかもしれない。
さて、佐治一成の周辺を調べていこうと思う。
この佐治氏は柏原藩の『柏原織田家臣系譜』の中に名が挙がっていた。
また、尾張群書系図部集には佐治氏がかなり載っていた。
下は、徳川諸家系譜より
尾張国大野城主佐治為景の嫡男が佐治信方で妻が信長の妹お犬の方=大野殿または大野姫である。
信方21歳で討死している。
お犬の方は二人(佐治一成・中川秀休)を産み、信方没した後に実家にいったん戻る。
信方没して三年後に山城槙島城主細川昭元に再嫁。
信方の息であった佐治一成の妻は浅井長政の娘お江で、後に離縁し、
織田信長の娘於振(お鍋の方の娘)が嫁いでくる。
この於振は、初婚は水野忠胤で三人の子どもがいた。(水野勝信と南條宣政室・丹羽氏信室)その後佐治一成に再嫁し、為成を産んだか、または、養子として取ったかである。
(為成が、秀休の息となっている系図があったので。)
この、佐治一成は織田信雄の家臣であったという。
そして、その後 岡田重考 に加担して、信雄に追われたそうである。
しかし、佐治一成は、織田信包(のぶかね)の家臣として初代藩主の信包について丹波柏原藩に入っているはずである。
(その頃、我が系の九里(岡田)氏は、まだ大和宇陀松山藩にいた。)