知多郡の大野城と岡田村は徒歩圏である。
この岡田村にいたのが大和宇陀松山藩と柏原藩にいた岡田氏のいた場所となりそうである。
つまり、佐治氏の隣に岡田氏がいたことになる。
岡田氏となる以前には山田氏で、尾張国山田郡菱野村(瀬戸)という場所にいた。それが以下の場所となる。
web 情報によると、
http://www.oshiro-tabi-nikki.com/hisino.htm
菱野城は、平安時代末期に山田重定によって築かれた。文治年間に至り同族山田重忠は、山田庄の長となり、重忠の曾孫山田泰親は上菱野、その弟山田親氏は下菱野の地頭職に任じられた。
上段 ↑ 泰親 山田三郎 ・下段に重政(岡田村に移ってきた人物)
重頼が岡田與九郎(与九郎)であり、織田信秀に仕えていたという。つまり佐治信方と同時代を生きた人物である。
息の重能もまた織田信秀・信長・信雄に仕えたという事から、佐治一成と同時代となろうと思う。
しかも、この重能(重善・直教)から尾張の星崎城に居城していた。(天正十一年3月26日歿)
尾張群書系図と柏原織田家臣系譜では系図が違うので、何が本当かはよくわからないが、
上記に貼った尾張群書系図では重能(重善)の息直孝が天正十二年3月3日に誅されている。
柏原の系図では、重善が直孝(重孝)と同一人物となっている。しかも、重頼を入れて6代目に信長に生害された重善と記載されている。
尾張系図の方は重頼の孫に信長に生害された直孝、となっている。
どちらも間違いかもしれないし、ココでは佐治氏のことなので、これ以上は踏み込まない。
今回は、いかに岡田氏近いところに佐治氏がいたのかがわかったことが収穫であった。