因幡国の佐治氏に関して調べてみた。
長田氏は高草郡高庭庄の開発領主として発展した。高庭庄は奈良時代に発生。たかばながた遺文』)」に、「因幡国御家人佐治四郎重貞申、佐治郷司地頭等職事」(系図研究の基礎知識 第二巻 近藤安太郎著)とあるそうで、長田氏の文書の中に此の佐治氏が登場している。
また、「建暦三年(一二一三)の「関東御教書案」 (『鎌倉遺文』)に「因幡国御家人佐治四郎重貞申、佐治郷司地頭職事」(歴史と文化を探る日本地名ルーツ辞典)
因幡国佐治谷の開発領主佐治氏の所領支配についての研究もある(仲村研「中世地域史の研究」高科書店)
鳥取県史第2巻第一章にも、佐治氏に言及されており、佐治重貞の父は道貞、重貞の兄は安貞であり、この兄は『曳田大夫康貞』であるそうだ。
曳田氏が、疋田氏と同じであるならば、斉藤氏・大江氏と関係があると思ったのだが、、、、
実は因幡国八頭郡の八上村の曳田郷からきた名字だそうだ。
上記から『長田氏』とつながりがあったとすれば、九里の祖、近江国の中原氏から九里氏となった者たちとも近いところにいたにちがいない!
しかも御家人とある。さらに本姓は尾張氏という。
1213年(建暦三年)弁官補任裏文書にある内容は、wikipediaにもあるように
「佐治郷を継承した弟・佐治重貞は当時幼少であったため、康貞が長らく佐治郷司職の代行をしていたが、弟の成人後も所職を返還せず、実子・重久に譲渡してしまったために鎌倉幕府に訴えられた。建暦3年(1213年)11月、争っていた重貞が和田合戦で功を為したのが後押しとなり、訴訟に敗れ所職を返還した。」
重貞と兄安貞の父とは佐治道貞のことである。
道貞は「本姓を尾張氏といい、八上郡司の尾張氏の一族であり、佐治郷司を務めていた。」とある。
佐治郷周辺 同地図に冨城郷(地頭冨城中太蓮忍)・岡益の碑・若桜城付近(矢部暉種あきたねの城周辺)も載っている。
出羽中条家文書に何故因幡国の地頭職の文書があるのか。
なぜ出羽中条家文書に『因幡佐治郷北方地頭職和与状案』とあるのだろうか?
謎である。