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平時信(娘二位尼)・時忠(建春門院の異母兄)・時家(妻上総広常・妹中山忠親室・娘大江親広室)

2019-11-24 | 雑記

【岡益の石堂】が安徳天皇陵であり、近くの【新井の石舟古墳】は安徳天皇の母である「二位尼の墓」とする伝承が存在する。

『二位尼』(にいのあま)は平時信娘「時子」である。
という事は、時子は時忠と兄弟姉妹である。(同母)
さらに建春門院も姉妹である。(異母)
妹に中山忠親室もいる。(異母)
蕨姫も異母妹で、その夫が義経となる。


時忠の長男「時実」は上総国へ流され、次男「時家」は「信時」となり源頼朝の側近となる。
信時は上総広常の娘を妻とする。

時忠は壇ノ浦で捕虜となり、4月26日に入洛した。時忠は神鏡を守った功績により減刑を願い、娘(蕨姫)を源義経に嫁がせることで庇護を得ようとした。

時忠の娘と義経の婚姻について『平家物語』は機密文書の奪取が狙いだったとするが、義経が承諾した理由は不明確である。義経は検非違使として都の治安を担っていたので、長期に渡り検非違使別当を務めて警察権を握っていた時忠の地位を継承しようとしたのではないか、という指摘もある。

時忠は神鏡を守った功績により死罪一等を減じられたとされるが、武士ではなく文官であり死刑が予定されていたかは疑問である。

===*===

その二位尼が、宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを生み、娘の建礼門院(徳子)は承安元年(1171年)、高倉天皇に入内する。中宮の母として徳子の出産に関わった。

また、高倉帝の諸皇子女の出生や成長儀式にも深くかかわり、清盛一門と皇室との関係を結ぶ役割も果たした。

安徳天皇の祖母、二位尼。
なお『吾妻鏡』には、時子は、三種の神器の一つ天叢雲剣を持ち、安徳帝は按察使局が抱いて入水したとあり、按察使局は引き上げられて助かっている。また『愚管抄』には、時子が安徳帝を抱き、さらに天叢雲剣と三種の神器のもう一つである神璽を具して入水したとある。

その「按察使局伊勢」
按察使局伊勢(あぜちのつぼねいせ、生没年不詳)は、平安時代の女性。平時子、建春門院、建礼門院に仕えた。

父は藤原公通。出自については諸説あり、母は大和石上神社祠官の娘とも伝わる。また、幕末の真木保臣は末裔と伝える。

はじめ、時子に仕え、後に徳子の入内に従った。寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いでは時子らに従い入水するが、源氏に生け捕りにされる。千歳川のほとりの鷺野ヶ原に移住した。吾妻鏡にはこの按察使局が安徳天皇を抱いて入水したとある。

その後は剃髪し、千代と号し、平家一門の菩提を弔った。また、村人たちから慕われ尼御前と呼ばれていた。村人には加持祈祷を行っていた。その社は尼御前神社と呼ばれ、水天宮の由来となった。晩年、平知盛の次男・平知時の四男・平右忠を肥後国から迎え、養子とする。

現在は、千代松神社に祀られている。

===*===

建礼門院(徳子) wikipediaより

『平家物語』によると徳子は安徳天皇・時子の入水の後に自らも飛び込むが、渡辺昵に救助されたという。しかし同じ『平家物語』の「大原御幸」の章や説話集『閑居友』では、時子が「一門の菩提を弔うために生き延びよ」と徳子に命じたとしている。

いずれが正しいか不明だが、生き残った徳子は平宗盛・平時忠らと京都に護送された。
宗盛は斬首、時忠は配流となったが、徳子は罪に問われることはなく、洛東の吉田の地に隠棲する。 5月1日には出家して、直如覚尼と名乗った。

7月9日、京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊した。吉田の坊も被害を受けたと思われ、9月になると徳子は「山里は物のさびしき事こそあれ 世の憂きよりは住みよかりけり」(『古今集』読人知らず)の心境で比叡山の北西の麓、大原寂光院に入った(『平家物語』)。

大原を訪れた建礼門院右京大夫は、
御庵のさま、御住まひ、ことがら、すべて目も当てられず (ご庵室やお住まいの様子など、すべてまともに見ていられないほどひどいものだった)。

===*===

按察使局伊勢の父が「藤原公通」であった事に驚いた。

公通の息が藤原実明である。
そして、実明の息に「慈信」改め「蓮乗」がいた。蓮乗の祖父が基仲帥。(もしかすると大和石上神社祠官であった人物かもしれない)

実明の姉か妹が「按察使局伊勢」だったのである。

その按察使局伊勢の甥が蓮乗であり、その周辺に蓮忍がいたのではなかろうか。
その縁もあって因幡国冨来郷の近くにあった「岡益の石堂」を守っていたのではないだろうか。

そして、地理的な近さもあって「丹波国室尾谷観音寺・河守御庄地頭職」に抜擢されたという事もあるのではないだろうか。1247年あたりのことである。

1250年付近に関東に居住しているので、それ以前のこととなる。

 
藤原公通の息実明とのつながりが見えてきたような気がする。


石上神宮
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E5%AE%AE

上記の真木氏とは、牧氏や万喜氏にもつながっていると思う。
また少し調べただけだが、小田知家(八田知家)も常陸真木氏である。
寒河尼と中条家長も同じ流れの中にいる。

このあたりから、東国とつながっていたのかもしれない。


【按察使局伊勢】の周辺を探ってみたい。
異説日本史: 史蹟社寺篇. 第10巻にヒントがありそうである。


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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-12-01 15:00:20
真木氏、歴史ではほとんど知らないんですけど多分全国とは言わずとも広範囲の地域を繋ぐには必要な一族だと思いますよ。
奈良と熊本あたりも。近江と関東や兵庫と大阪経由の奈良京都も。真木蔵人くろうどさんのお名前も昔から気になってまして、奈良で探している黒の付く方が真木氏だと凄いんですけどね。サッカーの巻さんや槇さんや牧さん辺りが聖武天皇の頃関東にあった牧と関係あるならワクワクしますよ。馬も牛も蛇も木も全国各地へ運んでくれそうで。稲や米もかな?
久々にマキ氏調べる気になりますね。黒彦さんも。
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