https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/af9bb930761d7ac9b087bb7873257052
この「土岐系圖」によると、明智光秀は土岐系山岸氏の山岸信周の四男だとされる。母が明智光隆の姉である
※宮城家伝『明智氏一族宮城家相伝系図書』
光秀 享禄元年戊子8月17日、生於石津郡多羅云云。多羅は進士家の居城也。或は生於明智城共云云。母は進士長江加賀右衛門尉信連trong>の女也。名を美佐保と云。伝曰、光秀、実は妹聟・進士山岸勘解由左右門尉信周の次男也。信周は長江信連の子也。光秀実母は光綱の妹也。進士家は於濃州、号長江家、依領郡上郡長江ノ庄也。称北山の豪家云云。明智光綱家督相承て、取結妻縁后、既経8年の春秋。然共、生得病身にして、不設一子、齢及40。因テ為其父・光継の賢慮、光秀誕生の時、其侭取迎之、為養子、相譲家督。因光秀、成光綱の子、然るに、以叔父・兵庫頭光安入道宗寂為後見、住其本城。弘治2年丙辰9月明智落城。後暫浪人、仕足利義昭公、後仕織田信長。天正10年壬午6月13日夜、於城伏見小栗栖生害。年55歳。
光綱とは明智光隆のことだそうである。
さて、生まれた土地は母の出身地であるかもしれないが、住んで後に応援者となる知遇を得たのが佐目なのかもしれない。
長江氏は実は江州中原氏からも出ている。
そして包枝進士氏は越前太良荘と関係があり、渋谷経重の差配のもとで働いていたことが東寺百合文書でうかがえる。
九里経重と同年代の人物である。
九里経久(蓮忍)の息となる経重。
この進士氏と後に戦国時代に出てくる「山岸進士氏(明智の母」と関係があるのだろうか??
wikipediaによると
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%A3%AB%E6%B0%8F
進士というのは、始まりは律令制の大学寮学生で式部省が課した試験(考試)に合格したものを云うのだそう。そののちに苗字となっていったようである。
鎌倉時代の吾妻鑑には何度かその名前が挙がっている御家人である。
明智氏とのことはよくわからないが、進士氏のことはもっともっと知りたい気分である。
海野通廣(覚明)という「木曽義仲」の右筆であった人物も「進士蔵人通廣」と同一人物であるようだ。中原(姓)海野氏である。
この人だけではなく、いろいろな方向から繋がってくる進士氏なので、これからは注視していきたいと思う。
姓氏家系大辞典より↓
私は女系追っているので明智光秀のお母さん興味深々です。