web上のあちらこちらより多賀菅六久利の周辺を集めています。
千葉氏「河越氏」のページより↓ https://chibasi.net/kawagoe2.htm
山中に迷ってしまった。このとき義経の陣中には三草山の夜襲で生け捕った捕虜がおり、そのうちの一人を召し出して問うた。するとこの捕虜は、
「この山は鵯越と申して、さがしき山にて候とぞ承り候」(さがしき=険しい)
と答えた。
義経は、
「そもそも和君は平家の伺候人か、また国々の駈武者か」
と問うと、彼は、
「平家の家人にても候はず、駈武者にても候はず、播磨国安田庄の下司、多賀管六久利と申者にて候が、去ぬる頃先祖伝来の所領を故なく平家の侍、越中前司盛俊と申す者に押領せられ候ひて、この二、三年の間、訴へ申候得共、訴訟達せずして罷り過ぎ候、所領は取られ候ひぬ、疵無き死し候はんよりは、同じくは弓矢を取って戦にこそ死に候はめ、と存じ候てこの手に付きて候」
と申上したため、義経は彼の縄を解き、道案内に立て、鵯越から下の一ノ谷に陣を構える平家の軍勢のもとに駆け降りて壊走させたという。
義経伝説と文学 さんより
http://www.st.rim.or.jp/~success/simazu_h05.html
更に伝説的興味のある義経の部下としては、鷲尾三郎経春(『盛衰記』巻三六)(『平家』(巻九)には鷲尾庄司武久の子、三郎義久、幼名熊王。又『盛衰記』所載の「異説」には播磨国安田庄の下司、多賀菅六久利)と、下部喜三太とを挙げなければならない。一は鴨越坂落しの案内者として記念の姓名まで拝領し(『盛』巻三六、『平家』巻九)、「十二人の空山伏」の一となって奥まで御供した(『盛』巻三六)健気な勇士、他は「下なき下郎」(『義』巻四)ながら堀河夜討に高名して、「何ともあれ、おのれと義経とだにあらば」との御感を蒙り(同)、更に鬼一法眼と結びついては、一躍して重要な人物となった。
人物源義経及び配下の軍勢、武蔵坊弁慶・鷲尾三郎経春(『源平盛衰記』)(『平家物語』は鷲尾三郎義久、幼名熊王丸、『長門本』には加古菅六久利、『盛衰記』所載の「異説」にも多賀菅六久利とし、『義経興廃記』には鷲尾庄司武久の子三郎経久、幼名熊王丸としてある。『義経勲功記』は『平家物語』と同じである。又『広益俗説弁』(後編巻三、士庶)には三郎経春と云う名ではなく、十郎清久と云い、義経から義の一字を賜って義久と称したとしていて、各々一定しない)年代 元暦元年二月七日払暁(『盛衰記』『平家物語』)(『吾妻鏡』も同じ)
場所 摂津国一の谷鴨越