鳥居禅尼は源為義の娘。源義朝の異母姉という。
一方、義経は源義朝の息である。つまり義経から見ると叔母にあたる。
そして鳥居禅尼の娘の1人は、18代熊野別当湛快[1](1099年 - 1174年)の次男湛増(21代熊野別当)の妻になった。ということは、その湛増の息に武蔵坊弁慶がいたことになる。
義経から見ると叔母の娘は従姉妹で、弁慶はその息子である可能性もある。
が、
下記の系図では湛増が実は為義の息であることになっているので、湛増が義朝の兄弟となる。
つまり義経から見ると湛増自身が叔父であり、叔父の息子が弁慶となると、義経と弁慶は従兄弟関係となる。
和歌山の九里は熊野本宮の社家の高須家と養子縁組をしていた。
さらに、高須家はもともと大江氏であった可能性がある。(系図が繋がっている)
とすれば、九里は中原氏、高須氏は大江氏で、鎌倉時代は系図が重なっている部分もあり、ごく近い関係であったと思われるため、後々まで養子縁組となったのかもしれない。
忘れないうちに書いておくと、高須五十規(いつき)は国学者であって、訳あって幕府より逼塞となった際に、上の系図にある鵜殿家に助けてもらったように思う。
詳しくは、また調べてから書きたいと思う。
九里の系図に「住熊野」とあるが、鎌倉も中期くらいのことだろうと思う。
九里氏は、鎌倉初期から中期に中原氏から近江国・紀伊国・(下総国)に活躍の場が別れていったと思われる。
九里氏としては、近江八幡の九里村・奥嶋の周辺・紀伊国は熊野本宮・新宮が在住拠点となり、
富木氏としては関東、富木常忍のいた下総国中山法華寺周辺と上総国藻原が在住拠点となったように思う。
九里氏は紀氏・一井氏・浅小井氏・目賀田氏と元からつながりがあったか、鎌倉時代に出来たかで、管轄であった舟木庄に土岐氏が逃げてきた際に咎めもせずにそのまま暮らせるようにしていたことからもわかるように、紀氏とは深く繋がっているのだろう。(土岐氏は石清水八幡宮紀氏と密な関係であった。)
そして富木氏も国東半島の周辺の紀氏とつながりを持っていたのではないかと思う。
紀氏の「紀」は紀伊国の「紀」でもある。
沙沙貴神社の社家である木村氏も「紀氏」と関係が深いと思う。
戦国時代には木村氏に大変ご迷惑をおかけしている九里なのであるが。。。