九里 【九里】を探して三千里

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国衙の在庁官人

2019-01-03 | 雑記

【日本中世の身分と社会】 丹生谷哲一著 塙書房
p.343 A 伊賀国御家人中原能兼愁状
建長元年(1249年)下総・伊賀両国守護千葉介に京都大番役が宛て課せられたときのものと推定され、このとき伊賀国御家人で「十一ヵ所後領内久吉名」公文であった左近将監中原能兼

この「公文」という職は、コトバンクによると

(1) 律令制下の諸官衙から出す文書の総称。諸国から京都に出す公文のうち大計帳,正税帳,調帳,朝集帳を四度公文という。
(2) 公文を取扱う役人や職員をいう場合も多い。神祇官公文,院庁官の公文,後院司の公文などがあり,貴族の家で文書を扱った役人をさした。
(3) 平安時代末期以降の荘園を管理する荘官の一つ。本来の職務は文書の取扱いであったが,下司,総追捕使とともに三職荘官と呼ばれる場合もあり,領主化してゆく者もあった。

次に左近将監。これは和歌山の九里系図の中に「小堀の祖 左近将監兼光」という記載がある。
この兼光と能兼とつながるのかもしれないが、小堀の祖の後の系図がない。
残念である。

本の続きに戻ろう。私にとって重要と思われるところを pick up していく。
ニ 在庁と御家人 

庄園領主の勢力争いの強い畿内近国においては、国衙在庁と何等かの関係を持たずに武士団から孤立した庄官層は、庄園領主の庄力に抗して御家人身分を保つことは困難であったのではないだろうか。
東国西国を問わず、各国に存在しているが、西国において御家人になったものの中にはこうした武士団に属するものが殊に多かったのではないだろうか。

と、有力在庁の下に結集された武士団がまとまって御家人となっている西国御家人の特徴を指摘された。(指摘したのは田中稔氏)そして若狭国御家人について氏は「東国の主要な在庁官人はほとんどすべて御家人になっていた」とも述べている。

西国御家人のほとんどすべては在庁官人であり…

~~~*~~~

これは、因幡国にも当てはまるかもしれない事例であり、見逃せない。
冨城氏も、在庁官人でありながら、御家人でもあり、かつ武士でもあった…という事にもなるのかもしれない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E8%A1%99

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E5%BA%81%E5%AE%98%E4%BA%BA

http://www1.city.matsue.shimane.jp/bunka/matsueshishi/kouza24.data/kouza24-10hara1.pdf

伊賀国御家人中原能兼も千葉氏被官で「法蓮」ともつながっている。

丹生谷氏が註に書いている。
【ここで想像をたくますれば、この伊賀国御家人中原能兼という人物は中山法華寺の開設者富木常忍その人と密接な関係を持つ、むしろ同族ともいうべき人物だったのではないだろうか。富木氏が因幡国府に近い富木郷の出身で富木中太蓮忍の時代に関東に移住して下総国守護千葉介に仕え、常忍が千葉氏の執事的な存在であったことはすでによく知られているが、千葉氏と富木氏の関係について最近石井氏は「武芸で奉仕するのではなく、もっぱら一種の書記役或いは裁判官役、というような、いわば中世的役人の一人として千葉に仕えていた。本国の因幡国で、国府に隣接した富木郷を本拠地としていた所から見ると、国府の役人である在庁官人であった可能性が高い」と述べている(石井進『中世を解く』 古文書入門 東京大学出版会)。ところで「日蓮遺文紙背文書」の中には、富木蓮忍が、さる建長二年ころに「富城中太入道蓮忍」から譲与された所従らが、関東に居住している間に、因幡国一の宮である宇部神社の公文によって押領されたので、譲り状に従って糺し返して貰いたい、と訴えているものがある。(「中山法華寺史料」11号、「鎌倉遺文」10-726 6号。石井進氏前掲書参照)この常忍訴状の年次は不明であるが、建治二年(1276年)三月のものと思われる。富木常忍宛日蓮書状(「鎌倉遺文」16-12284号)に「所従若亡・・・・」とあるのは、この所従のことを指しているのかもしれない。」)これによって、富木蓮忍・常忍の本姓が中原であったことが知れるわけであるが、とすると、さきの伊賀国御家人中原能兼についても同族関係が想定されてくるので、千葉氏が伊賀国守護に補任されて「十一ヵ所御領」(守護領)を管領するにあたり、その「公文」として執事家富木常忍の同族の者がその沙汰に従った可能性は少なくなかろう。

~~~*~~~

何度読み返しても、うれしい!
富木氏が中原氏であったことが、ますます確かになった瞬間であった。

中原能兼は、大番役をしないとし、千葉氏ともう一通千葉氏に渡してくれるように「ほうれん」にも書状を宛ている。

この「ほうれん」が「法蓮」であろうとも書かれていて、曾谷教信のこととなると思われる。

ちなみにだが、同じような時代に「大中臣能兼」や「中臣能兼」他「能兼」と名のつく人が多いので、これから調べていこうと思う。






memo
中臣能清 能基 能行 能兼 兄弟 (父能基から義絶)


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