以下のページにあった情報より、調べ思ったこと。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hiki1.htm
一番下の👇
3 比企能員の父祖・近親と実系
能員の実父も養父掃部允も、実名は確実には不明であるが、掃部允「遠宗」の名は『埼玉叢書』所収の「比企氏系図」にも同様であるから、これを一応、採っておく(ほかに、遠長とも能丈とも見える)。掃部允遠宗の長子に比企藤内朝宗があげられ、その娘は北条義時の室となるが、『平家物語』『源平盛衰記』には「比企藤内朝宗、同藤四郎能員」の順であげるから、この辺も信頼してよさそうである。
比企氏の系図で、とくに能員の父祖が不安定な所伝であるのは、その祖父とされる宗員から他家との猶養子関係が入ってきているからと思われる。宗員自体が秀郷流の佐藤大夫清郷の猶子とも実子ともいい、その子におかれる遠宗が実は左馬允藤原有清(清郷の子)の子ともいわれる。遠宗が妻とした比企尼は、藤原公員の妹であって、公員の子の能員を養子に迎えたと伝えるが、公員はやはり秀郷流藤原季清(西行法師の祖父)の曾孫ともいわれる。
公員は佐藤孫八郎と号したというが、どこに居住したのかは不明である。藤原季清の後裔の佐藤一族は紀伊国田中荘に領地をもち、京で衛府に仕えたものが多いから、公員もこうした基盤をもった可能性も考えられる。比企尼の長女丹後局が京官人の惟宗広言の妻となって、島津忠久の母となったのも、比企尼が京に縁ある出自であったことを示唆するものか。比企尼は京で、頼朝の乳母を務めたとされるから、これも京近辺の出身であったことを示唆するか。
能員の家族は、北条氏により族滅されたが、その子・弥四郎時員の子の員茂(員成ともいう)がわずかに生き延びて、子孫を後に伝えるといい、これが関東管領上杉家家臣、幕臣の比企氏、さらには現代までつながることになる。この員茂の母は、足立民部丞遠兼の娘といわれるが(年代的に考えると孫娘くらいか)、比企尼の女婿の安達藤九郎盛長といい、比企一族が武蔵古族の流れを汲む安達・足立一族とかなりの通婚を行ったことに留意される。
~~~*~~~
この説によると比企尼の兄は「藤原公員」となる。これがヒントのようである。
wikipediaにあったが、良く調べていくと別人であったようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%AC%E4%B8%96
兄弟が同じ母親とすると「佐々木判官定綱」の娘である。
これは、大変!と思って、遡ってみると「八条実俊」が父、「源資賢」の娘が母。
この源資賢こそは、宇多源氏であり、父が源有賢、母が高階為家娘である。
有賢は、よく聞いたことのある名前である。
なぜならば、有賢の息に「佐々木秀義」となる『資長』がいるからである。
資賢が資長の兄にあたる。
佐々木定綱(1142年生まれ)は秀義(1112年)の長男であり、その娘が公世の母となる。
1160年代に生まれた公員であれば、その妹も1160年代で、源頼朝が1147年なので、全く合わないこととなる。
~~~*~~~
佐藤公員は見つかったが、年代が合わなかった。残念!
比企尼の兄となれば、1120年代に生まれたような気がする。
1203年の比企の乱の時にも比企尼は生きていたのだろうか?
六十六の郷の領主になっていた比企尼は、スーパーな女性!
頼朝は、このような女性に育てられていたのだなぁ~と。