前々の記事では混乱するのでスルーしていたが、実は気になっていた楠氏につながる「兼遠」に注目してみようと思う。
以前ご紹介した公卿家譜は、その部分がどうも納得がいかなかった。平安時代なのにやけに代が少ないうちに南北朝の人物となっていくように感じた。ありえないほど、すっ飛ばしている感じが…
橘為政からの系である。橘正遠は、次に楠正成がきている。
橘氏から楠正成に至る系図に「兼遠」という人物がいた事がわかったのだが、
盛仲の婿養子であったようである「正遠」。其の橘盛仲の父が「兼遠」という。
橘家に婿養子で入ったのが楠となる「正遠」
盛仲の文書は1096年永長元年・1111年天永三年 が見つかったが、200年の開きがあり、別人と思う。
しかも橘兼遠もその付近に文書がある。1093年(寛治七年)1106年(嘉承元年)
なので、兼遠・盛仲のラインはあっていて、其のぐっと後には正遠につながりますよ…と云う意味なのかもしれない。
東京大学史料編纂所のDBに、他の詳しい系図があったが、このようには繋がっていなかった。
諸家系図纂
兼遠も、盛仲も、正遠もいない。
朱雀院から18代目で正成となる。
900年頃生まれたのではないかと仮定し、25歳ずつ加算し25×18代+900=1350年(実際には1336年に歿しているのだが、アバウトな計算なので…)
だいたい正成の時代!となる。
こちらの方が信憑性がある。楠をたくさん植えて、楠木殿と呼ばれたそうである。