ウイルスに起因する感染症に対する人体の防御反応といえば、誰もが、真っ先に免疫システムを思い浮かべるのではないかと思います。このため、事前のワクチン接種による予防という方法も開発されてきたのですが、最近に至り、オートファジーにも有害な細菌等を隔離除去する機能があることが分かってきたそうです。そこで、遺伝子ワクチンを接種しますと、体内の細胞にあってオートファジーがどのように働くのか?という素朴な疑問も湧いてきます。
オートファジーと申しますと、2016年に大隅良典博士がノーベル賞を受賞したことで、細胞のリサイクルシステムとして広く知られるところとなりましたが、『生命を守るしくみ オートファジー』(吉森保、ブルーバックス、講談社、2022年)によりますと、オートファジーとは、「細胞が自己成分などを分解する機能」と凡そ説明されています。同書には目から鱗が落ちるようなお話も多く、その一つが、痛風が腎障害を発生させてしまう機序にオートファジーが関わっているというものです。
同書で説明されている尿酸とオートファジーとの関係を要約しますと、血液中の尿酸濃度の上昇⇒尿酸の結晶化⇒腎臓の細胞における尿酸結晶の取り込み⇒リソソーム(加水分解酵素を備えたオルガネラ)の損傷⇒オートファジーによる損傷リソソームの除去…ということになります。最終的にオートファジーが正常に働いて損傷リソソームは排除されるものの、それでも、マウスに高尿酸血症を誘発する実験を行った結果、血中の尿酸値の濃度が高い場合には、軽度であれ腎機能の低下が見られたそうです。その一方で、遺伝子操作によってオートファジーの機能を完全に除去したマウスでは、著しく腎機能が低下し、オートファジーが腎障害と関連していることが確かめられています。
それでは、体内に大量のスパイクたんぱく質を作り出す遺伝子ワクチンについても、体内の細胞にあってオートファジーが作用しているのでしょうか。尿酸結晶も’とげとげ’ですが、スパイクたんぱく質も’とげとげ’です。このため、細胞内においてリソソームを含む何らかのオルガネラに損傷を与えているのかもしれません。遺伝子ワクチンとオートファジーの関係については、以下のような可能性があるように思えます。
第1の推測は、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は、スパイク部分のACE2との結合によって細胞内に入り込む性質を有するため、人工mRNA由来のスパイクたんぱく質も、ACE2が発現していない他の細胞内に侵入することはない、というものです。この場合、遺伝子ワクチンを接種しても、細胞内のオートファジーは殆ど作用しないということになりましょう。
第2の推測は、スパイクたんぱく質は細胞内部にあってオートファジーを働かせるというものですが、この推測は、同たんぱく質の性質によって凡そ二つに分かれます。スパイクたんぱく質が無害であれば、身体へのマイナス影響はありませんし、スパイクたんぱく質が有害であれば、リソソームやミトンドリア等のオルガネラに損傷を与えることとなりましょう(接種後の倦怠感は、ミトコンドリアの損傷による?)。
特に、仮に後者であれば、同たんぱく質は、mRNAによって細胞内で生成されますので、生成の場となった細胞の内部にあって各種オルガネラを、即、傷つけてしまうかもしれません。また、他の細胞内で生成されて外部に送り出されたスパイクたんぱく質が、一般的なエンドサイトーシスの経路によって体内の他の細胞一般に取り込まれる場合も考えられましょう。何れであれ、上述した実験の結果が示すように、たとえオートファジーが正常に働いたとしても、若干であれ臓器の機能低下が起きるかもしれません。そして、何らかの体質、疾病、並びに、加齢等によってオートファジーの機能低下が既に起きている場合には、臓器の著しい機能低下に見舞われるリスクもありましょう。
そして、ワクチン・メーカーが想定しているように、遺伝子ワクチンによって大量に産生されたスパイクたんぱく質は、オートファジーが作用する以前の段階で免疫システムによって処理されてしまうというのが第3の推測です。同ケースでは、オートファジーによる遺伝子ワクチンの副作用や有害事象は起き得ないのですが、この場合でも、何らかの体質、疾病、並びに加齢等によって免疫力が低下し、免疫システムの対応力を越える接種者にとりましては、上述したような健康被害のリスクがありましょう。
以上に、遺伝子ワクチンとオートファジーに関する主たる疑問を挙げてみましたが、私は専門家ではありませんので、上記の推測は何れも的外れであったかもしれません(お恥ずかしい限りです…)。専門家の一言でこれらの疑問が氷解する、あるいは、推測が瓦解するかもしれないのですが、ワクチン接種後の死亡例も多数報告されており、かつ、深刻なワクチン後遺症も懸念される中、遺伝子ワクチンにつきましては、より徹底した安全性の確認が必要なように思えます。生命は、まだまだ神秘に満ちているのですから。
18歳以下の子供たちに対して10万円の給付金を支給する案につきましては、対象を世帯主年収960万円未満とすることで自民党と公明党が合意したと報じられております(同制限は両親+子供二人のモデル世帯の場合…)。公明党の強い要望を受けての政策だけに世論も賛否両論に分かれており、国民にあっても歓迎一色というわけではないようです。
反対論としては、(1)給付政策そのものに対するもの、(2)対象世帯に対するもの(子供のいない家庭は排除…)、(3)所得制限に対するもの、(4)給付の形態(現金+クーポン)に関するものなど、様々な側面からの批判の声が上がっています。(1)の政策自体への批判にあっても、将来の増税を恐れるもの、景気、あるいは、コロナ対策としての効果の薄さを懸念するものなど、さらに論点は細かく分かれているのです。また、選挙に際して給付政策の公約を掲げて闘うという手法が、’票を買う’悪しき前例ともなれば、日本の政治がさらに堕落しかねないリスクもありましょう。
かくして子供給付策は嵐の中の船出ともなったのですが、もう一つ、同政策の問題点を挙げるとすれば、子供たちへの教育効果をも踏まえた上での熟慮に欠けている点ではないかと思うのです。同政策の発案者である公明党も、所得制限に関しては、子供たちの分断、即ち、子供たちの間で’もらえる子供’と’もらえない子供’に分かれることを危惧していると報じられています。確かに、どちらの側であれ、給付政策を機に’苛めに会う’可能性があります。9割のマジョリティーとなる’もらえる子供たち’が、裕福ではあるけれどもマイノリティーとなる1割の’もらえない子供たち’を仲間はずれにするケースもあり得ますし、逆に、給付金を’もらえない’のは富裕層の証として、その優越感から’もらえない子供’が’もらえる子供’を見下すケースも考えられましょう。
しかしながら、家庭にあって、親たちは、自らの世帯への給付の有無を子供たちに伝えるのでしょうか。年収を子供に教える親も、親から聞いた年収を教室にあって他の同級生たちに話す子供もそれ程には多くないことでしょうから、給付の有無をめぐって全国津々浦々の教室内で深刻な分断が起きるとは思えません。また、教室では、しばしば’いじめっ子グループ’と’いじめられっ子グループ’、’アウトドア系’と’おたく系’、あるいは、’スクール・カースト’なるグルーピングが生じる傾向にありますが、仮に、今般の給付の有無が教室に分断を持ち込んだとしても、それは、既存の分断線とは必ずしも一致せず、より複雑な様相を呈することでしょう。
そして、何よりも、分断=悪と見なすならば、そもそも給付政策を中止するという選択の方が余程筋が通っています。対象を特定のグループに限定した給付政策は、どのように線引きしても’分断’が生じるからです。しかも、’お金を配れば何でも解決する(’票’も’支持率’も買える?)’という拝金主義的な手法はいかにも短絡的であり、かつ、教育的にも褒められたものではないように思えます。本政策の根底にある少子高齢化は、教育費等の経済的な家計負担のみならず、子供たちが将来に対して希望を持てない状況も強く影響しています。ITが社会全体に浸透し、AIが職を奪いつつある今日、先行きが不透明な状況下にあって、子供たちが自らの道を見つけることは容易ではありません。全ての子供たちがITやAIに興味や適性があるわけではなく、また、同分野の専門職に就けるわけでもないからです。
世代を越えた所得格差の固定化も懸念されている中、再分配政策のみでは、構造的な問題を解決できないことは確かなことです。そうであるからこそ、大人たちが知恵を絞り、そして、子供たちにも一緒に考えてもらってこそ、様々なアイディアが生まれ、より善き未来を導くことができるのではないでしょうか。子供給付政策の最大の問題点はその発想の貧困にこそあり、それは、経済的な貧困よりも深刻なのではないかと思うのです。
政府の旗振りの下で、ワクチン接種を完了した人の数は、日本国内でも半数に迫ろうとしています。現状にあって12歳以下は対象外とされていますので、65歳以下の年齢層にあっても相当数の人々が既に二度の摂取を終えたようです。その一方で、ワクチンに対する懐疑論は根強く、アメリカなどにあってもワクチン接種率は50%前後で推移しているようです。その理由は、反ワクチン派の主張には、否定し難い根拠があるからであると言えるでしょう。
すなわち、自発的ワクチン未接種者には、ワクチン接種を思い留まるに十分な理由があります。ワクチン関連死を疑われているケースは、日本国内にあって既に1000件を超えており、異物混入が確認されたロットのモデルナ製ワクチンの接種者のうち、二人の男性がなくなっております。この数字こそ、ワクチンの安全性が疑われる最大の根拠です。仮に、政府が強調するように安全性が確立されているのであれば、ワクチン関連死の報告はゼロ、あるいは、せめて他の一般的なワクチンと同程度となるはずなのですから。しかも、これらの報告ケースの大半は、ナノ脂質粒子、人工mRNA、スパイク蛋白質、並びに抗体などに関連してこれまで医科学的見地から指摘されてきたリスク要因によって凡そ説明し得るのです。
ワクチン接種による健康被害が現実的なリスクである以上、非接種者の選択は合理的な判断であり、かつ、リスク情報の発信や非接種の薦めも善意に基づくものとなるのですが、何としても接種率を上げたい人々からは、身勝手な‘悪人’、あるいは、たとえ善人扱いであったとしても、陰謀論を信じる‘変人’というレッテルが張られてしまっています。メディアでもネットでも、反ワクチン派を、社会を分断させる張本人とみなす記事に溢れているのです。反ワクチン派は、‘陰謀論に絡めとられた残念な人’として。
しかしながら、この論調、分断というものの発生プロセスを考えますと、ワクチンを忌避する人々に対する責任転嫁と言えなくもありません。何故ならば、深刻な社会的な分断は、相互に相手の言い分や主張を認めない場合に生じるからです(相互拒絶…)。今般のケースに当て嵌めますと、ワクチン推進派もまた、自らが絶対に正しいと信じ込み、ワクチンを忌避する人々の根拠や理由を一切認めないとする頑なな態度において、社会を分断させています。この点においてワクチン推進派の人々も社会的分断の’張本人’ですので、一方的にワクチン忌避者を糾弾するのは、自らの責任に目を瞑っていると言わざるを得ないのです。
もっとも、メディアやネットに散見されるこうした記事は、ワクチン推進派による世論工作の一環なのでしょう。’書かされている記事’であることは疑いようもないのですが、それでも、同調圧力というものは、何れの国にあっても相当の効果を発揮するようです。アメリカでの実験結果によれば、明らかなる間違いであっても、自分以外の人々がそれを正しいとした場合、驚くべきことに75%もの被験者が、後から自らの見解を変えてしまうそうです。こうした同調圧力の効果を期待しているとしますと、ワクチン推進派の人々は、多勢を装ってワクチン接種を正解と言い募ることで、ワクチン忌避派の人々を’転向’させたいのでしょう。反対派の言い分を素直に認めてしまっては、同調圧力が大幅に弱まってしまうからです。このように考えますと、ワクチンを忌避する人々を、社会を分断させている’残念な人’とみなす記事については用心が必要なように思えるのです。
ディープラーニングの登場がブレークスルーとなって、今やAIは、次世代の主役とも目されています。シンギュラリティが実現する日も近いとされ、米中のみならず、各国ともAI技術の開発に鎬を削っています。しかしながら、その一方で、自立的決定が可能となったAIには、機械やロボットにはないリスクがあるように思えます。それは、知らず知らずのうちに人の権利を奪ってしまう、というものです。
その理由は、決定権の保持こそ権利の本質であるからです。産業革命以来、工業をはじめとして様々な分野にあって機械化が進んだことで、人類の多くは、重労働から解放されるようになりました。人権意識が浸透した現代という時代にあっては、過重な労働自体が人々の生命や身体を脅かす人権侵害、あるいは、非人道的行為とも捉えられており、人々に苦痛を与える程の負荷となる労働からの解放こそ、人類の目指すべき道とも認識されているのです(もっとも、プロのスポーツのように必ずしも苦痛ではない場合もありますので、一概には言えませんが…)。必要性から半ば強いられてきた重労働を機械やロボットに代替させれば、人々には、自らの生き方を自らで決定し得る余地が生まれ、より身体に対して負荷の低い仕事を選べます。機械化やロボット化は人類の権利拡大の一環としても理解され、そしてそれは、’束縛からの自由’という意味において、人類に自由をももたらしてきたのです。
ラッダイト運動といった反対運動もありながら、機械化は、多くの諸国で受け入れられてきた理由も、基本的な権利や自由の擁護における人類に対する貢献があるからなのでしょう。一方、今日、長足の進歩を遂げているAIは、どうなのでしょうか。AIの最大の特徴は、データを入力さえすれば、それが人の脳の処理能力を遥かに超える程に膨大であったとしても、自ら解析して判断してしまうところにあります。このため、AIに判断を任せる範囲が拡大するにつれて、人が自ら決定し得る範囲が狭まってゆくこととなりましょう。つまり、AIの導入という形で決定権をAIに譲ることで、人々は、組織であれ、個人であれ、自らに直接に関わる事柄であっても、決定する権利を失ってゆく未来が予測されるのです。
奴隷とは、自らに対する決定権を失った状態にある人々を意味しています。そして、属国、あるいは、植民地もまた、自らの国に対する決定権を奪われた諸国を言います。決定権の保持こそが、独立性、あるいは、主体性と不可分に結び付いているとしますと、その喪失は、自らを従属的な立場に置くことに他ならないともいえましょう。このように考えますと、日頃より人権の尊重を訴えている人々が、AIについては沈黙しているのは不思議なことです。
大量のデータの解析や処理といった頭脳の’重労働’を軽減するために利用については人類に役立つのでしょうが、AIの導入に際しては、それが、人の決定権をうばうものであるのかどうか、慎重に見極める必要があるように思えます。近い将来、AI、あるいは、それを背後でコントロールする極少数のグループによって、人々から決定権が奪われ、隷従化されないためにも。
コロナ・ワクチン接種の対象が拡大して以来、職場などにおける同調圧力が問題視されています。厚労省は任意性を強調しつつも、接種を希望しない人に対して、接種を促すための有形無形の圧力や嫌がらせが報告されているからです。ワクチン・ハラスメント、即ち、’ワクハラ’という新たなハラスメントの類型が登場したことにもなるのですが、ワクチン接種に関する他者に対する同調圧力は、あまりにも無責任なのではないかと思うのです。
表向きは、ワクチン接種は強制ではありませんので、希望者に限定されています。言い換えますと、ワクチンを接種するのもしないのも、個人の自由な選択に任されているのです。もっとも、あらゆる自由には責任が伴うものです。個人の自由な選択の結果であれば、その選択から生じるあらゆる事象は当人の責任となり、自由と責任との関係は、本来であれば個人の内に完結するのです。例えば、ワクチンを打つ自由を選択した人は、発症や重症化の回避といったワクチン効果を得る一方で、仮にワクチン接種によって何らかの健康被害が発生した場合、自己責任とされてしまいます(もっとも、仮に、将来的に政府が因果関係を認め、死亡者や重篤者に対して補償金を支払ったとしても、命や健康な身体は戻ってこない…)。反対に、ワクチンを打たない自由を選択した人は、発症や重症化リスクを負う反面、ワクチン・リスクを回避することができます。両者とも、他者に影響を与えませんので、自由と責任との関係は一先ずはバランスしていると言うことができます。
しかしながら、今般のコロナ禍にあっては、ワクチン接種は、上記の個人の問題の枠を越える側面があります。何故ならば、政府は、集団免疫理論を政策の基盤に置いており、それは、感染終息による早期の経済活動再開という目的とも一致しているからです。このため、政府は、表向きは個人の自由を謳いながら、裏ではあの手この手で接種率を上げるべく、様々な誘導策を試みています。時短要請に応じない飲食店に対して融資を見直すように金融機関に指示しようとするぐらいですから、政府は、職場接種に応じない企業に対しても何らかの不利益を与えようとしているのかもしれません。政府からの明示的な指示の如何に拘わらず、企業側が政府の意向を忖度し、職場にあって同調圧力を醸し出しているのかもしれないのです。企業にとりましても、経済活動の一日も早い正常化は望まれるところなのですから、職場とは同調圧力が生じやすい状況にあると言えましょう。
ところが、ここで一つの重大な問題が発生します。同調圧力とは、他者に対して自らの意思を押し付ける行為なのですから、責任の範囲も他者にまで及んでしまうという点です。つまり、自由と責任の問題は、自己責任論では収まり切れなくなるのです。そして、ここで’スポット’が生じてしまうのは、ワクチン接種による健康被害に対する責任です。自らの自由意思でワクチンを接種した場合、ワクチン・リスクから生じる健康被害は基本的には自らの責任となります。その一方で、同調圧力に負けて接種に応じた人々については、これを自己責任と諭されても納得しないことでしょう。言い換えますと、同調圧力をかける側は、万が一にも接種に追い込んだ人々に健康被害が生じた場合、その責任を負う覚悟が必要と言えましょう。
もっとも、同調圧力をかける側の人々は、ワクチン接種を受けない人々が存在することで集団免疫が成立せず、かつ、経済活動も再開できない、としてワクチン非接種者に対してその責任を求めるかもしれません。しかしながら、そもそも、効果の永続性が欠ける今般のコロナ・ワクチンでは集団免疫の成立は困難であることに加えて、ワクチン接種率の高いイギリスやイスラエルの事例は、打たない自由を選択した人々が、打つ自由を選択した人々に追加的なリスクを与えもしなければ、経済活動再開の妨げともなっていない現状を示しています。何故ならば、デルタ株等の変異株によって感染者数は増加に転じているものの、重症者数も死亡者数も低レベルで推移しており、新型コロナは、もはや怖い病気ではなくなっているからです。新規感染者の多くは若者であり、かつ、非接種者であるとされていますが(治療方法の進化も重症化率や死亡率の低下に寄与しているとも…)、感染しても重症化しないもとより免疫力の強い人々なのでしょう。そして、接種にも拘わらず新規に感染した人も、重症化しないのですからワクチンの恩恵を受けたことになります。つまり、集団免疫が成立しなくとも、接種者はワクチン接種のメリットを十分に享受しているのであり、非接種者に対して責任を問う立場にもないのです。
また、今般のワクチンの主たる効果は重症化の防止ですので、ワクチン接種者であっても自らが感染することも、反対に他者に感染させることもあり得ます。この点からしますと、たとえ感染の機会が比較的多くなる接客業であったとしても、ワクチン接種者がお客様や取引相手の人々に感染させるリスクは残ります。言い換えますと、感染についてはお互いさまである一方で(ADEといった中長期的なリスクを考慮すれば、医療崩壊や経済崩壊のリスクについてもお互いさま…)、重症化や死亡のリスクだけは非接種者が負っているのです。そしてそれは、上述した打たない自由を選択した人の自己責任の範囲に収まっています。
以上に’つべこべ’と述べてきてしまいましたが、要は、他者の自由意思を曲げる同調圧力には責任が伴うということです。そして、命や身体にかかわるケースには、とり切れない責任というものもあるのですから、ここは、慎重な判断が求められましょう。少なくとも、ワクチン・ハラスメントや無責任な同調圧力だけは、かけてはならないと思うのです。
ワクチン接種をめぐっては、政府やマスメディアが安全アピールに傾斜する一方で、ネットやSNSでは健康被害の報告が後を絶ちません。ようやく大手メディアもワクチン接種会場にあって60歳代の男性が倒れ、救急搬送先の病院で亡くなった事例を報じるようになりましたが、6月下旬の段階でワクチン接種後に356名もの死亡例が報告されたことは厚生省も認めるところです。
現状にあって、政府は、ワクチンに関する情報を全てデマと決めつけ、疑わしい健康被害についても全ての因果関係は悉く否定しています。因果関係さえ認めなければ、あらゆる健康被害は’なかったこと’にできますので、たとえ医科学的な根拠に基づいてワクチンのリスクを訴えても、門前払いとなるのです。それでは、ワクチン・リスクは、安全神話のシャワーを浴びて、人々の意識から洗い流されてしまうのでしょうか。諦めるのはまだ早く、何か方法があるのかもしれません。そして、その一つが、ワクチン推進派の人々の主張からリスクを読み取ることなのではないかと思うのです。
本ブログでは、6月28日付の記事で河野太郎ワクチン担当相がデマの根拠として挙げた資料からリスクを見出すという作業を試みてみました。同資料の他にも、ワクチン効果のアピールが同時にリスクを示唆する場合があります。例えば、ファイザー社は、自社のmRNAは遺伝子操作されているため、抗体産生効果が自然感染による抗体の十倍から数十倍に飛躍的にアップしていると自慢しています。その一方、このことは、短期間で消滅する自然のmRNAとは違い、人工的に修飾されたmRNAは、ヒトの体内あってスパイク蛋白を大量に作り続けていることを意味します。この事実こそ同ワクチンが劇薬とされる所以なのでしょうが、全てのワクチン接種者ではないにせよ、接種直後から体内に大量のスパイク蛋白質が生成されれば、ヒトの体に相当のダメージを与えることは容易に推測できます(血栓の原因となると共に、期間は不明なものの臓器への滞留や心筋症や心膜炎の原因に…)。
また、先日、ワクチン接種によるメモリーB細胞のリンパ節における長期的活性が同ワクチンの効果の持続性を示唆しているとの研究結果も報じられていました。これが事実であれば、ワクチンによる抗体効果が半年から8か月後には消滅するとする懸念については、完全に払拭されましょう。その反面、この報告も、安全説が言うほどにはワクチン接種の影響は一時的なものではなく、永続性を証明することにもなります。そして、メモリーB細胞の長期的活性は、RNAウィルスにありがちなADEのリスクを高める可能性もありますし、将来的には体内の慢性的な炎症、自己免疫疾患、あるいは、免疫不全等を誘発するかもしれません。また、メモリーB細胞によるワクチン効果が永続化する条件として、同抗体が効かない変異株が出現しない点を挙げていますが、このことも、変異株が登場すれば元の木阿弥となる可能性を示しています。
加えて、mRNAワクチンは、人工的にRNA鎖の塩基配列を即座に造り出せるため、変異株に対して即応できるとされています。この即応性のメリットも、変異株が出現する度にワクチンを打たなければならなくなりますので、過剰なワクチン接種のリスクを意味するデメリットともなりましょう。
政府や製薬会社側が積極的にリスクを証明する実験や検証を行うとは思えませんので(本来、生体検査や精密な解剖でリスク証明はできるはず…)、ワクチンに内在するリスクをワクチン安全派の人々にも理解してもらうためには、むしろ安全派の人々が主張する根拠に基づいてリスク面を説明するしかないのかもしれません。遺伝子ワクチンの劇的な効果こそ、自らのリスクを自ずと語っているのかもしれないのですから。
コロナワクチンについては、既に職域接種や大学等での接種も始まり、対象者は64歳以下の国民へと大幅な広がりを見せています。12歳以上となる中学生や高校生に対しても、夏休み中での接種を奨励しているとも報じられ、全国民がコロナワクチン接種対象者となる勢いです。しかしながら、その一方で、ワクチンの毒性についてはおよそ解明が進んできているようにも思えます。
日本国よりも早くに接種が始まった諸国では、既に5月頃からワクチンの毒性に対する認識が深まっていたようです。接種率が頭打ちとなったのも、相次ぐ副反応や有害事象の報告に加え(それでも、CDCの公表している数字は氷山の一角とも…)、健康被害が発生する仕組みがおよそ明らかにされたからなのでしょう。その一つが、スパイク蛋白自身に有毒性があったというものです。つまり、新型コロナウイルスによる感染であれ、ワクチン接種によるものであれ、体内にスパイク蛋白質が生成されること自体が人体にとりまして重大な脅威であるというものです。
スパイク蛋白質は、全身の血管にあって血栓の生成の要因となると共に、脂質ナノ粒子と同様に血液脳関門を易々と通り抜けるとされております。また、接種後の青年層に心筋炎の発症が見られるのも、血流に乗ったスパイク蛋白質が何らかの心筋細胞にダメージを与えるからなのかもしれません。ドイツの研究では、コロナワクチン接種者にあって死亡した患者の体内を調べたところ、全ての臓器にスパイク蛋白質の蓄積が見られたそうです。同研究では、この結果をワクチンには感染防止効果、あるいは、重症化効果がなかったことの証拠として解釈していますが、あるいは、ワクチンによって体内に生成された大量のスパイク蛋白質が蓄積されることの証拠であったのかもしれません。何れにしましても、最近に至り、スパイク蛋白質に対する医科学的な観点からの警戒論が散見されるようになってきたのです。
こうしたスパイク蛋白質有害説に対しては、ファイザー社をはじめ、根拠のない説として否定する向きもあります。ワクチン接種擁護論派の専門家の説明によれば、生成されたスパイク蛋白質は、凡そ2週間程度で’消滅するとされている’そうです。スパイク蛋白質の残存期間が確認されていない点こそ、治験不足の最たるものなのですが、仮に、上述したようにスパイク蛋白質には臓器に蓄積する性質があるならば、それは健康被害の発生と直結します。例えば、アルツハイマー型の認知症や狂牛病等の脳疾患は、まさに蓄積された異常蛋白質によって引き起こされる病気です。これらの病気の発病リスクは、ワクチン接種を繰り返す程さらに高まることでしょう。
なお、ワクチン不妊説も’デマ’扱いされていますが、ファイザー社からの流出文章でも、脂質ナノ粒子が肝臓、脾臓、卵巣といった臓器に達している事実が記されています。最も濃度が高くなるのは48時間後とされていますが(同文書では、mRNAに関する実験であり、スパイク蛋白質については不明…)、仮に卵巣にあって卵細胞にmRNAが入り込み、スパイク蛋白質を生成するとしますと、この時、何が起きるか分かりません。何故ならば、ヒトにあって逆転写酵素(テロメラーゼ)を有する数少ない細胞の一つが生殖細胞であるからです(逆転写酵素とは、細胞内の遺伝子内に異常蛋白質を取り込む機能を果たしている酵素であり、癌細胞も逆転写酵素を持つとされているため、癌患者のワクチン接種はリスクが高いとも考えられる)。
また、新型コロナウイルス感染症にあって基礎疾患のある人は重症化しやすいことから、これらの人々の優先接種が推奨とされた一方で、実際には、基礎疾患のある人の接種に際して慎重な問診を要するとされたのも、スパイク蛋白質有毒説からすれば説明が付きます。そして、この説が正しければ、重症化や死亡のリスクが高い基礎疾患のある人はワクチンを接種することはできず、こうしたリスクの低い、つまり、ワクチンを必要としない健康な人だけがワクチンを打たなければならないというナンセンスな事態ともなりかねないのです。
そして、実のところ、このスパイク蛋白質有害説は、簡単に真偽を調べることができます。現状では因果関係は不明とされていますが、新型コロナ感染症の既往歴がなく、かつ、ワクチン接種後に死亡されたとされる方の全身の臓器を調べれば、スパイク蛋白質の残存という’動かぬ証拠’を掴むことができるのです(血液検査だけでもある程度の残存性は検証できますし、治療中の方の生体の一部を採取して調べることも…)。そして、仮に、血管であれ臓器であれ何であれ、体内の何れかにスパイク蛋白質が発見された場合には、政府が直ちにワクチン接種を中止すべきは言うまでもありません。ワクチン接種者が増えれば増える程、スパイク蛋白質による健康被害が広がるからです。
日本国政府は、接種対象者の拡大を図る前に、先ずはスパイク蛋白質有害説の真偽を確かめるべきなのではないでしょうか。ADEや自己免疫疾患など、抗体の生成や免疫反応に伴う中長期的なリスクについては現時点での判断は困難ですが、同説については、現時点にあって解剖や検査等による検証が可能です(政治的介入を避けるために、中立・公平な立場にある複数の機関による実施が望ましい…)。ワクチン接種の圧力、特に同調圧力が強まる中、国民の大半がワクチンの安全性に対して疑念を抱いている現状にあればこそ、政府には、国民に対して安全性を証明する義務があると思うのです。
戦争と感染症との間には、幾つかの相違点があります。第一に、戦争にあっては、敵は目に言えますが、ウイルスや細菌の人体への侵入によって引き起こされる感染症では、見えざる敵を相手に闘わなければなりません。つまり、後者では、敵は‘内部化’されるのです。このことは、敵を完全に排除しようとすれば、図らずも‘敵’になってしまった感染者、つまり、味方を対象としなければならないことを意味します。
このことは、第二の違いを説明します。戦争にあっては、政府の行動は敵が存在する外側に向けて働きますが、感染症にあっては、政府の防御策は内側、即ち、国民に向かいます。しかも、その国民は、感染者と非感染者に分かれてしまうのです。この状況下で全体が個人に優先されるとすれば、それは、感染拡大を最小限に抑えるために感染者に対して実施される厳しい行動制限、あるいは、厳格な隔離です。感染された方々には申し訳がないのですが、それが強制であれ、要請であれ、感染者の基本的権利や自由は制約を受けてしまうのです。感染者に対する行動の制約については、それ程の異論はないのではないかと思います。
それでは、感染者と非感染者が混在する状態にあって、政府は、非感染者、即ち、健康な国民に対して全体の優先を主張できるのでしょうか。戦時にあっては、戦場の兵士のみならず、非戦闘員である民間の国民に対しても、国家の防衛を理由に全体の優先が求められます。都市のロックダウンや緊急事態宣言の発令などの措置は、まさしく、感染症を誰もが感染者となり得る全体の危機と見なしたからに他なりません。そして、集団免疫の獲得を目指すワクチン接種の推進も、この見方の延長線上にあると言えましょう。
確かに、天然痘ワクチンやBCGのようにワクチンの安全性がエビデンスを以って凡そ100%保障されているとすれば、全国民がワクチンを接種したとしても、個の犠牲の問題は生じません。全国民を対象とするワクチン接種は、戦時にあっては、核ミサイルを含む最新鋭のミサイルまでも確実に破壊するミサイル防衛システムのような役割を果たすからです。実際に、将来における生物化学兵器の使用に備え、国産ワクチンの開発を促す声も聞かれます。ワクチン接種によって平時に戻ることができるのですから、接種推進派のワクチンへの期待はこの側面から説明されます。
しかしながら、その一方で、ワクチンの安全性に疑義がある場合には、全体と個人との間の利益の比較考量の難しさはミサイル防衛システムの比ではありません。何故ならば、安全性が100%証明されていないワクチンを国民に接種させた場合、一つ間違えますと政府が自国民に対して生物兵器を使ってしまう結果を招きかねないからです。この重大なリスクにおいて、政府と国民との間には、全体の優先と個人の基本権とをめぐる深刻な摩擦が生じることとなります。ウイルスという’共通の敵’との闘いを根拠としてワクチン接種を進めている政府が、ワクチン警戒派から見ますと、国民の命を危険に晒す’国民の敵’に見えてしまうのですから。国民の基本権の保護は政府の基本的な役割の一つですので、警戒論者からしますと政府によるワクチン接種の推進は本末転倒であり、自国の政府が’敵なの’か’味方なの’かわからなくなるのです。少なくない国民が政府に対して疑心暗鬼となる状況は、一致団結が旨とされる戦時では殆どあり得ない事態です(ワクチン接種をめぐっては、政府と国民、並びに、国民間における警戒派と推進派との間での分裂が起きやすい…)。
人の基本的な権利とは天賦のものですので(自然権とも呼ばれる…)、ここに至って、国民の多くは、自らの命や身体に対する自己の権利に思い至ることとなりましょう。全体の個に対する優先は、’全体’の目的が「国民の安全や福利」にあることを前提としています。この点は、戦時の方がよりはっきりとしています。国民によってこの要件が欠けていると判断された場合、国民は、自らの自由な意思決定によって政府から自らの身を護ると共に、自らをその一員とする社会をも護らなければならなくなるのです。
日本国では新型コロナウイルス禍は他の諸国と比較して軽度であり、遺伝子ワクチンも安全性不明の治験段階にある中にあって、日本国政府が、国民に対して全体の優先を主張し得る程の正当、かつ、合理的な根拠を有しているとは思えません(政府の真の目的は、オリンピックの開催では…)。報道によりますと、政府は職場や大学等でのワクチンの集団接種を実施する方針のようですが、政府による企業に対する協力要請や社内における同調圧力の醸成、あるいは、非接種者に対する差別的な待遇は、上記の考察に照らしますと、国民の基本的な権利並びに自由の侵害ともなりましょう(憲法違反では…)。ワクチン接種とは、基本権の核心である命にも関わり、かつ、個々の身体に対して行われるものですので、今般のワクチン接種に関しては、やはり、個人の自己決定権が最優先されるべきではないかと思うのです。
これまで、リベラルもマスメディアも人権擁護には熱心であり、中国によるウイグル人弾圧に対しても厳しく糾弾しています。このスタンスは、自由主義国の政府にも共通しており、今日にあって、人権の軽視は許されない蛮行と見なされているのです。ところが、ワクチン接種に限っては、自由主義国でも個々人の基本的権利や自由が蔑ろにされているように思えるのです。
人の基本的権利とは、明確な定義はないものの、およそ、自己の人格、生命、身体に対する自分自身の権利とされており、それは、その人本人に専属します。他者が奪ってはならない権利であると共に、他者から奪われてはならない権利なのです。このため、基本的権利を侵害する行為は、古今東西を問わず、犯罪として刑罰の対象となってきました。そして、現代という時代にあって奴隷制が否定されるのも、他者の上に’物権’を設定する権利は、誰も持ち得ないからです。
悪というものを’利己的他害性’であるならば、まさしく、自己の利益のために他者の基本的人権を侵害する行為はまさしく’悪’と言えましょう。その一方で、極めて限られた状況下では、基本的人権を犠牲に供さなければならないケースがあります。その典型的なケースとは、戦争といった国家間で起きる有事です。物理的な破壊力を以って敵勢力から攻撃を受けた場合には、物理的な防衛力でこれを排除するしかなく、その際、多かれ少なかれ、国民の命が犠牲とならざるを得ないからです。戦時にあって、国家に命を捧げる行為が名誉とされてきたのも、それが、国家、否、他の国民のために自らの命を犠牲にする尊い行為であったからに他なりません。人には生まれながらにして自己保存の本能がありますので、それを他者のために自ら放棄するのですから、命を捧げた人々の心情を思えば深く頭が下がるのです。
このように、国民という集団が運命共同体となり、全員が同時に共通の危機に直面する場合には、自らの集団を将来に向けて維持存続させるために、集団のメンバーの一部の基本権が犠牲となるケースがあります。こうした事態は、古今東西を問わず、人類が等しく経験してきた危機であったことでしょう。その一方で、有事にあっては、自己の利益を優先したいがために、敵国を利すような行為を行えば、他の国民から厳しい批判を受けてしまいます。否、政府は、法律を以ってしても、こうした利敵行為を取り締まろうとすることでしょう。私利私欲による敵国への協力が自国民の死を意味するのですから、’非国民’という言葉は、有事にあってこそリアリティーを持つのかもしれません。
有事にあっては、程度の違いこそあれ、国民の基本的な権利のみならず、基本的な自由もまた制約を受ける、すなわち、個人よりも全体が優先されるという非常事態は、国家の体制に拘わらず、如何なる国家にあってもあり得ることです。そして、ここで考えるべきは、今日の新型コロナウイルス禍といった感染症の蔓延は、国民の基本的な権利や自由を制限する正当な根拠となるのか、という問題です。この問題、ワクチン接種をめぐって抜き差しならない状況を国民にもたらしかねないからです。
新型コロナウイルス対策として、既に、各国の政府は、国民の基本的な自由に対して制限を設けています。丸ごと都市のロックダウンを実施する国もあれば、日本国のように飲食店の営業や外出について国民に自粛を求める国もあります。感染状況によって対策も異なるのですが、果たして、今日の日本国政府は、国民に対して全体の優先を正当化できるのでしょうか。この先につきましては、明日の記事にて続きを書いてゆきたいと思います。