万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

政府による‘タブー化’の問題

2023年02月28日 11時12分06秒 | 社会
 現代という時代は、情報化時代とも称されています。インターネットやIT等の普及により、人々の活動空間や生活空間はデジタル情報で溢れています。情報量が爆発的に増え、人々が様々な情報を入手しやすくなる一方で、昨今、新たな問題が持ち上がることともなりました。

 大手メディアの情報とネット情報が異なる場合でも、それが、両者とも民間の範囲に留まっているのであれば、たとえ内容が真逆であったとしても、それぞれ根拠や証拠を示して自らの正しさを主張することができます。大手側が有利ではあるのでしょうが、それでも、多くの人々が自発的に検証作業に参加したことで、虚実が判明することもあります。しかしながら、政府といった権力や権威が関わりますと、どうでしょうか。これらによる介入や圧力がありますと、公開性や客観的な検証性は著しく損なわれます。ここに、情報の問題は、情報統制という政治問題へと行き着くことになります。

 古今東西を問わず、為政者の多くは、情報統制や管理を支配の手段としてきました。権力や権威を保持するためには、国民に対して自らに関するマイナス情報を伏せておく必要があるからです。何れの国であれ、国民からの批判や民心の離反、そして忠誠心の消滅は、為政者の地位を危うくするのです。このため、情報統制が効果的な支配の手段となるには、国民の心理にまで及ぶ強い圧迫をかける必要がありました。つまり、為政者への批判を、社会全体を覆うタブーとしてしまえば、権力や権威は安泰であったのです。悪しき為政者であればあるほど、国民の間に自己規制の空気を醸し出すタブー化を渇望したことでしょう。

一方、今日の民主主義体制の国家では、言論や出版等を含む表現の自由が保障されていますので、原則としては、どのような情報であっても一先ずは公開することができます。しかしながら、多かれ少なかれ、タブーなるものが存在する国は少なくありません。タブーの問題は、アメリカでは、ポリティカル・コレクトネスとして表出していますし、日本国でも、タブーとして幾つかの‘カーテン’、例えば、‘菊のカーテン’、‘鶴のカーテン’、‘桜のカーテン’等があるとされています。いずれのカーテンもが、政治性を帯びたタブーです。

こうした定番の‘タブー’のみならず、昨今の状況を見ておりますと、政府によるタブー化のケースが相次いでおり、国民を誤った判断に導いている事例が後を絶たないように思われます。特に、ワクチン問題はその最たる事例であり、極めて強い政治的圧力が社会全体にかかったことは、多くの人々が感じたことではなかったかと思います。政府のみならず、国民全体に同調圧力が働くように、マスメディアのみならず新興宗教団体を含むあらゆる下部組織が総動員された観もありました。ワクチンリスクについては、政府からの嫌がらせや周囲からのハラスメントにより、初期段階で認識していた専門家でさえ口に出すことが難しく、たとえ指摘したとしても信じるに足りない陰謀論として片付けられてしまう状況が続いてきたのです。政府は、リスク情報を隠蔽するのみならず、リスクの指摘をタブー化することにより、国民全体に思考停止の魔術をかけようとしたのでしょう。恐怖心を利用するのですから、タブー化とは、恐怖政治の手段の一つとも言えます。

現代のタブーなるものも‘政府主導’あるいは‘官製’であるならば、そのタブーは、今も昔と同じく、権力や権威のマイナス情報、即ち、悪しき面を隠すために造られたのでしょう(悪事の隠れ蓑・・・)。マイナス情報が存在しなければ、そもそもタブーを設ける必要などないのですから。このような政治的なタブーは、定番のものであれ、政策的な意図によるものであれ、ないほうが善いに決まっております。否、ワクチン問題のように、政府によるタブー化こそ、無辜の国民の多くに被害が及ぶ事態を招いていた元凶とも言えましょう。

情報は、人々が判断や評価を行なうに際しての基礎的な材料であり、かつ、民主主義国家では議論の共通の土台ともなります。情報の重要性に鑑みればこそ、できる限り事実に即した正確なものであるべきですし、とりわけ公的な情報は原則として全て隠さずに公開されるべきです。国民をリスクに晒すタブー化が二度と起きないようにするためには、法律によって政府に対する情報公開の義務づけを強化すると共に、現状にあっても、政府によるリスク情報の隠蔽は、政府の怠慢行為に対する行政訴訟として裁判所に提訴するという方法もあるように思うのです。

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善い利他主義と悪い利他主義-ジャック・アタリ氏の利他主義論への懐疑

2023年02月27日 11時37分22秒 | 社会
フランスの著名知識人であるジャック・アタリ氏は、かねてより未来の人類社会に向けた目標として利他主義を提唱しております。利己主義から利他主義への転換こそ、来るべき未来のあるべき人類社会の姿であると訴えているのです。しかしながら、利他主義の薦めには、細心の注意を払うべきかもしれません。

 利他主義という言葉を耳にして、不快に感じる人は殆どいないことでしょう。この言葉は、自己の利益のためには他者の利益を犠牲にしても厭わない利己主義の反対語として常々用いられており、利己主義=悪、利他主義=善という認識が凡そ固定概念として定着しています。このため、アタリ氏が利他主義を唱える時、それは、善意からの発言と凡そ受けとめられることでしょう。

 利他主義の提唱は、ここ数年来の同氏の持論であったようなのですが、昨今の同氏の発言を聞いておりますと、利他主義も、その使いようによりましては、他害的な結果をもたらすように思えてきました。否、政治的に見ますと、全体主義に利用されてしまうリスクも見えてくるのです。何故、このように考えるに至ったかと申しますと、2月14日付けでAERAdot.で掲載された「“世界屈指の知識人”ジャック・アタリが指摘するパンデミックの原因と、未来のキーワード「利他主義」と「命の経済」」と題する記事を目にしたからです。

 同記事において、アタリ氏、地球温暖化問題やコロナワクチン接種を引き合いに出しながら、利他主義に言及しています。新型コロナウイルスによるパンデミックが発生した時点で「今は利己主義と利他主義の戦いだ」という記事を執筆したとする同氏は、他者のためにワクチンを接種する行為を利他主義が広く理解されてきた証しとしています。「ワクチンを接種することで他人を保護することに、私たちが関心を持っていること、つまり利他主義の重要性を理解していることが示されました。」として。

 一読する限りでは問題はないように思えるのですが、よく読みますと、この発言には、利他主義のレトリックが巧妙に隠されているように思えます。何故ならば、他者のためにワクチンを接種することが利他主義のあるべき姿であるならば、全員がワクチンを接種すべきであり、接種しない人は、利己的な人、即ち、悪人と言うことになるからです。この論法は、同調圧力の最強の根拠となり得ます。そして、ここに重大な問題が持ち上がるように思えます。

 ワクチン接種が誰に対しても無害であり、利益となるならば、何らの問題もないのでしょう。例えば、‘殺人をしてはいけない’、‘窃盗をしてはいけない’、‘他害的な嘘をついてはいけない’といった行動規範であれば、全員がこの規範を誠実かつ厳格に遵守すれば社会の安全性は格段に高まり、皆が安心して生きる社会が実現します。ところが、全てが有害行為の禁止のように全員に利益が及ぶケースばかりではありません。利他的な行為として推奨された行為において、自害性や他害性が含まれる場合には、利他的行為は、いとも簡単に自害行為や他害行為へと反転してしまうのです。現実に、人口削減計画説が信憑性を帯びるほど、コロナワクチンによる健康被害は、日本国内を含めて先進国を中心に世界レベルで広がっています。利他的精神からワクチンを接種に協力した人々がワクチンの犠牲となりながらも、‘全体を救うためには致し方ない犠牲’と嘯く冷たい声も聞かれるのです。

 また、アタリ氏は、「利己的な利他主義」とも述べており、他者の利益に資する行為は自らを護るための行為でもあるとする見解も示しています。「情けは人のためならず」という諺もあるように、善行を説く古今東西の格言や道徳律にも通じるこの見解は、確かに利他主義の利己な一面を説明しています。しかしながら、この見解も、無害な行為のみに当てはまります。自害性や他害性が含まれるケースでは、‘自分のため’にも‘人のため’にもならないかもしれないのです(ワクチン接種により、他者に対するシェディングも起きるとする指摘も・・・)。

 利他主義の名の下で善意でワクチンを接種した人々は、たとえ被害を被ったとしても自己責任となりますし、同調圧力をかけた周囲の人々も、リスクについて知らない状態であれば、利己的行為を戒めるために接種を薦めたことになります。何れもが、自覚のないままに、被害者あるいは加害者となってしまうのです。

被害者も加害者も善意であり、責任の所在は曖昧になりがちなのですが、実のところ、責任の所在を明らかにすることは、それ程、難しいことではありません。こうしたケースでは、全責任は、政府や世界権力をはじめ、コロナワクチンの接種を利他的行為=絶対善として国民に対して宣伝した人々にあると言わざるを得ないからです(二重思考の手法としての価値の先取りであれば、ワクチン接種=利他的行為=善という構図を最初に作ってしまう・・・)。

 そして、仮に、利他主義をもってワクチン接種を薦めた人々が、同ワクチンのリスクを予め知っていたとすれば、利他主義とは、接種を薦めた側の究極の利己主義と言うことになりましょう。自らの目的を達成するためには、‘他者’であれば全員が被害を被っても構わないと考えたことになるのですから(高齢者集団自決発言にも同様の思考が・・・)。利他的行為を自分自身ではなく他者に薦める人は、恐るべき自己中心主義者かもしれません。

この利他主義の狡猾な悪用の側面は、ワクチン接種のみならず、地球温暖化問題などにも共通しているのかもしれません。そして、全体主義体制とは、まさしく利他主義の美名の元で国民を最低のレベルまで引き下げ、自己を捨てさせた上で画一化する体制とする見方も成り立つように思えます。利他主義には、それが利己主義者に悪用されますと合法的な国民抹殺や弾圧の口実となりかねないリスクがあるのですから、善い利己主義と悪い利己主義を賢く見定める必要があるように思うのです。

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成田悠輔氏こそ‘精神の老害’では?-全体主義の発想

2023年02月23日 10時25分15秒 | 社会
 イエール大学アシスタント・プロフェッサーの肩書きを持つ成田悠輔氏が言い放った高齢者集団自決発言は、内外から厳しい批判を受けることとなりました。集団自決とは、老若を問わず追い詰められた人々が死を共にする行為を意味しますので、この言葉そのものに自決に至った人々の悲しみや苦しみが込められています(幼い我が子に手をかけた親もいたはず・・・)。言葉に敏感であれば、軽率に口にすることはできないはずなのですが、同氏は、少子高齢化問題の解決策として、平然と集団自決論を語っているのです。しかも、昨今の報道によりますと、ある年齢に達した時点で、自動的に安楽死させるシステムまで提案していたというのですから驚かされます。

 成田氏の背景については、自己の利益に不要と見なした一切を切り捨てようとする経営者視点を指摘しましたが、こうした経営者視点は、全体主義とも共通しています。全体主義も、国民を含めた国家全体を一つの‘事業体’と見なすからです。企業では、人事権を握る経営幹部は、社員や従業員を採用したり、配置転換したり、さらには解雇することができます(特に非正規社員であれば解雇は容易・・・)。言い換えますと、自らが決定した事業方針に照らして、上部の位置から自らの組織に所属する人々を自由に動かすことができるのです。

例えば、企業幹部の会合では、「○○年に入社した○○期の社員達は、技術が旧式化したので今やお荷物となっている。しかも、給与は高額だ」、「コスト削減のために、全員、一斉に解雇した方がよいね。」、「いや、労働法による規制あって、解雇は難しい」、「それでは、自主退職させるように職場で嫌がらせをしてはどうか」・・・といった会話がなされているかもしれません。そして、この経営者達の解決策は、成田氏の提起した‘最終的解決案’にも当てはまるのです(なお、ホロコーストでユダヤ人は虐殺されたとされますが、このことは、グローバリストの中枢にいる多くのユダヤ系の人々が、多民族の存在に対して‘優しい’ことを意味しない・・・)。

しかしながら、たとえわずかなりとも共通する部分があったとしても、国家と企業とは基本的には別ものです。国家の政府は、国民に対して、生まれてからこの世を去るまでの生涯という長いスパンで配慮するのみならず、後の世まで国民生活の安定を実現する責務を負っているからです。言い換えますと、国家の政府は、現実はともあれ、良い意味において利他的なのです。しかも、個人の基本的な自由や権利を擁護することも政府の役割の一つですので、間違っても国民の命を軽視するような政策は採れない‘はず’なのです。

ところが、歴史を振り返りますと、古今東西を問わず、国民の生殺与奪の権を握り、恣意的に国民の命を奪ったり、財産を没収したりする為政者が散見されます。所謂‘悪政’というものなのですが、こうした‘悪政’は、現代史にあっても全体主義国家において見られます。ファシズム然り、ナチズム然り、そして、共産主義然りです。近代以降の人類の歩みは、政府が本来の役割を取り戻し、国民のために働く国家へと向かう、あるいは、人類史において人々が国家をつくったことの意義に立ち返る過程であったのかもしれません。今日、普遍的な価値とされる自由も、民主主義も、法の支配も、私物化されがちな国家を国民に資する存在へと変えてゆくために必要とされた原則とも言えましょう。こうした歴史の流れからしますと、経営者の視点は、過去の専制国家や全体主義国家並びに時代錯誤とされる共産党一党独裁国家とむしろ共通しており、現代人の視点からすれば、過去のものとなるべきもの、即ち、‘古い’と言えましょう。

今日、翳りを見せてはいるもののグローバリズムが時代の先端とされ、マネー・パワーを背景にマスメディアもIT企業のCEOやIT関連の起業家達をヒーローと見なし、しきりに持て囃しています。金融・経済財閥を中心とした世界権力が人類に対して支配力を及ぼしていますが、その精神性においては、必ずしも若々しいとは限らないように思えます。成田氏は、高齢者を‘老害’として批判しましたが、精神面においては、成田氏こそ‘老害’であるかもしれません。経済的な格差の要因が、ジョブ型雇用を含む雇用の不安定化や広範囲でのITやAIの導入等、そして移民推進政策等による社会の不安定化にあるならば、経営者視点での政策の推進は、若者層にとりましても明るい未来どころか、デジタル全体主義という名のディストピアに連れて行かれかねないのです。

そして、国民の基本権の尊重という大原則に立ち返れば、そもそも、成田氏には、他人である国民に対して集団死を促す発言をし得る立場にはないことに気がつかされましょう。生命に関する権利(生存権)はその人自身に専属していますので、他者が勝手に奪うことはできず(殺人などの犯罪により死刑判決を受けた場合などを除いて・・・)、なおも他者の死を以て解決策とすることは、それが自死であっても間接殺人の教唆を意味するからです(生存権を侵害するので憲法違反にもなる・・・)。経済学者であるならば、高齢者が最後まで自らの人生を豊かに生き、かつ、若者も様々なチャンスに恵まれ、かつ、一人一人が十分な経済力を持ち得るような政策こそ提案すべきなのではないでしょうか。

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創価学会も二重思考?―平和は戦争なり

2022年11月15日 15時03分23秒 | 社会
 ジョージ・オーウェルの作品、『1984年』を以て世に知られるようになった二重思考の起源は、おそらく前近代にまで遡るのでしょう。もしかしますと、人類が、コミュニケーションの手段として言葉を使うようになったその時から、他者を欺く偽りの言葉のみならず、他者に対する言葉による思考の強制は始まっていたのかもしれません。そして、こうした利己的、あるいは、傲慢な行為が多くの人々に不利益や損害をもたらしたり、精神的な苦痛を与えたからこそ、他者を騙す嘘や思考の強要は、道徳律や法律によって禁止されるに至ったのでしょう。『1984年』がディストピアと評されるのも、人類にとりまして、その世界が実現して欲しくないものであったからに他なりません。

そして、半世紀以上も前に執筆されながら、オーウェルの作品が今日まで読み継がれてきた理由は、あるいは、『1984年』に余すところなく描かれた社会の恐怖が人々にとりまして必ずしも小説の中でのお話ではないからなのでしょう。近年、『マトリックス』という映画も注目を集めておりますが、同作品のテーマも、造られた偽りの世界を‘事実’として信じ込ませる思想統制という意味において、『1984年』の現代版バージョン、リメークとも言えます。そして今日、ネットの普及によるフェークニュースの氾濫や仮想現実を造り出せる映像技術の急速な進歩により、小説や映画の世界と現実との境界線は、いよいよ曖昧となっているのです。政治家や政府が嘘をつく時代にあって、『1984年』は絵空事ではないのです。

前置きが長くなってしまったのですが、今日、忌まわしき二重思考は、創価学会といった新興宗教団体にも顕著に観察されるように思えます。全国にネットワーク上に配置されている創価学会の会館の名称には’平和’と付くものも多く、同教団が、如何に平和をアピールしているかが窺えます。信者の多くも、自らが信じる教団は世界平和に貢献していると信じ切っているかもしれません。しかしながら、その一方で、同教団は、総体革命の存在で知られるように、国家権力を手中にしようとする‘戦闘集団’でもあります。闘う宗教組織という側面はイエズス会とも共通するのですが、平和を志向する一方で、学会の非メンバーである他者に対して戦いを挑むことを肯定しているのです。

平和志向と戦闘性との間の矛盾については、後者については物理的な力、即ち、戦争といった武力行使とは次元が違うという反論もあることでしょう。しかしながら、戦いとは、必ずしも武力を用いたものに限られるわけではありません。民主的な選挙でありましても、それを‘戦場’と見なしますと、ライバルを倒して自らが勝利すべき戦いです。しかも、創価学会の戦場は、政治的な選挙のみではありません。同教団は、皇室、官界、財界、教育界、マスメディア、スポーツ界、芸能界など様々な分野にあって、信者を要となる重要ポストに就けるべく、日々、組織的に闘っているのです。

また、防衛や安全保障分野に注目しますと、同教団の二重思考的本質がさらにはっきりとします。創価学会と中国との間の‘友情の絆’は国民の多くが知るところですが、当の中国が、今日、日本国のみならず国際の平和を脅かす脅威であることは疑いようもありません。否、中国は、二重思考の親玉のような存在ですので、両者は、価値観において固く結びついているのかもしれません。創価とは、新しい価値を創造するという意味らしいのですが、その‘新しい価値’とは、これまでの価値(倫理・道徳を含む一般常識)を否定して、巧妙に他者を騙す二重思考に‘価値’を付与することなのかもしれないのです。

『1984年』に登場する党のスローガンの一つは、「戦争は平和なり」なのですが、創価学会の場合は、「平和は戦争なり」となるかもしれません。前者は、‘党’が戦時体制を平和と見なすように国民に強要するスローガンですが、後者は、平時にあって、平和を唱えつつその実態は戦いの肯定であり、他国の好戦的な政策に協力しているのですから。

二重思考の罠にかかってしまった信者の人々は、平和の実現のために活動しているつもりが、いつの間にか、国内にあっては不公平で不条理な社会をもたらし(学会員でなければポストを得られない?)、対外的には、自国の安全を脅かしています。そして、活動に熱心になればなるほど、一般の国民から警戒されると共に(誰がメンバーであるのか外部の人々には分からないという意味において一種の秘密結社であり、正真正銘の陰謀組織でもある・・・)、溝が深まってゆくことでしょう。この側面は、世界平和統一家庭連合(元統一教会)にも言えるのですが、信者の方々は、この自己矛盾、即ち、教団によって誘導されている二重思考にそろそろ気付くべきではないでしょうか。

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新興宗教団体の教祖は現代の‘戦争恍師’?

2022年11月14日 13時24分01秒 | 社会
古代にあって、‘戦争恍惚師’なる職業があったことを知る人は殆どいないかもしれません。戦争恍惚師(Kriegsekstatiker, warrior ecstatics)とは、マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』において記述が見られ、戦場にあって兵士達を恍惚状態に導く役割を担っています。今や死語となり、既にこの世から消えた職業と見なされがちですが、もしかしますと、現代にあっても、姿は変えてもこの種の役割を担う人々が存在しているのかもしれません。

ウェーバーに依れば、同職業は、古代ユダヤ人に限ったものではなかったそうです。古代ギリシャ神話のテューデウスやアルスター物語群の英雄クー・フリーンなどにも、戦争恍惚師、つまり、カリスマ的軍事指導者として描かれています。古代イスラエルでは、職業集団としての凡そ「ネビイーム(職業的予言者ナービー団)」がこれに当たるそうですが、古代エジプトやメソポタミアにも類似した集団があり、古今東西において、普遍的な存在であったようなのです。

それでは、何故、戦争には恍惚師を要したのでしょうか。この問いの答えは、すこぶる単純であるかもしれません。それは、自他の命、並びに、身体に関する感覚の忘却あるいは麻痺です。

 まずもって‘正気の状態では他者の命を奪うことは難しい’とは言うまでもありません。理性や慈悲の心があれば、たとえ憎き敵であっても、人を殺める行為には躊躇するものです。1%から3%とされるサイコパスの人口比を考慮しますと、大多数の人々は、できる限り戦場での命での奪い合いを避けたいはずです。殺人を忌避する心が人の本性として備わっているとすれば、戦場にあっては、この禁忌を解除、あるいは、意識させない必要があるのです。

 また、兵士には、敵兵ではなく自らが戦死したり、負傷するリスクもあります。生きて帰ることができないかもしれないのですから、その恐怖は計り知れません。戦場を前にして足がすくむ兵士も少なくないはずであり、たとえ平常心を保つためのセルフコントロールの訓練を受けたとしても、命の危険に晒されるのですから、恐怖心に打ち勝つことは容易ではありません(第一次・第二次世界大戦の際にも、精神を病んだ兵士が多数あった・・・)。

このため兵士達に恐怖心を捨てさせ、我を忘れて戦いに没頭させることも、戦場では必要とされたと考えられるのです。今日に至るまで、内戦を含め、人類は戦争を繰り返してきましたので、戦場での兵士達の心理状態を戦いに適したものに変える必要があったことは想像に難くありません。戦争恍惚師のお仕事とは、まさに、この兵士達を恍惚状態へと導くメンタル操作であったのでしょう。ウェーバーは、スカンジナヴィアの‘猪武者’について、「このエクスタシスによってかれらは、狂犬病的血の渇望に酔いつつ、敵の真只中に躍り込み、なかば意識を失った状態で、手当たり次第のものを虐殺する」と描写しています。すなわち、敵兵の殺戮も自らの死をも恐れず、無我夢中で闘う心理状態こそ、戦争に勝利をおさめるためには必要とされたのです。戦場では、一瞬の良心の揺らぎも許されなかったのでしょう。ジハードをもって破竹の勢いで周辺諸国を侵略し、イスラム帝国を構築したイスラム教が、飲酒を禁じる一方で麻薬を容認するのも、麻薬には人々の精神を麻痺させると共に、痛みを感じなくする作用があるからなのかもしれません(負傷しても無感覚・・・)。

古代に散見される戦争恍惚師という心理操作を担当する特別な職務、あるいは、「ネビイーム」のような職業集団は、現代という時代において一先ずは姿を消しています。戦争法や人道法の整備が進んだことに加え、正確さを要するハイテク兵器類を扱う兵士達には、むしろ冷静さや平常心の維持が求められています。しかしながら、今日の内外の様子を観察しますと、形を変えた戦争恍惚師の姿が見え隠れしているように思えます。

もちろん、第二次世界大戦期にあって国民を巧みな演説を以て狂気の世界に陥れたアドルフ・ヒトラーは、現代の戦争恍惚師の一人であったかもしれません。しかしながら、戦闘的メンタリティーへの鼓舞という戦争恍惚師の原型ではなくとも、人々の理性や良心を狂わせ、道徳や倫理を解除してしまう人や集団が存在しています。例えば、カリスマを装う政治家のみならず、新興宗教団体の教祖などは、その変形型であるのかもしれません。

世界平和統一家庭連合(元統一教会)や創価学会といった新興宗教団体は、その動員力が問題視されているように、信者のメンタリティーを巧みに操作することで、反社会的な行為に対する倫理観や道徳心を失わせています。教祖や教団のためならば、自らの命、あるいは、財産を捨てても惜しくはないという信者も少なくないのでしょう。これらの教団には常々集団ストーカーの噂も絶えませんが、‘恍惚状態’にある信者の多くが堂々と犯罪まがいの行為を集団で行ないかねない危うさがあるのです(所謂“さくら”としての動員への参加自体が他の国民を騙す行為に・・・)。

今日の宗教に対する一般的な理解は、神は絶対善であるとするものです。しかしながら、宗教によっては、とりわけ戦争において、‘神’とは勝利を祈願する対象であり、軍神である場合も少なくありません(キリスト教徒でさえ神のご加護や自軍の勝利を祈る・・・)。また、非道徳的な行為に誘う邪教や悪を崇める悪魔崇拝も実際に存在しています。しかも、今日では、戦場ではなく平時の一般の社会に、そして、敵ではないはずの一般国民を‘敵’と見なして、姿を変えた‘戦争恍惚師’達が、信者の心を惑わしているように見えるのです。このような現状に鑑みますと、人類は、今日、改めて戦争恍惚師の問題と向き合うべきではないかと思うのです。

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二つの平等の区別を-対等化と画一化は違う

2022年08月01日 12時41分08秒 | 社会
 フランス革命のスローガンにも含まれる自由と平等という価値については、極少数の権力欲に駆られた人々を除いて、大多数の人々はその尊重を是とすることでしょう。あるいは、少なくとも、他者から自由を束縛されたり、不当に差別されたりはしたくないはずです。今日の国際社会では国際人道法も整備され、人類共通の普遍的な価値として当然視されているのですが、平等には、二つの側面が含まれているように思えます。

 古今東西に見られたように、不条理な身分制などが公的に存在している場合には、ピラミッド型のヒエラルヒーでは上位身分は少数者となりますので、大多数の国民は平等化を歓迎します。平等という価値が最も輝きを放つのは、身分、性別、宗教といった属性の違いによって人としての扱いが違ってしまう(多民族国家では人種や民族性・・・)、理不尽で無情な上下関係をなくしたことにありましょう。平等という価値は、個々人の間での対等性を確保し、それを法の前の平等の原則の下で保障してこそ、極めて重要な価値なのです。平等の第一の側面は、個々人間の対等化です。

 その一方で、第二の平等の側面とは、画一化です。画一化としての平等にあっては、人々は、他者と違った属性を有したり、発言や行動をとることが許されなくなります。平等という価値は、上記の人と人との関係性を対等にするのではなく、個々人の個性はローラーで引くように押しつぶされる方向に働くのです。完全なる人類の画一化を達成するためには。DNAレベルでの均一性まで要求されますので、もはや全人類を同一の遺伝子で造られたクローン人間化するしかなくなります。つまり、はっきり言って不可能なのです。

それでは、今日における平等とは、どちらの側面が強いのでしょうか。上述したように、完全なる画一化は夢物語なのですが、グローバル化を背景に、‘多様性の尊重’という美名の下で(対等化としての平等)、急速な画一化が全世界レベルで進行しているように思えます。各地の街角の風景から個性が失われ、人々が着ている服装も、都会であれ田舎であれ、変わり映えがしません。Tシャツとジンズ姿の若者達だけを見れば、ニューヨークも上海も、そして、東京もさして変わりはないのです。この傾向は、全国民が一律に人民服を着せられていたかつての中国のような全体主義が、全世界レベルで静かに浸透していることの現れなのかもしれません。

そして、何よりも警戒すべきは、人々の発言や行動についても、画一化としての平等の価値が押しつけられることです。例えば、国籍、民族、年齢、DNA、性別、出身地、家系、学歴、能力、性格、・・・などのあらゆる属性に関する差異についての発言は、平等に反するとして一切禁じられ、法的な処罰の対象となりかねません(現実には、人々の間には違いは完全に消去できないので、言論を封じることに・・・)。その先には、血脈や家族を表す氏姓さえ廃止させられ(国籍や戸籍も廃止?)、各自がナンバーや記号で呼ばれる未来が待っているかもしれないのです。

また、画一化としての平等化は、同調性の要求として個々人の行動にも及ぶことでしょう。例えば、今般、コロナワクチンの接種については、強い同調圧力がかかりましたが、マスメディアや新興宗教団体といった各種動員団体などが社会全体に対する圧力装置となり、人々を同一の行動へと駆り立てていくかもしれません。もはや、‘人と違った行動’は許されないのです。

かくして、全体主義的抑圧体制は、平等という‘善意’の顔をして構築されてゆくこととなります。つまり、平等、否、画一化が人々から自由を奪うのです。となりますと、ここで、自由と平等という二つの価値が真正面から衝突するのですが、自由というものが、独立した主体としての個人の生命、意識、身体を前提として存在する限り、過激な平等主義(画一化)のために自由が犠牲になることを望む人は殆どいないことでしょう。しかも、この過激な平等化政策とは、得てして、自己の自由のみを極限までに拡大しようとしている権力者による支配の手段に過ぎないのですから。数に勝るマジョリティーを対象とした画一化とは、強制装置を備えた強大な権力がなければなし得ないことでもあるのです(何人であっても、他者に対して自分と‘同一’となるように要求はできないはず・・・)。

政策決定権を握る人物が‘平等’の価値を掲げる時ほど、国民にとりまして危険な状況はないのかもしれません。国家が定めた‘規格’から外れた国民は、存在してはならない者、即ち、排除の対象となるからです。フランス革命が国民の大量虐殺を帰結し、平等化を誘因として成立した共産主義体制が国民弾圧・抑圧体制となったのも、過激な平等主義が自らの支配体制成立に役だったからに他なりません。

このように考えますと、過激な平等主義による全体主義化の魔の手から逃れるためには、まずもって、平等という価値にあって渾然一体となってきた対等化と画一化の二つの側面を明確に区別する必要がありましょう。そして、平等の価値とは、本来、個々人の間の対等性にこそあるのですから、この側面にこそ立ち返るべきかもしれません。平等の名の下で画一化を要求されたときには、疑ってかかるべきなのです。生き方を含め、たとえ人それぞれに様々な違いがあったとしても、国民が相互に対等な存在として認め合える国家の方が、より善き国であり、自由で豊かな社会なのではないかと思うのです。

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遺伝子ワクチンとオートファジーに関する素朴な疑問

2022年03月28日 13時29分13秒 | 社会

 ウイルスに起因する感染症に対する人体の防御反応といえば、誰もが、真っ先に免疫システムを思い浮かべるのではないかと思います。このため、事前のワクチン接種による予防という方法も開発されてきたのですが、最近に至り、オートファジーにも有害な細菌等を隔離除去する機能があることが分かってきたそうです。そこで、遺伝子ワクチンを接種しますと、体内の細胞にあってオートファジーがどのように働くのか?という素朴な疑問も湧いてきます。

 

 オートファジーと申しますと、2016年に大隅良典博士がノーベル賞を受賞したことで、細胞のリサイクルシステムとして広く知られるところとなりましたが、『生命を守るしくみ オートファジー』(吉森保、ブルーバックス、講談社、2022年)によりますと、オートファジーとは、「細胞が自己成分などを分解する機能」と凡そ説明されています。同書には目から鱗が落ちるようなお話も多く、その一つが、痛風が腎障害を発生させてしまう機序にオートファジーが関わっているというものです。

 

 同書で説明されている尿酸とオートファジーとの関係を要約しますと、血液中の尿酸濃度の上昇⇒尿酸の結晶化⇒腎臓の細胞における尿酸結晶の取り込み⇒リソソーム(加水分解酵素を備えたオルガネラ)の損傷⇒オートファジーによる損傷リソソームの除去…ということになります。最終的にオートファジーが正常に働いて損傷リソソームは排除されるものの、それでも、マウスに高尿酸血症を誘発する実験を行った結果、血中の尿酸値の濃度が高い場合には、軽度であれ腎機能の低下が見られたそうです。その一方で、遺伝子操作によってオートファジーの機能を完全に除去したマウスでは、著しく腎機能が低下し、オートファジーが腎障害と関連していることが確かめられています。

 

 それでは、体内に大量のスパイクたんぱく質を作り出す遺伝子ワクチンについても、体内の細胞にあってオートファジーが作用しているのでしょうか。尿酸結晶も’とげとげ’ですが、スパイクたんぱく質も’とげとげ’です。このため、細胞内においてリソソームを含む何らかのオルガネラに損傷を与えているのかもしれません。遺伝子ワクチンとオートファジーの関係については、以下のような可能性があるように思えます。

 

 第1の推測は、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は、スパイク部分のACE2との結合によって細胞内に入り込む性質を有するため、人工mRNA由来のスパイクたんぱく質も、ACE2が発現していない他の細胞内に侵入することはない、というものです。この場合、遺伝子ワクチンを接種しても、細胞内のオートファジーは殆ど作用しないということになりましょう。

 

 第2の推測は、スパイクたんぱく質は細胞内部にあってオートファジーを働かせるというものですが、この推測は、同たんぱく質の性質によって凡そ二つに分かれます。スパイクたんぱく質が無害であれば、身体へのマイナス影響はありませんし、スパイクたんぱく質が有害であれば、リソソームやミトンドリア等のオルガネラに損傷を与えることとなりましょう(接種後の倦怠感は、ミトコンドリアの損傷による?)。

 

 特に、仮に後者であれば、同たんぱく質は、mRNAによって細胞内で生成されますので、生成の場となった細胞の内部にあって各種オルガネラを、即、傷つけてしまうかもしれません。また、他の細胞内で生成されて外部に送り出されたスパイクたんぱく質が、一般的なエンドサイトーシスの経路によって体内の他の細胞一般に取り込まれる場合も考えられましょう。何れであれ、上述した実験の結果が示すように、たとえオートファジーが正常に働いたとしても、若干であれ臓器の機能低下が起きるかもしれません。そして、何らかの体質、疾病、並びに、加齢等によってオートファジーの機能低下が既に起きている場合には、臓器の著しい機能低下に見舞われるリスクもありましょう。

 

 そして、ワクチン・メーカーが想定しているように、遺伝子ワクチンによって大量に産生されたスパイクたんぱく質は、オートファジーが作用する以前の段階で免疫システムによって処理されてしまうというのが第3の推測です。同ケースでは、オートファジーによる遺伝子ワクチンの副作用や有害事象は起き得ないのですが、この場合でも、何らかの体質、疾病、並びに加齢等によって免疫力が低下し、免疫システムの対応力を越える接種者にとりましては、上述したような健康被害のリスクがありましょう。

 

 以上に、遺伝子ワクチンとオートファジーに関する主たる疑問を挙げてみましたが、私は専門家ではありませんので、上記の推測は何れも的外れであったかもしれません(お恥ずかしい限りです…)。専門家の一言でこれらの疑問が氷解する、あるいは、推測が瓦解するかもしれないのですが、ワクチン接種後の死亡例も多数報告されており、かつ、深刻なワクチン後遺症も懸念される中、遺伝子ワクチンにつきましては、より徹底した安全性の確認が必要なように思えます。生命は、まだまだ神秘に満ちているのですから。


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子供給付の最大の問題点は発想の貧困では?

2021年11月11日 12時02分30秒 | 社会

 18歳以下の子供たちに対して10万円の給付金を支給する案につきましては、対象を世帯主年収960万円未満とすることで自民党と公明党が合意したと報じられております(同制限は両親+子供二人のモデル世帯の場合…)。公明党の強い要望を受けての政策だけに世論も賛否両論に分かれており、国民にあっても歓迎一色というわけではないようです。

 

 反対論としては、(1)給付政策そのものに対するもの、(2)対象世帯に対するもの(子供のいない家庭は排除…)、(3)所得制限に対するもの、(4)給付の形態(現金+クーポン)に関するものなど、様々な側面からの批判の声が上がっています。(1)の政策自体への批判にあっても、将来の増税を恐れるもの、景気、あるいは、コロナ対策としての効果の薄さを懸念するものなど、さらに論点は細かく分かれているのです。また、選挙に際して給付政策の公約を掲げて闘うという手法が、’票を買う’悪しき前例ともなれば、日本の政治がさらに堕落しかねないリスクもありましょう。

 

 かくして子供給付策は嵐の中の船出ともなったのですが、もう一つ、同政策の問題点を挙げるとすれば、子供たちへの教育効果をも踏まえた上での熟慮に欠けている点ではないかと思うのです。同政策の発案者である公明党も、所得制限に関しては、子供たちの分断、即ち、子供たちの間で’もらえる子供’と’もらえない子供’に分かれることを危惧していると報じられています。確かに、どちらの側であれ、給付政策を機に’苛めに会う’可能性があります。9割のマジョリティーとなる’もらえる子供たち’が、裕福ではあるけれどもマイノリティーとなる1割の’もらえない子供たち’を仲間はずれにするケースもあり得ますし、逆に、給付金を’もらえない’のは富裕層の証として、その優越感から’もらえない子供’が’もらえる子供’を見下すケースも考えられましょう。

 

 しかしながら、家庭にあって、親たちは、自らの世帯への給付の有無を子供たちに伝えるのでしょうか。年収を子供に教える親も、親から聞いた年収を教室にあって他の同級生たちに話す子供もそれ程には多くないことでしょうから、給付の有無をめぐって全国津々浦々の教室内で深刻な分断が起きるとは思えません。また、教室では、しばしば’いじめっ子グループ’と’いじめられっ子グループ’、’アウトドア系’と’おたく系’、あるいは、’スクール・カースト’なるグルーピングが生じる傾向にありますが、仮に、今般の給付の有無が教室に分断を持ち込んだとしても、それは、既存の分断線とは必ずしも一致せず、より複雑な様相を呈することでしょう。

 

 そして、何よりも、分断=悪と見なすならば、そもそも給付政策を中止するという選択の方が余程筋が通っています。対象を特定のグループに限定した給付政策は、どのように線引きしても’分断’が生じるからです。しかも、’お金を配れば何でも解決する(’票’も’支持率’も買える?)’という拝金主義的な手法はいかにも短絡的であり、かつ、教育的にも褒められたものではないように思えます。本政策の根底にある少子高齢化は、教育費等の経済的な家計負担のみならず、子供たちが将来に対して希望を持てない状況も強く影響しています。ITが社会全体に浸透し、AIが職を奪いつつある今日、先行きが不透明な状況下にあって、子供たちが自らの道を見つけることは容易ではありません。全ての子供たちがITやAIに興味や適性があるわけではなく、また、同分野の専門職に就けるわけでもないからです。

 

世代を越えた所得格差の固定化も懸念されている中、再分配政策のみでは、構造的な問題を解決できないことは確かなことです。そうであるからこそ、大人たちが知恵を絞り、そして、子供たちにも一緒に考えてもらってこそ、様々なアイディアが生まれ、より善き未来を導くことができるのではないでしょうか。子供給付政策の最大の問題点はその発想の貧困にこそあり、それは、経済的な貧困よりも深刻なのではないかと思うのです。


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ワクチン接種をめぐる社会的分断の責任は誰に?

2021年09月02日 12時20分18秒 | 社会

 政府の旗振りの下で、ワクチン接種を完了した人の数は、日本国内でも半数に迫ろうとしています。現状にあって12歳以下は対象外とされていますので、65歳以下の年齢層にあっても相当数の人々が既に二度の摂取を終えたようです。その一方で、ワクチンに対する懐疑論は根強く、アメリカなどにあってもワクチン接種率は50%前後で推移しているようです。その理由は、反ワクチン派の主張には、否定し難い根拠があるからであると言えるでしょう。

 

 すなわち、自発的ワクチン未接種者には、ワクチン接種を思い留まるに十分な理由があります。ワクチン関連死を疑われているケースは、日本国内にあって既に1000件を超えており、異物混入が確認されたロットのモデルナ製ワクチンの接種者のうち、二人の男性がなくなっております。この数字こそ、ワクチンの安全性が疑われる最大の根拠です。仮に、政府が強調するように安全性が確立されているのであれば、ワクチン関連死の報告はゼロ、あるいは、せめて他の一般的なワクチンと同程度となるはずなのですから。しかも、これらの報告ケースの大半は、ナノ脂質粒子、人工mRNA、スパイク蛋白質、並びに抗体などに関連してこれまで医科学的見地から指摘されてきたリスク要因によって凡そ説明し得るのです。

 

 ワクチン接種による健康被害が現実的なリスクである以上、非接種者の選択は合理的な判断であり、かつ、リスク情報の発信や非接種の薦めも善意に基づくものとなるのですが、何としても接種率を上げたい人々からは、身勝手な‘悪人’、あるいは、たとえ善人扱いであったとしても、陰謀論を信じる‘変人’というレッテルが張られてしまっています。メディアでもネットでも、反ワクチン派を、社会を分断させる張本人とみなす記事に溢れているのです。反ワクチン派は、‘陰謀論に絡めとられた残念な人’として。

 

 しかしながら、この論調、分断というものの発生プロセスを考えますと、ワクチンを忌避する人々に対する責任転嫁と言えなくもありません。何故ならば、深刻な社会的な分断は、相互に相手の言い分や主張を認めない場合に生じるからです(相互拒絶…)。今般のケースに当て嵌めますと、ワクチン推進派もまた、自らが絶対に正しいと信じ込み、ワクチンを忌避する人々の根拠や理由を一切認めないとする頑なな態度において、社会を分断させています。この点においてワクチン推進派の人々も社会的分断の’張本人’ですので、一方的にワクチン忌避者を糾弾するのは、自らの責任に目を瞑っていると言わざるを得ないのです。

 

 もっとも、メディアやネットに散見されるこうした記事は、ワクチン推進派による世論工作の一環なのでしょう。’書かされている記事’であることは疑いようもないのですが、それでも、同調圧力というものは、何れの国にあっても相当の効果を発揮するようです。アメリカでの実験結果によれば、明らかなる間違いであっても、自分以外の人々がそれを正しいとした場合、驚くべきことに75%もの被験者が、後から自らの見解を変えてしまうそうです。こうした同調圧力の効果を期待しているとしますと、ワクチン推進派の人々は、多勢を装ってワクチン接種を正解と言い募ることで、ワクチン忌避派の人々を’転向’させたいのでしょう。反対派の言い分を素直に認めてしまっては、同調圧力が大幅に弱まってしまうからです。このように考えますと、ワクチンを忌避する人々を、社会を分断させている’残念な人’とみなす記事については用心が必要なように思えるのです。


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AIは人の権利を奪う?-決定権とは権利のこと

2021年08月24日 12時44分11秒 | 社会

 ディープラーニングの登場がブレークスルーとなって、今やAIは、次世代の主役とも目されています。シンギュラリティが実現する日も近いとされ、米中のみならず、各国ともAI技術の開発に鎬を削っています。しかしながら、その一方で、自立的決定が可能となったAIには、機械やロボットにはないリスクがあるように思えます。それは、知らず知らずのうちに人の権利を奪ってしまう、というものです。

 

 その理由は、決定権の保持こそ権利の本質であるからです。産業革命以来、工業をはじめとして様々な分野にあって機械化が進んだことで、人類の多くは、重労働から解放されるようになりました。人権意識が浸透した現代という時代にあっては、過重な労働自体が人々の生命や身体を脅かす人権侵害、あるいは、非人道的行為とも捉えられており、人々に苦痛を与える程の負荷となる労働からの解放こそ、人類の目指すべき道とも認識されているのです(もっとも、プロのスポーツのように必ずしも苦痛ではない場合もありますので、一概には言えませんが…)。必要性から半ば強いられてきた重労働を機械やロボットに代替させれば、人々には、自らの生き方を自らで決定し得る余地が生まれ、より身体に対して負荷の低い仕事を選べます。機械化やロボット化は人類の権利拡大の一環としても理解され、そしてそれは、’束縛からの自由’という意味において、人類に自由をももたらしてきたのです。

 

ラッダイト運動といった反対運動もありながら、機械化は、多くの諸国で受け入れられてきた理由も、基本的な権利や自由の擁護における人類に対する貢献があるからなのでしょう。一方、今日、長足の進歩を遂げているAIは、どうなのでしょうか。AIの最大の特徴は、データを入力さえすれば、それが人の脳の処理能力を遥かに超える程に膨大であったとしても、自ら解析して判断してしまうところにあります。このため、AIに判断を任せる範囲が拡大するにつれて、人が自ら決定し得る範囲が狭まってゆくこととなりましょう。つまり、AIの導入という形で決定権をAIに譲ることで、人々は、組織であれ、個人であれ、自らに直接に関わる事柄であっても、決定する権利を失ってゆく未来が予測されるのです。

 

奴隷とは、自らに対する決定権を失った状態にある人々を意味しています。そして、属国、あるいは、植民地もまた、自らの国に対する決定権を奪われた諸国を言います。決定権の保持こそが、独立性、あるいは、主体性と不可分に結び付いているとしますと、その喪失は、自らを従属的な立場に置くことに他ならないともいえましょう。このように考えますと、日頃より人権の尊重を訴えている人々が、AIについては沈黙しているのは不思議なことです。

 

大量のデータの解析や処理といった頭脳の’重労働’を軽減するために利用については人類に役立つのでしょうが、AIの導入に際しては、それが、人の決定権をうばうものであるのかどうか、慎重に見極める必要があるように思えます。近い将来、AI、あるいは、それを背後でコントロールする極少数のグループによって、人々から決定権が奪われ、隷従化されないためにも。

 

 


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コロナ・ワクチン接種同調圧力の無責任-ワクチン・ハラスメント

2021年07月19日 12時59分32秒 | 社会

 コロナ・ワクチン接種の対象が拡大して以来、職場などにおける同調圧力が問題視されています。厚労省は任意性を強調しつつも、接種を希望しない人に対して、接種を促すための有形無形の圧力や嫌がらせが報告されているからです。ワクチン・ハラスメント、即ち、’ワクハラ’という新たなハラスメントの類型が登場したことにもなるのですが、ワクチン接種に関する他者に対する同調圧力は、あまりにも無責任なのではないかと思うのです。

 

 表向きは、ワクチン接種は強制ではありませんので、希望者に限定されています。言い換えますと、ワクチンを接種するのもしないのも、個人の自由な選択に任されているのです。もっとも、あらゆる自由には責任が伴うものです。個人の自由な選択の結果であれば、その選択から生じるあらゆる事象は当人の責任となり、自由と責任との関係は、本来であれば個人の内に完結するのです。例えば、ワクチンを打つ自由を選択した人は、発症や重症化の回避といったワクチン効果を得る一方で、仮にワクチン接種によって何らかの健康被害が発生した場合、自己責任とされてしまいます(もっとも、仮に、将来的に政府が因果関係を認め、死亡者や重篤者に対して補償金を支払ったとしても、命や健康な身体は戻ってこない…)。反対に、ワクチンを打たない自由を選択した人は、発症や重症化リスクを負う反面、ワクチン・リスクを回避することができます。両者とも、他者に影響を与えませんので、自由と責任との関係は一先ずはバランスしていると言うことができます。

 

 しかしながら、今般のコロナ禍にあっては、ワクチン接種は、上記の個人の問題の枠を越える側面があります。何故ならば、政府は、集団免疫理論を政策の基盤に置いており、それは、感染終息による早期の経済活動再開という目的とも一致しているからです。このため、政府は、表向きは個人の自由を謳いながら、裏ではあの手この手で接種率を上げるべく、様々な誘導策を試みています。時短要請に応じない飲食店に対して融資を見直すように金融機関に指示しようとするぐらいですから、政府は、職場接種に応じない企業に対しても何らかの不利益を与えようとしているのかもしれません。政府からの明示的な指示の如何に拘わらず、企業側が政府の意向を忖度し、職場にあって同調圧力を醸し出しているのかもしれないのです。企業にとりましても、経済活動の一日も早い正常化は望まれるところなのですから、職場とは同調圧力が生じやすい状況にあると言えましょう。

 

 ところが、ここで一つの重大な問題が発生します。同調圧力とは、他者に対して自らの意思を押し付ける行為なのですから、責任の範囲も他者にまで及んでしまうという点です。つまり、自由と責任の問題は、自己責任論では収まり切れなくなるのです。そして、ここで’スポット’が生じてしまうのは、ワクチン接種による健康被害に対する責任です。自らの自由意思でワクチンを接種した場合、ワクチン・リスクから生じる健康被害は基本的には自らの責任となります。その一方で、同調圧力に負けて接種に応じた人々については、これを自己責任と諭されても納得しないことでしょう。言い換えますと、同調圧力をかける側は、万が一にも接種に追い込んだ人々に健康被害が生じた場合、その責任を負う覚悟が必要と言えましょう。

 

 もっとも、同調圧力をかける側の人々は、ワクチン接種を受けない人々が存在することで集団免疫が成立せず、かつ、経済活動も再開できない、としてワクチン非接種者に対してその責任を求めるかもしれません。しかしながら、そもそも、効果の永続性が欠ける今般のコロナ・ワクチンでは集団免疫の成立は困難であることに加えて、ワクチン接種率の高いイギリスやイスラエルの事例は、打たない自由を選択した人々が、打つ自由を選択した人々に追加的なリスクを与えもしなければ、経済活動再開の妨げともなっていない現状を示しています。何故ならば、デルタ株等の変異株によって感染者数は増加に転じているものの、重症者数も死亡者数も低レベルで推移しており、新型コロナは、もはや怖い病気ではなくなっているからです。新規感染者の多くは若者であり、かつ、非接種者であるとされていますが(治療方法の進化も重症化率や死亡率の低下に寄与しているとも…)、感染しても重症化しないもとより免疫力の強い人々なのでしょう。そして、接種にも拘わらず新規に感染した人も、重症化しないのですからワクチンの恩恵を受けたことになります。つまり、集団免疫が成立しなくとも、接種者はワクチン接種のメリットを十分に享受しているのであり、非接種者に対して責任を問う立場にもないのです。

 

 また、今般のワクチンの主たる効果は重症化の防止ですので、ワクチン接種者であっても自らが感染することも、反対に他者に感染させることもあり得ます。この点からしますと、たとえ感染の機会が比較的多くなる接客業であったとしても、ワクチン接種者がお客様や取引相手の人々に感染させるリスクは残ります。言い換えますと、感染についてはお互いさまである一方で(ADEといった中長期的なリスクを考慮すれば、医療崩壊や経済崩壊のリスクについてもお互いさま…)、重症化や死亡のリスクだけは非接種者が負っているのです。そしてそれは、上述した打たない自由を選択した人の自己責任の範囲に収まっています。

 

 以上に’つべこべ’と述べてきてしまいましたが、要は、他者の自由意思を曲げる同調圧力には責任が伴うということです。そして、命や身体にかかわるケースには、とり切れない責任というものもあるのですから、ここは、慎重な判断が求められましょう。少なくとも、ワクチン・ハラスメントや無責任な同調圧力だけは、かけてはならないと思うのです。


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ワクチン安全説からリスクを読み取る

2021年07月06日 16時01分18秒 | 社会

 ワクチン接種をめぐっては、政府やマスメディアが安全アピールに傾斜する一方で、ネットやSNSでは健康被害の報告が後を絶ちません。ようやく大手メディアもワクチン接種会場にあって60歳代の男性が倒れ、救急搬送先の病院で亡くなった事例を報じるようになりましたが、6月下旬の段階でワクチン接種後に356名もの死亡例が報告されたことは厚生省も認めるところです。

 

 現状にあって、政府は、ワクチンに関する情報を全てデマと決めつけ、疑わしい健康被害についても全ての因果関係は悉く否定しています。因果関係さえ認めなければ、あらゆる健康被害は’なかったこと’にできますので、たとえ医科学的な根拠に基づいてワクチンのリスクを訴えても、門前払いとなるのです。それでは、ワクチン・リスクは、安全神話のシャワーを浴びて、人々の意識から洗い流されてしまうのでしょうか。諦めるのはまだ早く、何か方法があるのかもしれません。そして、その一つが、ワクチン推進派の人々の主張からリスクを読み取ることなのではないかと思うのです。

 

本ブログでは、6月28日付の記事で河野太郎ワクチン担当相がデマの根拠として挙げた資料からリスクを見出すという作業を試みてみました。同資料の他にも、ワクチン効果のアピールが同時にリスクを示唆する場合があります。例えば、ファイザー社は、自社のmRNAは遺伝子操作されているため、抗体産生効果が自然感染による抗体の十倍から数十倍に飛躍的にアップしていると自慢しています。その一方、このことは、短期間で消滅する自然のmRNAとは違い、人工的に修飾されたmRNAは、ヒトの体内あってスパイク蛋白を大量に作り続けていることを意味します。この事実こそ同ワクチンが劇薬とされる所以なのでしょうが、全てのワクチン接種者ではないにせよ、接種直後から体内に大量のスパイク蛋白質が生成されれば、ヒトの体に相当のダメージを与えることは容易に推測できます(血栓の原因となると共に、期間は不明なものの臓器への滞留や心筋症や心膜炎の原因に…)。

 

また、先日、ワクチン接種によるメモリーB細胞のリンパ節における長期的活性が同ワクチンの効果の持続性を示唆しているとの研究結果も報じられていました。これが事実であれば、ワクチンによる抗体効果が半年から8か月後には消滅するとする懸念については、完全に払拭されましょう。その反面、この報告も、安全説が言うほどにはワクチン接種の影響は一時的なものではなく、永続性を証明することにもなります。そして、メモリーB細胞の長期的活性は、RNAウィルスにありがちなADEのリスクを高める可能性もありますし、将来的には体内の慢性的な炎症、自己免疫疾患、あるいは、免疫不全等を誘発するかもしれません。また、メモリーB細胞によるワクチン効果が永続化する条件として、同抗体が効かない変異株が出現しない点を挙げていますが、このことも、変異株が登場すれば元の木阿弥となる可能性を示しています。

 

加えて、mRNAワクチンは、人工的にRNA鎖の塩基配列を即座に造り出せるため、変異株に対して即応できるとされています。この即応性のメリットも、変異株が出現する度にワクチンを打たなければならなくなりますので、過剰なワクチン接種のリスクを意味するデメリットともなりましょう。

 

政府や製薬会社側が積極的にリスクを証明する実験や検証を行うとは思えませんので(本来、生体検査や精密な解剖でリスク証明はできるはず…)、ワクチンに内在するリスクをワクチン安全派の人々にも理解してもらうためには、むしろ安全派の人々が主張する根拠に基づいてリスク面を説明するしかないのかもしれません。遺伝子ワクチンの劇的な効果こそ、自らのリスクを自ずと語っているのかもしれないのですから。


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スパイク蛋白質有毒説の衝撃

2021年06月21日 12時05分55秒 | 社会

 コロナワクチンについては、既に職域接種や大学等での接種も始まり、対象者は64歳以下の国民へと大幅な広がりを見せています。12歳以上となる中学生や高校生に対しても、夏休み中での接種を奨励しているとも報じられ、全国民がコロナワクチン接種対象者となる勢いです。しかしながら、その一方で、ワクチンの毒性についてはおよそ解明が進んできているようにも思えます。

 

 日本国よりも早くに接種が始まった諸国では、既に5月頃からワクチンの毒性に対する認識が深まっていたようです。接種率が頭打ちとなったのも、相次ぐ副反応や有害事象の報告に加え(それでも、CDCの公表している数字は氷山の一角とも…)、健康被害が発生する仕組みがおよそ明らかにされたからなのでしょう。その一つが、スパイク蛋白自身に有毒性があったというものです。つまり、新型コロナウイルスによる感染であれ、ワクチン接種によるものであれ、体内にスパイク蛋白質が生成されること自体が人体にとりまして重大な脅威であるというものです。

 

スパイク蛋白質は、全身の血管にあって血栓の生成の要因となると共に、脂質ナノ粒子と同様に血液脳関門を易々と通り抜けるとされております。また、接種後の青年層に心筋炎の発症が見られるのも、血流に乗ったスパイク蛋白質が何らかの心筋細胞にダメージを与えるからなのかもしれません。ドイツの研究では、コロナワクチン接種者にあって死亡した患者の体内を調べたところ、全ての臓器にスパイク蛋白質の蓄積が見られたそうです。同研究では、この結果をワクチンには感染防止効果、あるいは、重症化効果がなかったことの証拠として解釈していますが、あるいは、ワクチンによって体内に生成された大量のスパイク蛋白質が蓄積されることの証拠であったのかもしれません。何れにしましても、最近に至り、スパイク蛋白質に対する医科学的な観点からの警戒論が散見されるようになってきたのです。

 

こうしたスパイク蛋白質有害説に対しては、ファイザー社をはじめ、根拠のない説として否定する向きもあります。ワクチン接種擁護論派の専門家の説明によれば、生成されたスパイク蛋白質は、凡そ2週間程度で’消滅するとされている’そうです。スパイク蛋白質の残存期間が確認されていない点こそ、治験不足の最たるものなのですが、仮に、上述したようにスパイク蛋白質には臓器に蓄積する性質があるならば、それは健康被害の発生と直結します。例えば、アルツハイマー型の認知症や狂牛病等の脳疾患は、まさに蓄積された異常蛋白質によって引き起こされる病気です。これらの病気の発病リスクは、ワクチン接種を繰り返す程さらに高まることでしょう。

 

なお、ワクチン不妊説も’デマ’扱いされていますが、ファイザー社からの流出文章でも、脂質ナノ粒子が肝臓、脾臓、卵巣といった臓器に達している事実が記されています。最も濃度が高くなるのは48時間後とされていますが(同文書では、mRNAに関する実験であり、スパイク蛋白質については不明…)、仮に卵巣にあって卵細胞にmRNAが入り込み、スパイク蛋白質を生成するとしますと、この時、何が起きるか分かりません。何故ならば、ヒトにあって逆転写酵素(テロメラーゼ)を有する数少ない細胞の一つが生殖細胞であるからです(逆転写酵素とは、細胞内の遺伝子内に異常蛋白質を取り込む機能を果たしている酵素であり、癌細胞も逆転写酵素を持つとされているため、癌患者のワクチン接種はリスクが高いとも考えられる)。

 

また、新型コロナウイルス感染症にあって基礎疾患のある人は重症化しやすいことから、これらの人々の優先接種が推奨とされた一方で、実際には、基礎疾患のある人の接種に際して慎重な問診を要するとされたのも、スパイク蛋白質有毒説からすれば説明が付きます。そして、この説が正しければ、重症化や死亡のリスクが高い基礎疾患のある人はワクチンを接種することはできず、こうしたリスクの低い、つまり、ワクチンを必要としない健康な人だけがワクチンを打たなければならないというナンセンスな事態ともなりかねないのです。

 

そして、実のところ、このスパイク蛋白質有害説は、簡単に真偽を調べることができます。現状では因果関係は不明とされていますが、新型コロナ感染症の既往歴がなく、かつ、ワクチン接種後に死亡されたとされる方の全身の臓器を調べれば、スパイク蛋白質の残存という’動かぬ証拠’を掴むことができるのです(血液検査だけでもある程度の残存性は検証できますし、治療中の方の生体の一部を採取して調べることも…)。そして、仮に、血管であれ臓器であれ何であれ、体内の何れかにスパイク蛋白質が発見された場合には、政府が直ちにワクチン接種を中止すべきは言うまでもありません。ワクチン接種者が増えれば増える程、スパイク蛋白質による健康被害が広がるからです。

 

日本国政府は、接種対象者の拡大を図る前に、先ずはスパイク蛋白質有害説の真偽を確かめるべきなのではないでしょうか。ADEや自己免疫疾患など、抗体の生成や免疫反応に伴う中長期的なリスクについては現時点での判断は困難ですが、同説については、現時点にあって解剖や検査等による検証が可能です(政治的介入を避けるために、中立・公平な立場にある複数の機関による実施が望ましい…)。ワクチン接種の圧力、特に同調圧力が強まる中、国民の大半がワクチンの安全性に対して疑念を抱いている現状にあればこそ、政府には、国民に対して安全性を証明する義務があると思うのです。


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ワクチン接種が問う全体と個人の問題 part2

2021年06月03日 12時24分45秒 | 社会

 戦争と感染症との間には、幾つかの相違点があります。第一に、戦争にあっては、敵は目に言えますが、ウイルスや細菌の人体への侵入によって引き起こされる感染症では、見えざる敵を相手に闘わなければなりません。つまり、後者では、敵は‘内部化’されるのです。このことは、敵を完全に排除しようとすれば、図らずも‘敵’になってしまった感染者、つまり、味方を対象としなければならないことを意味します。

 

 このことは、第二の違いを説明します。戦争にあっては、政府の行動は敵が存在する外側に向けて働きますが、感染症にあっては、政府の防御策は内側、即ち、国民に向かいます。しかも、その国民は、感染者と非感染者に分かれてしまうのです。この状況下で全体が個人に優先されるとすれば、それは、感染拡大を最小限に抑えるために感染者に対して実施される厳しい行動制限、あるいは、厳格な隔離です。感染された方々には申し訳がないのですが、それが強制であれ、要請であれ、感染者の基本的権利や自由は制約を受けてしまうのです。感染者に対する行動の制約については、それ程の異論はないのではないかと思います。

 

 それでは、感染者と非感染者が混在する状態にあって、政府は、非感染者、即ち、健康な国民に対して全体の優先を主張できるのでしょうか。戦時にあっては、戦場の兵士のみならず、非戦闘員である民間の国民に対しても、国家の防衛を理由に全体の優先が求められます。都市のロックダウンや緊急事態宣言の発令などの措置は、まさしく、感染症を誰もが感染者となり得る全体の危機と見なしたからに他なりません。そして、集団免疫の獲得を目指すワクチン接種の推進も、この見方の延長線上にあると言えましょう。

 

 確かに、天然痘ワクチンやBCGのようにワクチンの安全性がエビデンスを以って凡そ100%保障されているとすれば、全国民がワクチンを接種したとしても、個の犠牲の問題は生じません。全国民を対象とするワクチン接種は、戦時にあっては、核ミサイルを含む最新鋭のミサイルまでも確実に破壊するミサイル防衛システムのような役割を果たすからです。実際に、将来における生物化学兵器の使用に備え、国産ワクチンの開発を促す声も聞かれます。ワクチン接種によって平時に戻ることができるのですから、接種推進派のワクチンへの期待はこの側面から説明されます。

 

しかしながら、その一方で、ワクチンの安全性に疑義がある場合には、全体と個人との間の利益の比較考量の難しさはミサイル防衛システムの比ではありません。何故ならば、安全性が100%証明されていないワクチンを国民に接種させた場合、一つ間違えますと政府が自国民に対して生物兵器を使ってしまう結果を招きかねないからです。この重大なリスクにおいて、政府と国民との間には、全体の優先と個人の基本権とをめぐる深刻な摩擦が生じることとなります。ウイルスという’共通の敵’との闘いを根拠としてワクチン接種を進めている政府が、ワクチン警戒派から見ますと、国民の命を危険に晒す’国民の敵’に見えてしまうのですから。国民の基本権の保護は政府の基本的な役割の一つですので、警戒論者からしますと政府によるワクチン接種の推進は本末転倒であり、自国の政府が’敵なの’か’味方なの’かわからなくなるのです。少なくない国民が政府に対して疑心暗鬼となる状況は、一致団結が旨とされる戦時では殆どあり得ない事態です(ワクチン接種をめぐっては、政府と国民、並びに、国民間における警戒派と推進派との間での分裂が起きやすい…)。

 

人の基本的な権利とは天賦のものですので(自然権とも呼ばれる…)、ここに至って、国民の多くは、自らの命や身体に対する自己の権利に思い至ることとなりましょう。全体の個に対する優先は、’全体’の目的が「国民の安全や福利」にあることを前提としています。この点は、戦時の方がよりはっきりとしています。国民によってこの要件が欠けていると判断された場合、国民は、自らの自由な意思決定によって政府から自らの身を護ると共に、自らをその一員とする社会をも護らなければならなくなるのです。

 

日本国では新型コロナウイルス禍は他の諸国と比較して軽度であり、遺伝子ワクチンも安全性不明の治験段階にある中にあって、日本国政府が、国民に対して全体の優先を主張し得る程の正当、かつ、合理的な根拠を有しているとは思えません(政府の真の目的は、オリンピックの開催では…)。報道によりますと、政府は職場や大学等でのワクチンの集団接種を実施する方針のようですが、政府による企業に対する協力要請や社内における同調圧力の醸成、あるいは、非接種者に対する差別的な待遇は、上記の考察に照らしますと、国民の基本的な権利並びに自由の侵害ともなりましょう(憲法違反では…)。ワクチン接種とは、基本権の核心である命にも関わり、かつ、個々の身体に対して行われるものですので、今般のワクチン接種に関しては、やはり、個人の自己決定権が最優先されるべきではないかと思うのです。


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ワクチン接種が問う全体と個人の問題

2021年06月02日 12時02分41秒 | 社会

 これまで、リベラルもマスメディアも人権擁護には熱心であり、中国によるウイグル人弾圧に対しても厳しく糾弾しています。このスタンスは、自由主義国の政府にも共通しており、今日にあって、人権の軽視は許されない蛮行と見なされているのです。ところが、ワクチン接種に限っては、自由主義国でも個々人の基本的権利や自由が蔑ろにされているように思えるのです。

 

 人の基本的権利とは、明確な定義はないものの、およそ、自己の人格、生命、身体に対する自分自身の権利とされており、それは、その人本人に専属します。他者が奪ってはならない権利であると共に、他者から奪われてはならない権利なのです。このため、基本的権利を侵害する行為は、古今東西を問わず、犯罪として刑罰の対象となってきました。そして、現代という時代にあって奴隷制が否定されるのも、他者の上に’物権’を設定する権利は、誰も持ち得ないからです。

 

 悪というものを’利己的他害性’であるならば、まさしく、自己の利益のために他者の基本的人権を侵害する行為はまさしく’悪’と言えましょう。その一方で、極めて限られた状況下では、基本的人権を犠牲に供さなければならないケースがあります。その典型的なケースとは、戦争といった国家間で起きる有事です。物理的な破壊力を以って敵勢力から攻撃を受けた場合には、物理的な防衛力でこれを排除するしかなく、その際、多かれ少なかれ、国民の命が犠牲とならざるを得ないからです。戦時にあって、国家に命を捧げる行為が名誉とされてきたのも、それが、国家、否、他の国民のために自らの命を犠牲にする尊い行為であったからに他なりません。人には生まれながらにして自己保存の本能がありますので、それを他者のために自ら放棄するのですから、命を捧げた人々の心情を思えば深く頭が下がるのです。

 

 このように、国民という集団が運命共同体となり、全員が同時に共通の危機に直面する場合には、自らの集団を将来に向けて維持存続させるために、集団のメンバーの一部の基本権が犠牲となるケースがあります。こうした事態は、古今東西を問わず、人類が等しく経験してきた危機であったことでしょう。その一方で、有事にあっては、自己の利益を優先したいがために、敵国を利すような行為を行えば、他の国民から厳しい批判を受けてしまいます。否、政府は、法律を以ってしても、こうした利敵行為を取り締まろうとすることでしょう。私利私欲による敵国への協力が自国民の死を意味するのですから、’非国民’という言葉は、有事にあってこそリアリティーを持つのかもしれません。

 

 有事にあっては、程度の違いこそあれ、国民の基本的な権利のみならず、基本的な自由もまた制約を受ける、すなわち、個人よりも全体が優先されるという非常事態は、国家の体制に拘わらず、如何なる国家にあってもあり得ることです。そして、ここで考えるべきは、今日の新型コロナウイルス禍といった感染症の蔓延は、国民の基本的な権利や自由を制限する正当な根拠となるのか、という問題です。この問題、ワクチン接種をめぐって抜き差しならない状況を国民にもたらしかねないからです。

 

 新型コロナウイルス対策として、既に、各国の政府は、国民の基本的な自由に対して制限を設けています。丸ごと都市のロックダウンを実施する国もあれば、日本国のように飲食店の営業や外出について国民に自粛を求める国もあります。感染状況によって対策も異なるのですが、果たして、今日の日本国政府は、国民に対して全体の優先を正当化できるのでしょうか。この先につきましては、明日の記事にて続きを書いてゆきたいと思います。


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