今般の米価高騰については、今後のさらなる値上がりや品薄も懸念されており、政府が備蓄米放出の方針を示しても、国民の不安が払拭されたわけではありません。食料品の全般的な値上がりもあって、国民生活は苦しくなるばかりです。この問題、実のところ、経済における自由主義に関する二つの‘思い込みの問題’を提起しているように思えます。その一つは、国内市場における一般的な自由主義であり、もう一つは、グローバリズムにも繋がる国際経済における自由貿易主義です。
近代における経済自由主義の祖ともされるアダム・スミスは、その著書『諸国民の富』において自由主義経済の効用を論じています。‘神の見えざる手’は、人々の自由な経済活動が自然に富をもたらすことを上手に表現した言葉です。確かに、より豊かな生活を求めて多くの人々が経済活動に熱心になりますと、経済成長が促されて皆が豊かになるとする説には説得力があります。神様も登場するのですから、多くの人々はこの説を信じたことでしょう。しかしながら、その一方で、欲望には一定の制限を設けなければ他者に対する侵害となりかねないことは、自明の理でもあります(制限を設けなければ、殺人、人身売買、窃盗などの自由も許されてしまう・・・)。この理は、経済に限ったことではなく、人類社会における道徳倫理の根幹に位置しています。自由という価値は極めて重要でありながら、他者の自由や権利を侵害しないように自由に制限を設けることに反対する人は、殆どいないのではないでしょうか。
この観点から今日の自由主義を見ますと、とりわけ新自由主義が主張する規制緩和や聖域なき自由化には、疑問符が付くこととなります。今般の米価高騰を見ましても、異常なまでの米価高騰は、人々の私益を求める自由行動に起因しているからです。しばしば、自由化に際しては、価格競争や品質をめぐる事業者間競争が促進され、消費者が利益を得ると説明されてきました。誰もが納得しがちなのですが、同説の主張通りに競争が働くには、一定の条件を満たす必要があることは忘れがちです。最低限、需給バランスにおいて十分な供給及びその可能性が条件となりましょう。
需要に対して供給が減少すれば価格が上昇することは、価格決定のメカニズムとして経済学が述べるところです。このことは、市場の自由競争は、常に価格が競争的に低下するとは限らないことを意味しています。つまり、供給不足の状況下では、我先に値を上げようとする競争的な値上げという現象もあり得ることとなりましょう。とりわけ農産物は、工業製品のように供給不足に即応することが出来ません。後者であれば、供給不足は増産のチャンスともなるのですが、一年に一回しか収穫期のない農産物は、その年の収穫量がその後一年間の供給量を凡そ決定してしまうのです。
実際に、今般の米価高騰を見ますと、その発端や真の原因が何であれ、集荷事業者や卸売業者等の人々が、より大きな利ざやを求めて競争的に価格を引き上げているように見えます。マスメディアが供給不足を強調すればするほど、さらなる供給不足を狙った買い占めや売り惜しみが誘発されるのです。しかも、自由化の場は、農業の生産から小売りまでの流通過程に限られてもいません。先物取引市場も開設されていますので、運用益を狙う投資家の欲望をも解き放つのです。
かくして供給不足の局面では、‘神の見えざる手’は、‘悪魔の見えざる手’に転じてしまいます。国民生活が豊かになるどころか、私利私欲に走った一部の人々の欲望に巻き込まれ、富を吸い取られてしまうのですから。とは申しましても、経済モデルが極めて限られた条件下でしか成立しない問題はマルクスの『資本論』にも言えることであり、統制経済が望ましいわけでもありません。しかしながら、食料供給は生存条件でもありますので、自由放任であってはならないことは確かです。自由化がもたらした米価高騰の惨状からしますと、今後の農政改革は、農業者並びに消費者の自由を護るために、如何にして適切な規律や制限を設けるのか、という方向で進めるべきなのではないでしょうか。最初のステップとして、先ずは、日本国政府は、投機的な買い占め等の取締と共に、農産物市場への投機マネーの流入を遮断すべきではないかと思うのです(つづく)。