万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

自由貿易論の限界とグローバル理論の不在

2025年02月11日 11時34分01秒 | 国際経済
 自由貿易主義の非現実性は、垂直であれ、水平であれ、自由競争の結果とされる国際分業なるものが、全ての諸国にとりまして満足するとは限らないという事実をもって容易に理解されます。しかも、 ‘最も効率的な国際分業’である以上、たとえ自国が担うことになった‘役目’に不服があったとしても、半ば永遠に固定化されてしまうかもしれません。ITやAIなど先端技術の分野にあって圧倒的にテクノロジーの差が生じてしまっている今日では、過去の時代よりも遥かにキャッチアップが難しい時代でもあるからです。否、キャッチアップが可能な国は、中国やインドと言った人口並びに資源に恵まれた大国に限られているのが現実とも言えましょう。グローバル時代には、‘規模の経済’が優位要因として極めて強く働くからです。

 比較優位説に基づく自由貿易体制における分業については、ヘクシャー・オーリンモデルというものがあり、資本が潤沢な国と労働力が豊富な国との間の分業をモデル化しています。前者では、知識集約型の製品が製造輸出され、後者では、労働集約型の製品が製造輸出されると説明されます。この理論は戦前に唱えられたものですが、逆説的には、供給される生産要素の違いであれ、何であれ、国によって輸出製品に価値の差が生じることを認めているとも言えます。もちろん、前者の価値、すなわち、単価の価格は前者が遥かに高くなるのですが、このことは、比較的に価値の低い後者を製造する国は、前者が製造する最先端の高付加価値の商品を輸入することができないことを意味します。つまり、輸出品において価値に差がある場合には互恵関係が成立しないのです。植民地主義も、アジア・アフリカ諸国が商品作物の生産に特化する一方で、欧米諸国が工業製品の生産を担ったとすれば、国際分業として是認されてしまいます。

 輸出製品の価値差は、これらの理論に頼らなくとも、途上国の経済成長が遅れがちである現実を説明しています。途上国は、輸入に際しての決済(支払い)に必要となる外貨を十分に入手することができないからです。そして、この側面こそ、外国為替を無視したリカードの比較優位説の弱点でもあります。通貨においても国による価値差が存在する場合、価値の低い製品を輸出している国が外国からより価値の高い先端的な製品を輸入しようとすれば、決済通貨が外貨であれば、自国通貨を売って決済通貨(外貨)を買わなければならないのです。となりますと、輸入が増えるほどに自国通貨売りによる為替相場の通貨安が生じ、ますます国内における輸入品の価格が上昇すると共に、互恵関係から遠のいてゆくのです。

 もっとも、為替相場の下落については、輸出には通貨安が有利なため、輸入量の減少と輸出量の増加によって自動的に調整されるとする説もあります(逆に、通貨高の国は輸入が増加し輸出が減少・・・)。しかしながら、この調整力は、国際分業が成立し、かつ、輸出品の価値に差がある場合には、効果が限定されてしまいます。低価格の商品の輸出量が増えたとしても、そこで獲得される外貨は微々たるものだからです。しかも、リカードは、貿易に際して要する決済通貨についても、全く関心を払っていません。第二次世界大戦末期にあってIMFが設立され、兌換通貨としての米ドルを事実上の国際基軸通貨とするブレトンウッズ体制が構築されたのは、貿易決済の円滑化であったのですから、経済学者がまず先に関心を寄せるべきは国際決済通貨であったにも拘わらず・・・。

 因みに、ヘクシャー・オーリンモデルの発案者であるエリ・ヘクシャーは、スウェーデン国籍ではあるものの、リカードと同じくユダヤ系の経済学者でした(ベルティル・オリーンはその弟子・・・)。ヘクシャーもまた、一国の国益に囚われないグローバルな視点の持ち主であったことは想像に難くありません。国際分業とは、あらゆる国を自由貿易体制に組み込むこと、即ち、世界、否、全世界の諸国に関税を撤廃させることによって実現するからです。国際分業の観点からすれば、今日の日本国に期待されている役割は、日本国政府の政策方針を見る限り、富裕者向けの農産物や水産物の生産、並びに、観光であるようにも思えてきます。

 以上に、自由貿易理論の非現実性を概観してきましたが、そもそも、自然科学における理論が、一つの例外事例をもって崩壊してしまうにも拘わらず、経済理論の多くが、非現実的な条件を付していることには大いに疑問があります。例えば、ヘクシャー・オーリンモデルでは、生産要素は地域間では移動しない、としていますが、現実には、資本であれ、労働力であれ、国家間を移動するからです。そして、この生産要素の国境を越えた移動自由化こそ、自由貿易主義とグローバリズムとの違いを意味します。前者は、あくまでも、現在の国家間の貿易を前提としている一方で、後者は、未来における国境なき世界市場の出現を想定しているからです。

 実のところ、ここから先にあって、グローバリズムを肯定的に擁護する理論が現れず、移動の自由化をもって破綻してしまう自由貿易論がなおも持ち出されるのは、その論理的な帰結が一般の人類にとりましてはディストピアであるからなのではないでしょうか(つづく)。

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