20世紀初頭のドイツで活躍したマックス・ヴェーバーは、社会学のみならず、政治学、経済学、宗教学等など、様々な学問領域にあってその才能を縦横に発揮した知の巨人でもありました。ヴェーバーが生きた時代は、民主的選挙制度が本格的に定着しつつある時期でもあり、同氏は、1919年1月に、ドイツのミュンヘンで学生を前にして公開講演を行なっています。1919年1月と言えば、第一次世界大戦の敗戦によりウィルヘルム2世が退位し、当時にあっても最も民主的とされたワイマール共和国が成立する直前の時期に当たります(1918年11月9日に共和国宣言・・・)。
同講演は、後に『職業としての政治』という書物として出版されますが、同書名は、近代にいたって職業が身分によって固定されていた身分制社会が崩し、政治家が選挙を経て国民から選ばれる存在となった時代を表してもいます。君主を含めて為政者が世襲である時代には、政治家とは、一般の国民が自らの意思で選択し得る‘職業’ではありませんでした。政治が‘職業’として概念されたところに、政治家に対する認識の著しい変化が見られるのです。
さて、ヴェーバーは、『職業としての政治』にあって国家を「正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体(団体であれ、個人であれ、国家が許容した範囲でしか、物理的な力を行使し得ないという意味・・・)」と捉えています。それ故に、人々が国家の体制を認めるには正当性が必要となるのですが、この支配の正当性を問う文脈にあって、政治家の資質についても考察しています。つまり、政治家を様々なタイプに分類して分析しつつ、相応しい資質、覚悟、重大な判断に際しての優先順位など、倫理面を含め、内面面にも踏み込む形で政治家という職業を論じているのです。
あらゆる職業には、その職業に求められる適性があります。しばしば採用に際して応募者の性格や能力など、個々人の適性がテストされているように、政治家も、それが職業の一つである以上、備えるべき適性があるのは当然と言えば当然のことです。専門職ともなれば、職務の遂行に要する知識をも要求されます。しかも、上述したように、国家というものが物理的強制力の行使を許す唯一の存在であれば、政治家とは、国家や国民の命運をも左右する極めて重要な職業となります。政治とは、国家を外敵から防御し、国民生活を豊かにし、人々の安全を護るために存在するのですから。同職業の特性からしますと、判断力に欠けていたり、国家や国民に対して無責任かつ無関心であったり、ましてや権力を専ら私利私欲のために行使しようとする人は政治家には向いていないこととなります。因みに、ヴェ-バーは、『職業としての政治』において、政治家に必要な三つの資質として、情熱、責任感、判断力を挙げています。
ウェーバーの論は、20世紀初頭の研究ということもあり、100年以上が経過した今日では疑問点も多々あるのですが、公職としての政治家の重要性は昔も今も変わりはありません。今般、石破政権の人事に対して国民の多くが憤慨し、心の底から呆れかえるのも、政治家としての資質や能力、並びに専門知識を全く問われずして人選がなされたからなのでしょう。目下、世襲議員のみならず、元アイドルであった二人の女性議員が政務官に任命されたため、世論の批判を浴びています(少なくとも、上記の3つの素質を備えているのでしょうか?・・)。今日にあって民主主義が、職業上の適性に関係なく‘誰でも政治家になれる’ことを意味するに過ぎないとしますと、民主主義の時代を迎えたからこそ、政治家に対してより一層の高い志と能力を求めたウェーバーの時代とは真逆の状況にあると言えましょう。
その一方で、不適切な人事が行なわれてしまうのは、統治制度における人事システムにも原因があります。この点、アメリカの制度では、大統領が大統領権限で重職に自らの意中の人物を指名したとしても、議会の承認手続きを要します。日本国でも、首相による組閣人事権独占を改め、国会の関与を制度化するという方向性もありましょう。例えば、政府から提出された行政機関の政治的任命に関する一覧表に対して、国会の側、即ち政党レベルもしくは議員の各々が同リストに記載された個々の候補者について評価・審査し、議員の過半数以上の承認を得られない人物については、首相に対して同ポストの差し替えを求めるといった方法も考えられます(最高裁判所裁判官に対する国民審査のような個別承認制度・・・)。
あるいは、今日の選挙にあって、国民の多くは、人物よりも政策を選んでいますので、副大臣を含む閣僚や政務官等のポストについては、その権限や職務内容を含めて大幅に見直すべきかも知れません。とりわけ、石破人事に対する擁護論者が主張するように、政務官のポストは‘誰でも構わない’、すなわち、‘何もしなくてもよいポスト’であるのならば、既に多くの人々が指摘しているように、国民の負担軽減のためにも無駄なポストとして廃止が議論されて然るべきと言えましょう。
現状を見る限り、政治家は、適性や能力等を問わずに不適切な人事を行なえば、政治家の職業としての専門性を自ら否定し、その存在意義を失わせていることになることに気がついていないようです。あるいは、政治家という職業の‘軽量化’、すなわち‘形骸化’は、各国の政治がグローバリストのコントロール下に置かれている現状が、目に見える不可解な現象として映し出されているのでしょうか(つづく)。