二大政党制は、国民に選択の自由を与えている点において、その機会さえ与えられていない一党独裁制よりは‘まし’ではあります。近代議会制民主主義の発祥の地であるイギリスが長きにわたって二大政党制を維持し、‘自由で民主的な国’を自認するアメリカも二大政党制の国であるためか、二つの大政党が競う二大政党制は、民主主義国家のモデルの如くに見なされてきました。日本国でも、1996年の小選挙区制の導入の裏には米英に倣った二大政党制への転換の思惑があったとされています。しかしながら、現代という時代を考慮しますと、この二者択一の政党政治のモデルは、様々なリスクも抱え込んでいるように思えます。
そもそも、今日という時代にあっては、全ての政策領域における利害や見解を対立する二つに分けて括ることは凡そ不可能です。このことは公約一括選択方式に無理が生じたり、選挙の争点が限定されてしまう理由でもあるのですが、二大政党制では、これらの問題がより顕著に顕われます。現実でも論理的にも無理なことを、無理を推しても貫いているのが二大政党制とも言えましょう。19世紀にあって産業革命を背景に登場してきた‘階級対立’や、これに起因する冷戦期のイデオロギー対立といった、世界観や基本的な価値観をめぐる対立があった時代には、有権者も、自らの漠然とした思考傾向や親近感から二つの政党の内から一つを選ぶことが出来たのでしょうが、今日のように政策ごとに利害や見解が政党のみならず個人の間でも広く分散する時代には、既に時代遅れとなっているのかも知れません。
かくして時代に取り残されながらも、二大政党制がかつては民主主義先進国であった諸国に残っている理由は、一度、二大政党制の枠にはめられてしまいますと、この枠から抜け出すことが難しくなるからなのでしょう。二大政党の何れもが同制度の受益者ですので(第三政党が出現しても小選挙区制が阻害要因となる・・・)、同枠組みの否定は自己の存立基盤を崩しかねず、改革には消極的とならざるを得ないからです。奇妙なことに、アメリカでは、選挙の度に両政党ともに‘アメリカ社会の分断を乗り越える’と訴えていますが、自ら立脚している二大政党制こそ分断を促進する要因であることに気がついていない、あるいは、気がついていてもそれに触れようとはしないのです。そして、グローバル時代を迎えた今日、同制度は、グローバルな利権団体である世界権力が外部から諸国の政治をコントロールするに際しても‘隙’を与えているように思えます。
外部コントロールの視点から本日11月5日に投開票が実施されるアメリカの大統領選挙を見ましても、不審な点が少なくありません。先ずもって指摘し得るのは、共和民主両党の候補者の支持率が常に拮抗してしまうという現象です。この現象、不自然と言えば不自然なのです。トランプ前大統領暗殺未遂事件のように一方の候補者が圧倒的に有利となるような事態が発生したとしても、その後に必ずと言ってもよいほどに‘揺り戻し’が生じます。事件後の経過を見ますと、民主党側が自陣営の候補者を現職のバイデン大統領から副大統領のカマラ・ハリス氏への候補者入れ替えで対処する一方で、共和党陣営でもイーロン・マスク氏が露骨なほどの資金提供を申し出て、有権者が困惑する事態も生じています。先日も、失言や失態が相次いだことからハリス候補の落選見通しが報じられた途端、共和党の常勝州であったアイオワ州での世論調査の結果として逆転が報じられ、ハリス候補の‘巻き返し’が伝えられています。
仮に、この両候補伯仲状態がアメリカ国民の世論を正確に映しているとすれば、浮動票の数%が大統領選挙のキャスティンボートを握っているということにもなりましょう。この数%の人々が、両候補の言動に一喜一憂して支持先を‘コロコロ’変えている、あるいは、支持を取りやめて棄権者となる人数がより多い側の支持率が低下したということなのかもしれません(もしくは、両党とも従来の固定的な支持層が崩壊し、全有権者の票が浮動票化?)。メディアは、パーセンテージをもって世論調査の結果を報じ、全アメリカ国民が二分化しているようなイメージを与えていますが、支持率の変動に関する実態は詳らかではないのです。
何れにしましても、かくも大統領選挙の度にきれいに支持率が二分される状況の出現には、作為性を疑われるだけの不自然さがあります。如何なる事態や事件が発生しても、いつの間にか拮抗状態に戻ってしまうのですから。天秤の微調整のごとく、アメリカ大統領選挙は、外部から巧妙にコントロールされているようにも見えてくるのです(つづく)。