本年、11月11日に予定されている臨時国会での首相指名は、先の衆議院議員選挙にあって与党側が少数派に転落したため、その行方に多くの国民が関心を寄せています。自民党総裁選挙に勝ち抜いて首相の座に就いたばかりの石破茂首相の指名が濃厚ですが、首相指名がかくも注目されるのは、それが、○○政権と称される国家権力の中枢の形成をイメージさせるからなのでしょう。若干の例外は見られるものの、現行の制度では、組閣に関する権限は首相の専権とされますので、同首相が所属し、かつ、指名投票で同氏の氏名を記載した政党あるいは政党連合から閣僚が選ばれる慣行が成立しています。○○党政権という表現も、内閣、すなわち、しばしば政府とも称されるメンバーを与党側が独占しているからなのでしょう。
しかしながら、今日、‘政権’が全ての政治的権限を独占しているのか、と申しますと、そうではありません。むしろ、仮に首相を含む内閣に全ての権力が集中しているとしますと、それは、それが一人であれ、複数であれ、前近代的な君主制や独裁体制と変わりがないことになります。近代以降、民主主義の広がりと共に近代的な議会制度が出現し、権力分立の仕組みが統治制度に導入されるようになると、国政上の決定権の比重は、君主といった為政者から議会へと移ってゆくのです。
この制度上の変化は、統治機能に照らしましても合理性があります。何故ならば、政治とは、全てのメンバーの自由や基本権のみならず、生活や運命にさえかかわる、極めて公共性の高い問題領域であるからです。統治の諸機能が全員に対して遍く及ぶには、一人や少数者が何事も閉鎖的な空間で決定するスタイルよりも、国民の代表が集い、公開された空間でもある合議制の機関のほうが本質的に適しているのです。とりわけ、国民的なコンセンサスを要する分野、すなわち‘内政’とされる分野については、異なる立場や利害関係のある多様な人集団の意見を含めて、国民の声に真摯に耳を傾け、これらの意見や利害が政治の場で表出され、対立がある場合には円滑に調整される必要があるのですから(もっとも、外政については、議会は制御機関であり、同政策領域を担う機関については工夫が必要・・・)。近現代の国家にあって、議会に対して立法過程における最終的な決定権を与えられているのには、民主主義の価値に添った当然とも言える理由があるのです。
因みに、17世紀イギリスの名誉革命から権力分立論を導き出したジョン・ロックは、議会を立法機関とする一方で、君主を議会が制定した法律を執行する機関と見なしています。立法権と行政権との二権による権力分立は、決定権と実行権との間に設定されており、執行機関は、決定機関である議会の下部に置いています(もっとも、外政に関しては、君主に対して連合権や大権を認めている・・・)。議会優位の構図は、日本国憲法にあっても国会は国権の最高機関と定められており(第41条)、18世紀にあって先端的な理論であった三権分立論を逸早く取り入れたアメリカ合衆国でも、憲法は議会に対する立法権の付与から始まっています(第1条)。
近現代の民主主義国家においては立法過程における議会の役割こそ重要であり、首相を含む内閣は権力を独占している訳ではありません。また、各閣僚のポストも、必ずしも‘与党’のメンバーに限定されているわけでもないのです。これまで、与党によって構成された内閣が‘権力の中枢’とするイメージが強いのは、大臣という地位が君主制の時代にあっては、国王が任命した名誉ある輔弼役にして実質的な権力の代行者であった歴史にも起因しているのでしょう。そして、今日では、各省庁のトップが内閣のメンバーであり、政府提出法案が主流であったからとも言えます。
しかしながら、今日、何れの党も過半数に達しない状況にあります。この状況が今後とも続いてゆく可能性があることを考慮しますと、閣僚権限の明確化の作業を進めつつ(政治的利権や権力の私物化といった悪弊の温床である可能性も・・・)、政策決定機関、否、国民的なコンセンサスの集約的な形成機関としての国会機能の活性化を図るべきように思えます。政策や法案毎に政党や議員間の協力関係がフレクシブルに変化する方向に移行すれば、やがて、与野党の境界線のみならず、政党という枠組み自体の意味も薄れてゆくことでしょう。政党もまた、武力は用いなくとも、統治権力の掌握を目指す有力勢力や党派間による古来の‘権力争い’の残影であるのかも知れないのですから。
将来的には、国民発案や国民投票制度等の導入を含め、提案、決定、実行、制御、人事、評価といった諸権限が適切かつ整合的に働く権力分有・分立型の統治機構を再構築する必要がありましょう。グローバリスト、すなわち世界権力が日本国の政界全体に隠然たる影響力を及ぼしている現状からしますと(多頭作戦・・・)、同方向性の改革に対しては陰に陽に妨害も予測されるのですが、政治に対する国民の関心が高まり、既存の政治制度の限界や弊害が明らかとなった今、人々の意識も変わりつつあるように思えるのです。