万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

ムーンショット計画の非現実性

2023年05月10日 13時36分52秒 | その他
 日本国政府が科学技術・イノベーション計画として推進しているムーンショット計画は、イノベーションと銘打ちながら、同計画自体は、おそらく世界経済フォーラムが作成した「グレートリセット」計画のコピー、あるいは、その工程表そのものなのでしょう。言い換えますと、何処にも日本国のオリジナリティーは見当たらず、陳腐なSF風ではあってもイノベーティヴな発想でもないのです(真に日本独自のイノベーションや独創性を求めるならば、目標設定の段階で公募すべきでは・・・)。スタート時点から既に矛盾を抱えているのですが、設定した目標について慎重に吟味し、深い考察がなされた形跡もありません。

 例えば、目標1の「人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」を取り上げてみましょう。同目的を実現するためには、「誰もが多様な社会活動に参画できるサイバネティック・アバター 基盤」を構築する必要があるとされています。サイバネティック・アバター基盤が整備されれば、3D映像として分身のみならずロボットを遠隔で操作することができます。この結果、複数の人が遠隔で複数のアバターやロボットを操作して大規模で複雑なタスクを遂行したり、一人の人が10以上の自身のアバターを同時に操作することもできるようになるのです。

 即ち、時空の制約からの解放とは、分身テクノロジーの確立と言うことになるのですが、果たして、忍術のような分身テクノロジーは、時空の制約を取り除くのでしょうか。アバターの遠隔操作については、難病に指定されているALSを患っている方々が自らの分身を操作して社会生活を送ることができる技術としてしばしば紹介されてきました。ALSのみならず、自らの身体を動かすことができなくなった人々が社会生活を維持するための技術としては意義があるかもしれません(もっとも、同目標が目指すように、人の機能を最大限に拡張できるならば、ALSといった難病を治癒する方法を開発する方が早いかもしれない・・・)。しかしながら、サイバネティック・アバター基盤が想定しているのは、健康な一人の人が複数の多様な分野で活動できる未来なのです。

 ここに、人の意思の単一性不可分性の問題が提起されることとなりましょう。何故ならば、一人の人が複数の特定の場所、かつ、特定の時間に同時に複数の意思決定を行なうことは不可能であるからです。例えば、自らの分身となるアバターを遠隔で操作している人が、同時に異なる人から話しかけられた場合、その人は、同時に複数の人に返答することはできるのでしょうか。聖徳太子の逸話のように一度に多くの人々の話を同時に聞ける人は極めて稀です(稀であるからこそ伝説化が発生)。ましてや脳内の言語領域の活動と発声器官との基本的な対関係からすれば、同時に返答を返すことは殆ど不可能です。たとえ、アバターが複数存在し得たとしても、同時に異なる空間で同時に一つの行動を自らの意思で実行することはできないのではないでしょうか。

 機能拡張のテクノロジーによって一つの意思から複数の発声が可能となる装置が開発されたとしても、人の意思が一つである限り、それぞれの状況に合わせて異なる内容の発言をすることはできないことでしょう。他者との会話のみならず、アバター達が活動する現場のそれぞれの状況適した行動を伴わなければならないとすれば、乗り越えなければならない技術的なハードルはさらに高くなるのです。

 日本国政府、あるいは、世界権力は、達成目的の年を2050年に設定しておりますが、この年まで、あと僅か27年しかありません。この年限を以て目標を達成できると考えるのは、あまりにも非現実的です。しかも、人類は、生物の特徴でもある個々の意思の単一性を永遠に越えることができないかもしれないのです。仮に、意思を分裂させることができるとすれば、それは、一人の頭部の中に複数の脳が併存している状態ともなりましょう。誰が考えても非現実的で夢物語とでも言うべき目標を設定していることこそ、日本政府がカルト化している証しとも言えるのではないかと思うのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本国政府は‘カルト’なのでは?-限りなく怪しいムーンショット計画

2023年05月09日 11時59分15秒 | 国際政治
 安部元首相暗殺事件は、日本国の首相並びに戦後長らく政権与党の座にあった自民党と元統一教会との関係を、国民の前に明るみにすることとなりました。保守政党が韓国系あるいは‘世界系’新興宗教団体の支援を受けてきたことは、紛れもない事実なのですが、なおも政府を信じ、不可解な暗殺事件やワクチンの安全性を説明も含め、日本国政府に信頼を寄せている国民も少なくありません。‘まさか政府が国民を裏切るわけはない’、あるいは、‘政府がカルトに染まっているはずはない’という、ごく一般的な‘常識’が、政府への国民の合理的な懐疑心を阻害しているとも言えます。‘陰謀論’が効果を発揮するのも、政府が‘常識’というものによって護られているからなのでしょう(疑う人の方が‘おかしい’ということに・・・)。

 しかしながら、アドルフ・ヒトラーを持ち出すまでもなく、狂気に囚われた政治家は、何時の世にも出現するものです。特定の宗教が関わっているともなれば、政党や政府が狂信者集団ともなりかねず、国民を巻き添えにするリスクは無視できないほどに高まります。そして、今日の日本国政府にも、同リスクが浮き上がっているように見えるのです。

 それでは、日本国政府がカルトに染まっている証拠は存在しているのでしょうか。もちろん、上述したように、安部元首相暗殺事件は、陰謀の実在性並ぶに新興宗教団体との関係を示す証拠ともなりましょう。その一方で、もう一つ、重要な証拠を挙げるとすれば、それは、ムーンショット計画なのではないかと思うのです。

 ムーンショット計画とは、2020年1月、即ち、第4次安倍内閣の下で日本国の内閣府が打ち出した科学技術・イノベーション計画です。もっとも、最初に同タイプの計画の必要性が主張されたのは、2018年6月14日に開催された「第39回総合科学技術・イノベーション会議」のことであり、提案者は、同会議の‘有識者議員’であったそうです。9つの目標が設定されており、達成目標年は、2050年としています。研究開発支援制度がセットとなっており、目標達成に貢献する研究計画を公募し、政府が支援する仕組みも備わっています。9つの目標とは、以下の通りです。

目標1:人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現(サイバネティック・アバター生活・・・)
 目標2:超早期に疾患の予測・予防をすることができる社会を実現 目標3:AIとロボットの共進化により、自ら学習・行動し人と共生するロボットを実現
 目標4:地球環境再生に向けた持続可能な資源循環を実現
 目標5:未利用の生物機能等のフル活用により、地球規模でムリ・ムダのない持続的な食料供給産業を創出(微生物や昆虫等の生物機能をフル活用・・・)
 目標6:経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現
 目標7:主要な疾患を予防・克服し100歳まで健康不安なく人生を楽しむためのサステイナブルな医療・介護システムを実現(同目標のみ達成目的年は2040年)
 目標8:激甚化しつつある台風や豪雨を制御し極端風水害の脅威から解放された安全安心な社会を実現
 目標9:こころの安らぎや活力を増大することで、精神的に豊かで躍動的な社会を実現

 これらの9つの目標は、あたかも人類の未来がパラダイスであるかの如くに掲げられています。しかしながら、現実で起きている諸問題と照らし合わせてみますと、これらの目標が達成された2050年の世界がディストピアとなる可能性の方が高いように思えます。Covid-19による感染症のパンデミック化以降、日本国のみならず、全世界の諸国が、ワクチンパスポートによる身体管理やワクチン接種強制の危機に見舞われるのみならず、昆虫食の普及や生成AIとの‘共生’を強いられる局面に立たされているからです(おそらく、世界経済フォーラムが推進している「グレートリセット」の一環では・・・)。日本国政府が掲げた9つの目標を読むだけでも背筋が寒くなるのですが、そもそも、ムーショットという名称の命名からしてどこか不自然なところがあります。

 それでは、ムーンショット計画とは、日本国発の計画なのでしょうか。ムーンショットとは、アメリカの月面着陸計画、即ち、アポロ計画にその語源を求めることができます。同語源からしますと、日本国政府が、外国であるアメリカの国家プロジェクトの名称を借りたことにもなり、どこか、違和感があります。それでは、日本国に先立ってアメリカにおいて同名のプロジェクトが存在するのかどうか調べますと、オバマ政権下の2016年1月に、バイデン副大統領のかけ声のもとでがん撲滅プロジェクトとしてThe Cancer Moonshotが開始されています。また、イギリスにあっても、2020年9月9に、当時のジョンソン首相は、Covid―19の大規模検査プログラムとしてOperation Moonshotを公表しました。米英の動きを見ましても、‘ムーンショット’には、世界レベルでの計画性が伺え、日本国のムーショット計画も、おそらく世界権力の指示の下で作成された可能性も否定はできなくなってくるのです。

 宇宙空間につきましては、今日、米中をはじめ各国共に月の開発に鎬を削っておりますが、月への拘りにも、カルト的な精神性が潜んでいるようにも思えます。因みに、元統一教会の教祖である文鮮明を英語で表記しますと、Sun Myung Moonとなります。単なる偶然なのかもしれませんが、この表記には、月(Moon)も太陽(Sun)も含まれています(月と太陽と申しますと、小室夫妻の婚約会見を思い出してしまう・・・)。ムーンショット計画は、日本国政府のカルト化、あるいは、世界権力への従属を強く示唆しているように思えるのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英王室は多様性の尊重で存続するのか

2023年05月08日 13時13分57秒 | 統治制度論
 2023年5月6日、イギリス首都ロンドンのウエストミンスー寺院では、世界各国から招待された賓客が参列する中、厳かにチャールズ3世の戴冠式が執り行われました。その一方で、‘君臨すれども統治せず’とはいえ、若い世代を中心として君主制に疑問を抱く人も多く、イギリス王室も曲がり角を迎えているようです。

こうした民主主義の時代における君主制の揺らぎに対して、大手メディアは、多様性の尊重への転換が万能薬と見なしているようです。昨日のNHKの番組でも、共和制支持者の増加傾向に歯止めをかけるには、多様性の尊重一択しかない、といった論調で現地の様子を伝えていました。しかしながら、メディアが主張するように、多様性を尊重しさえすれば、君主制は維持されるのでしょうか。

判で押したように大手メディアが‘多様性の尊重’を強調するのは、おそらくそれが全世界のメディアをコントロールする世界権力の世界戦略上の基本方針であるからなのでしょう。ところが、この説、現実にあってもロジックにあっても、無理があるように思えます。

 現実が示した反証の事例としては、ヘンリー王子夫妻のケースがあります。メーガン夫人は、英国史上初めてのアフリカ系の血脈を有する英王室のメンバーとなりました。王室における多様性の尊重からしますと、未来の王室に最もふさわしい婚姻であったはずです。同夫人ほど、祖先から伝わるDNAの配列においても、国籍においても、所謂‘階級’においても、個人的経歴や家庭環境等においても、王室の多様化を体現した人物はいなかったからです。ところが、同婚姻は、英王室に対する支持率を上昇させるどころか、逆に下落に拍車をかけてしまいました。英国の古き良き伝統の維持を願う保守層のみならず、大多数の国民から反発を受けてしまったのです。

ヘンリー王子夫妻の事例は、破天荒でインモラルなヘンリー王子の行動や上昇志向の強いメーガン夫人の野心的な性格、並びに、暴露本の出版などに起因するとする向きもありますが、多様性を尊重するならば、王族らしくない人物であっても、これを認めざるを得なくなります。如何なる性格であっても、多様な個性の一つとして受容することが、多様性の尊重であるからです。

また、多様性の尊重は、ロジカルに考えても王室の未来に微笑むとは思えません。そもそも、現代では、統治機能は政府等の公的機関が提供しており、封建時代のように、君主が国家や国民を外敵や盗賊等から保護した時代は既に過ぎ去っております(もっとも、しばしば、君主は、守護者の役割から逸脱した暴君ともなった・・・)。統治者としての役割を終えているのですから、国家の統治機構にあって積極的な役割を見出すことは殆ど不可能に近くなります。他の立憲君主国よりも権限の幅が広いとされるイギリス国王の大権といえども(ただし、イギリスは憲法典のない不文憲法の国・・・)、民主主義の文脈から制約が課せられてきたのが、今日に至るまでの一般的な時代の流れであったのです。ロジカルに考えれば、その先に共和制への移行が見えるのが自然の成り行きと言うことになりましょう。

そこで、現代における新たな王室の役割としては、(1)日本国のように統合の象徴とする(英国の場合、統合の対象は、国家と国民のみならず、英連邦も加わる・・・)、(2)福祉や環境問題など非軍事的な分野に主たる活動の場を移す、 (3)特別な血統を誇る権威者あるいはセレビティになる、(4)英国王室の伝統文化の継承者となる、・・・といった方向性が模索されています。

しかしなら、(1)にしても、多様性を尊重すれば、君主の統合力が逆に弱体化することは目に見えています。多様性を尊重する余りに、国王が外国人や外国文化を優遇したり、過度にこれらの保護者としての役割を買って出たりしますと、一般の国民からの反発を買う自体も予測されましょう。(2)につきましても、非軍事的な分野であるとはいえ、迂闊に政治的な領域に足を踏み入れますと、政争に巻き込まれたり、世論からの批判を受けかねません。例えば、チャールズ国王は、皇太子時代の2020年6月にあって、「グレートリセット」の名称の下で開催された世界経済フォーラムの総会の招集者の一人でもありました(世界権力が推進している「グレートリセット」は、今日、多くの諸国にあって批判を浴びている・・・)。また、(3)についても、世代が下がる程に王家の血統が薄らぎ、かつ、公人の情報公開が是とされる中で、王族の権威の維持は難しく、意味不明な存在となりかねません。しかも、王族は世襲ですので、必ずしも国民の人気を集める素質やカリスマ性に恵まれているとは限らないのです。そして、(4)固有な伝統の継承者に存在意義を見出そうとすれば、多様性の尊重についてはこれを放棄する必要がありましょう。英国の文化的伝統の保持と多様性の尊重は両立しないのです。

そして、全世界規模で大英帝国を築いたイギリスならではの問題としては、多様性とは、植民地支配の‘負の遺産’である点にも注意を要しましょう。メディアの大半は、若者層は多様性の尊重を支持していると決めつけていますが、それが過去の植民地支配がもたらしたものです。現在のグローバリズムもその系譜に属するものである以上、倫理的な問題に直面せざるを得なくなるのです。

以上に述べてきましたように、多様性の尊重という方向性において君主制の存続を期するのには、いささか無理があるように思えます。イギリスと言えば、かの‘二重思考’が生まれた国なのですが、‘多様化は統合なり’、‘保守はリベラルなり’といった洗脳的なレトリックは、現実を前にして崩壊寸前の状態にあるように思えるのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドローン攻撃事件は誰の犯行?-最も可能性の高いシナリオ

2023年05月05日 12時11分01秒 | 国際政治
 今月5月3日、ロシアにおいて大統領執務室が置かれているクレムリンに、無人機であるドローンが攻撃を試みるという事件が発生しました。翌日にはロシア大統領府が、ウクライナ側によるプーチン大統領の暗殺を狙った犯行であるとする見方を公表し、報復も示唆する事態となりました。その一方で、同事件には不自然な点が見られることから、様々な憶測が飛び交うこととなったのです。

 国家間の交戦状態にあって一方の国が攻撃を受けた場合、通常は、相手敵国による仕業と見なされがちです。しかしながら、今般のドローン攻撃事件をウクライナ側の犯行と、即座に断定できないことには、それなりの理由があります。過去の歴史に関する客観的な検証が進み、かつ、ネットの普及により情報量が飛躍的に増大した今日、偽旗作戦の実在性が証明されているからです。このため、犯人と名指しされたウクライナ側によって主張されたのが、ロシア自作自演説でした。既にウクライナ側は5月に大規模な反転攻勢を計画しているとされますので、自作自演説が正しければ、プーチン大統領は、自身が暗殺の危機にあったことをアピールすることで、ロシア国民の対ウ敵愾心及び国民間の団結心を高め、戦時体制の強化を促すための国内対策であったのかもしれません。

 しかしながら、ドローン攻撃事件の解明については、一筋縄ではいかないようです。その後、元ロシア国会議員のイリヤ・ポノマリョフ氏がロシア国内の反プーチン勢力による犯行とする見解を示したことから、新たな可能性が加わることとなりました。また、同国には、目下、プーチン大統領に批判的とされる民間傭兵組織ワグネルも存在しており、大統領に対する威嚇の意味を込めた‘軍事的行為’を行なう能力を有しています。その一方で、ウクライナ側でも、反ゼレンスキー勢力が暗躍している可能性もありますし、アゾフ大隊といった民兵組織から昇格した部隊も戦争の激化を目的に秘密工作活動に従事しているかもしれません。ロシア及びウクライナの両当事国のみならず、ここに、両国内の反政府勢力による犯行という線も浮上してくるのです。

 以上に、二国間の関係から見た可能性について述べてきましたが、ここで注意を要する点は、ロシア側が、ウクライナによる攻撃の背景には、それを命じたアメリカが潜んでいると指摘していることです。この見解に従えば、ロシアの報復対象にはアメリカも含まれることとなり、今般のドローン攻撃事件は、一気に第三次世界大戦の入り口まで人類を引きずり込んでしまうのです。

 かくして、ドローン攻撃事件は、国際社会を世界大戦の危機に陥れるのですが、同事件の解明に当たっては、従来の国家間対立という二次元構図では、‘真犯人’に行き着くことは困難なように思えます。三次元構図、即ち、国際社会を上部から操る世界権力の存在を仮定しますと、今般の事件にあって最も可能性が高いシナリオは、世界権力による世界大戦並びに軍事全体主義体制への誘導作戦の一環ということになりましょう。

 クレムリンの元老院ドームの屋根にドローンが激突するシーンの動画は、2001年9月11日にアメリカで発生した同時多発テロを思い起こさせます。今になって考えてみますと、何故、世界貿易センタービルへの激突シーンを見事に捉えた動画が撮影されたのか、それも謎なのですが、今般の事件でも、狙い澄ましたかのようにドローンによる攻撃の瞬間が撮影されている点に不自然さがあります。しかも、攻撃機の数も、9.11事件と同じく2機であったとされます(攻撃は、15分間隔とされる)。両事件の共通性は、一体、何を意味するのでしょうか。そして、二機とも撃墜されたとされていますが、首都上空の防空システムが機能せず、クレムリンのドームの屋根あるいはロシア国旗にぶつかる寸前の瞬間に撃墜したのか、これも謎なのです(ドーム屋根には二人の人影があり、この二人が撃墜の任務にあたったのであれば、より遠方に飛行している段階で打ち落としたはずですし、迎撃したのかどうかも判然としない・・・)。

 また、ドローンについては、ウクライナの首都キーウでも奇妙な事件が発生しています。クレムリンでの事件後の翌4日にあって、同市上空でドローンが撃墜されたというものです。当初は、ロシア側による報復との見方もありましたが、ウクライナ当局は、自国のドローンが制御不能に陥ったために撃墜したと説明しています。これが事実であれば、ウクライナ国内では、ロシア軍とウクライナ軍の双方がドローンによる空中戦を演じていることになります。通常は、ドローンに対しては、地対空ミサイルで迎撃するはずですので、首都キーウにあってウクライナ軍のドローンが展開している理由が定かではないのです(国民には、敵機であるのか、自軍のドローンであるのか判別がつかない・・・)。

 歴史を振り返りますと、近代以降の世界大戦や戦争の前夜には、必ずと言ってもよいほどに、真相が闇の中となるような謎の事件が発生しているものです。今般のドローン事件も、世界権力による世界支配計画の文脈で理解した方が真相にたどり着く公算が高く、同事件が仮にその予兆であるならば、三次元構図を前提とし、世界大戦化を阻止するための対策を急ぐべきではないかと思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テロリスト黙殺論は乱暴では-目的が正しい場合の対応

2023年05月04日 13時32分48秒 | 統治制度論
 日本国では、昨今、安部元首相暗殺事件並びに岸田現首相襲撃事件という、二つのテロが発生しました。両事件とも手製の発砲装置を用いられたことから、後者については前者の模倣犯とする見解もあります。このため、テロの連鎖的な発生を防止し、テロの撲滅を目指す立場から、テロの如何なる要求にも応えてはならず、かつ、テロの目的である動機を報じることさえ禁じるべき、とする厳しい意見も現れるようになりました(実際に、アメリカでは同方針が採られる傾向にある・・・)。しかしながら、目的と手段との間の一般的な関係からしますと、‘テロリスト黙殺論’は、いささか乱暴な極論のようにも思えます。

 ある目的を達成するための行動については、目的並びに手段の正・不正を軸として、4通りの類型に分けることができます。目的の正邪の区別については、公益性や倫理性の高い目的を正しい目的とし、利己的かつ他害的な目的を不正なものとします。また、手段については、非暴力的で理性に基づく手段を正しい手段とし、暴力を用いた場合を不正なものとします。この分類に、目的を平和裏に実現できる制度、即ち、民主的政治システムであれ、司法制度であれ、合理的な統治制度の有無を加えますと、手段が不正となる②と③についてはさらに二通りに分かれ、全部で6つの類型があることとなりましょう(正しい手段とは、非暴力的かつ合法的制度を用いることなので、手段が正しい①と④については、制度に関するが下部分類がない)。

①目的も手段も正しい
②目的も手段も不正
A:合理的統治制度がありながら、不正な目的のために意図的に不正な手段で行動した
B:合理的統治制度がない状態で、不正な目的のために不正な手段で行動した
③目的は正しいが手段は不正
A:合理的統治制度がありながら、正しい目的のために不正な手段で行動した
B:合理的統治制度がない状態で、正しい目的のために不正な手段で行動した
④目的は不正であるが、手段は正しい

 上記の分類に照らしますと、誰もが‘悪’と認定するケースは、②―Aの「合理的統治制度がありながら、不正な目的のために不正な手段で行動した」であることには、おそらく異論はないのではないかと思います。例えば、民主的な選挙制度がありながら、新興宗教団体が、教祖を頂点とする国家の樹立を目的として、暴力で国権を簒奪しようとするようなケースです(オウム真理教やイスラム過激派のテロ事件など・・・)。

共産革命といった非合法的な暴力革命についてはより分類がやや曖昧となり、共産党という世界組織が、権力と富の独占を目的として専制体制の国家において革命を起こした場合には、合理的統治制度がない状態における目的も手段も不正な②―Bとなりましょう。その一方で、国民の多くが、搾取なき世界の実現を目指しているものと革命の目的‘誤認’している革命に参加した場合には、「合理的統治制度がない状態で、正しい目的のために不正な手段で行動した」の③―Bが主張されることになりましょう。

 過去の歴史を振り返りますと、目的は正しく、かつ、他に手段がなく、やむを得ずして暴力などの不正な手段に訴えた場合には、今日に生きる人々でも、その行動については一定の理解を示す傾向にあります。例えば、重い年貢に苦しめられてきた農民による一揆であるとか、自由なき奴隷達の反乱であるとか、搾取されてきた植民地の独立運動などについては、相手方が理解を示して要求に応じない限り、平和裏に状況を改善する道が閉ざされているからです。つまり、③―Bの場合には、絶対悪として否定はできなくなってくるのです。かの二.二六事件についても、当事の東北地方における農家の貧困や政界の腐敗に思い至り、青年将校達の行動に対する同情論が今日でも見られます(もっとも、‘上部’によって青年将校達の義憤が利用された可能性も・・・)。

 それでは、先に挙げた日本国内で発生した二つのテロ事件はどうでしょうか。これらの暗殺事件にはその不自然な状況から‘黒幕’が潜んでいる可能性が高く、容疑者本人並びにメディアが報じている動機の真偽についても疑いもあります。しかしながら、一先ず、指摘されている動機を前提としますと、何れであれ、目的は正しいとする③のケースに含まれることでしょう。政党と新興宗教団体との癒着や制限的な被選挙権などが民主主義の阻害要因となり、国民の声を政治から遠ざけていることは紛れもない事実であるからです。しかも、岸田首相襲撃事件の場合には、動機の一つとして目的を実現する制度の不備が挙げられています(ただし、多額の供託金は違憲の疑いがあるものの、木村容疑者による被選挙権年齢の引き下げには議論を要するかもしれない・・・)。

 合理的な解決制度が存在している③―Aの場合には、不正な手段を用いますと、たとえ目的が正しくとも大多数の人々が批判することでしょう。目的を達成するに際して、敢えて暴力的手段を用いる必要性は認められないのですから。しかしながら、制度が存在しない③―Bの場合には、上述したように人々の反応は違ってくることでしょう。もちろん、‘テロリスト完全黙殺論’のような目的の内容の吟味さえ否定する意見もあるのですが、人々は、目的が正しく、かつ、それを平和裏に実現する制度がない場合、容疑者の行動を少なくとも理解はしてしまうのです。

 つべこべと理屈を並べてしまいましたが、以上のように整理して考えますと、テロ事件をはじめとした暴力を手段とする事件が発生した場合には、先ずもって目的と手段の正当性、並びに、正当な目的が実現する制度が存在するのかどうかを、慎重に見極める必要がありましょう。テロの類型を判断した結果、目的が正しい場合には、現行の制度の方に問題がある場合があり、民主主義の阻害要因を除去し、平和裏に国民の要望を実現し得る合理的な統治制度の構築こそ、③B型のテロに対する最適な対策ともなり得るからです。テロ事件が発生した際には、主として暴力という手段こそ批判すべきであり、そして、暴力に訴えざるを得ない状況下にあるならば、同状況の改善にこそ努めるべきなのではないでしょうか。それは、テロという行為を批判しつつも、その目的については正当と見なしている多くの国民に対しても、誠実な対応であると思うのです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デジタル民主主義の条件とは-‘国民の声’という独立的なデータベースの構築

2023年05月03日 10時53分18秒 | 統治制度論
 ITやAIといったデジタル技術は、中国といった非民主国家では共産党一党独裁体制を支えるための先端技術として活用されています。また、民主主義国家にあっても、自己利益の最大化を追求するIT大手による事実上の独占状態が出現すると共に、これらの企業と政府との癒着により、民主主義が形骸化する危機に直面しています。何れの国家体制でありましても、世界権力のコントロールが及んでいますので、デジタル全体主義化は、今日に生きる人類が共通して抱える大問題なのです。

 それでは、デジタル技術は、民主主義の‘敵’なのでしょうか。原子力の技術が戦争にも平和にも使われておりますように(もっとも、原子力絶対悪論からは原子力発電といった平和的利用も許せない、ということになる・・・)、技術とは、しばしば‘使いよう’とも申します。使用目的によって、悪にもなれば、善にもなるのです。

 使用目的がテクノロジー利用の善悪判断の基準となるのであれば、ITやAIについても、多くの人々が合意し得る適切な目的を定めるべきと言えましょう。そして、それは、使用分野によっても違ってくることでしょう。例えば、教育の分野であれば、教育とは、様々な知識を身につけると共に、人々の能力を伸ばすことを目的としていますので、この基本目的に反するITやAIの使い方はしないほうが良い、ということになります。つまり、使用者の知的能力や思考能力等が向上する場合にのみ使用を許す、としなければならないのです。

 政治の分野においても同様です。そもそも、統治機能とは、集団形態で生きてきた人類が、集団並びに個人レベルでの安全、安心、安定等を得るために生まれてきたものですので、民主主義とは、統治の必要性を価値として再確認した表現とも言えます。否、人々の必要性を起源としながらも、統治権力が特定の個人や集団の利益のために濫用されてきた苦い歴史を経験してきたからこそ、今日、民主主義の価値が普遍的な価値としてその実現が希求されているとも言えましょう。しかしながら、民主主義とは、それが統治機構において制度化されなければ絵に描いた餅に過ぎず、言葉だけが遊離してしまうのです。

 この側面は、民主主義国家にあっても変わりはなく、国民による人事権の行使を意味する普通選挙制度も、民主主義を完全に実現するわけではありません。ましてや、今日、マスメディア等による世論の誘導や捏造も甚だしく、国民の声が政府や国会の場に届いているとは言いがたい状況にあります。結局、政党や政治家の支援団体、献金者、そして、資金力に抜きん出た世界権力等の意向に沿った政治が‘国民の負託に応える’という定型句の下で行なわれるのであり、海外IT大手による技術独占が進み、かつ、恣意的データ操作が可能となる政治のDX化は、この傾向に拍車をかけるかもしれません(不正選挙やデータの改竄・捏造リスクも・・・)。言い換えますと、民主主義国家といえども、現行の統治システムでは、政治と国民との間の距離は遠くなる一方なのです。
 
 普通選挙制度が民主主義を支えなくなっている今日、統治の正常化、即ち、国民のための政治という意味での民主主義を制度化するには、何らかのブレークスルーを要することは言うまでもありません。そして、その可能性を秘めているのが、IT並びにAIの‘使い方の転換’であるのかもしれないのです。即ち、政治分野におけるITやAIの利用を、民主主義の向上に資する方向へと逆転させるのです。

 このためには、あくまでも営利目的であるGAFAMやオープンAIといった民間企業によるサービスとして提供されるシステムは用いるのではなく、公的なデータ・ベースとして運用されるべきこととなります。しかも、同データベースは、国民並びに政府が共にアクセスできると共に、完全に政府からもメディアからも、かつ、民間企業等からの独立性が制度的に保障される必要がありましょう(技術的には、サイバー攻撃、並びに、不正入力や多重入力等を完全に阻止しなければならない・・・)。いわば、司法の独立性に準じる独立機関として扱い、全ての国民各自の声に対して如何なるバイアスをも排した中立性が確保されなければならないのです(権力分立・・・)。初期的なアルゴリズムバイアスについてはこれを設定せず、たとえそれがヘイトスピーチであっても、国民並びに政府がヘイトの実態を共に知る上でも書き込みを許す方が有益となりましょう。なお、国民からの政策要望については、AIが自動的に内容に即して政策分野ごとに分類してくれるかもしれません。

 詳細については詰めなければならない点が多々あるのですが、ITやAIも使い方を変えれば、デジタル全体主義ではなく、デジタル民主主義へと人類を導くかもしれません。チャットGPTも同様のアイディアを提案するのかもしれませんが、国民の入力により常時更新される‘国民の声’というデータベースの構築と統治制度化というアイディアは、一考に値すると思うのですが、いかがでしょうか。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AIは政策立案に役立つのか?-デジタル民主主義の可能性

2023年05月02日 10時46分23秒 | 統治制度論
 チャットGPTをはじめとした生成AIの登場は、政治のあり方にも多大な影響を与える可能性があります。とりわけマイナス面が強調されているのですが、その反面、民主主義の制度化という課題に対してプラスに働く可能性がないわけではありません。昨日は、国会答弁での導入に関する本記事をアップしましたが、本日は、AIが政策立案に活用された場合について考えてみることとします。

 AIが政策立案に利用された場合、まずもって予測されるのが、国民がAIに支配されてしまう未来図です。人類の頭脳を越えた超越的な能力を備えた、神の如き存在としてAIが君臨し、国民は、AIが自動的に作成した政策に従うのみの存在となりましょう。

中でも最悪のシナリオとされるのが、AIに搭載されているデータ・ベースが特定の少数者、すなわち世界権力によって掌握されている世界の出現です。この世界では、同世界権力によって恣意的に情報が取捨選択される一方で、同権力は、遺伝情報、資産状況、健康状態、学歴・職歴、家族関係、交友関係、思想や宗教、さらにはAIへの忠誠度などを含む、全ての他の人類の個人情報を把握しています。このため、AIの名の下で、少数者支配に対して批判的、あるいは、抵抗を示す国民は、キーのタッチ一つで社会から排除されてしまうのです。世界権力による支配装置となったAIは、太陽光発電の推進であれ、ワクチン接種であれ、昆虫食であれ、増税であれ、移民奨励であれ、世界権力に利益をもたらす政策を全人類に押しつけてくることでしょう。『1984』年では人前に決して姿を現わさない‘ビッグ・ブラザー’が独裁者として描かれていますが、ビッグ・データを搭載したインビジブルな‘AI様’こそ、近未来の独裁者であるかもしれないのです。デジタル全体主義の世界では、民主主義という価値が消滅することは言うまでもありません。

 デジタル全体主義の未来像は、極少数の世界権力、あるいは、グローバリストがAIテクノロジーの開発を主導し、かつ、それを独占した場合に発生リスクが上昇します(中国等の非民主国家では、政府が率先してAIを支配の道具としている・・・)。実際に、ITであれAIであれ、これらの技術はグローバリストの手によって開発されてきました(もっとも、元は軍事技術であった・・・)。例えば、目下話題となっているチャットGPTについても、データ入力の手段としてのプロンプトの使い方は、AIに対してユーザーが質問するという形式です。この形式ですと、回答を受け取るユーザー側は、常に受け身となるのです。

 それでは、AIテクノロジーの主導権を大多数の人類の側が握ったとしたらどうでしょうか。AIが民主主義の制度的な発展に貢献するとしますと、先ずもって、今日のAIの開発状況を是正してゆく必要がありましょう。そして、民主的制度に進化をもたらすツールとして期待するならば、各国政府は、生成AIをはじめとしたAIを民間のイノベーティブなビジネス・チャンスとみなして推進するよりも、経済分野と分離し、政治の民主化の文脈における政治向け技術の研究開発に乗り出すべきかもしれません。それは、検討されているような単なる行政事務の簡素化や国会答弁での活用といった国民管理や支配の道具としてではなく、国民と政治とを直接的に結ぶ民主的政治インフラとしての活用に力点を置くべきではないかと思うのです。

 この文脈から政策立案におけるAIの可能性を考えてみますと、先ずもって、政府や個別の政策に対する個々の国民の政治的意見を集積したデータ・ベースが構築されれば、政府は、大量の情報を瞬時で処理するAIの高度な能力、すなわち、世論集約能力並びに文章化能力により、国民の政治への具体的な不満や要望、そして、改善点を知ることができます。国民が必要とするところが分かれば、自ずと、民意に即した政策を立案することができるのです。

 今日の議会制民主主義にあっては、世界権力をはじめ様々な方面からの圧力や介入により政府と民意とは乖離しがちですが、この問題は、国民の政治的意見のデータ・ベース化により解決される可能性がありましょう。民主化シナリオには、幾つかの条件を整えると共に、問題点を克服する必要もありますが、デジタル全体主義を回避するためには、現行の支配の道具とする方向性を、民主化の道具-デジタル民主主義-とする方向に転換すべきではないかと思うのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

AIと民主主義-そのリスクと可能性

2023年05月01日 10時44分34秒 | 統治制度論
 今月29日に群馬県高崎市で開催されたG7デジタル・技術相会談では、AIの活用について5つの原則で合意することとなりました。同原則とは、民主主義、人権尊重、適正な手続、法の支配、イノベーション機会の活用の5つです。共同声明でも、「民主主義の価値を損ない、表現の自由を抑圧し、人権を脅かすような誤用・乱用に反対する」と明記されています。同方針は、メディア等では概ねデジタル技術を国民監視に利用している中国やロシア等に対する批判的牽制とも説明されていますが、それでは、AIは、民主主義に対してどのような影響を与えるのでしょうか。

 日本国内の動きを見ますと、オープンAIのサム・アルトマン最高経営責任者やマイクロソフト社のフラッド・スミス副社長の来日以来、政府レベルは、公的分野におけるチャットGPTの活用に前のめりとなっていた観があります。G7デジタル・技術相会談に出席した河野デジタル相も、積極導入の方針を示していました。チャットGPT側からの強力な働きかけがあったのでしょうが、行政事務のみならず、国会答弁での活用にまで言及した発言もあったのです。その一方で、EUは既に生成AIに関する法的規制に乗り出しており、日本国政府は、G7の場にあって、導入促進一辺倒ではない現実に直面したのかもしれません。

 G7デジタル・技術相会議で示されたAIの民主主義に対するリスクは、政治過程においてどの段階で利用するのかによっても違ってくるように思えます。また、生成AIの利用は、ユーザーがプロンプトを書き込めるという点に注目しますと、マイナス面のみではないように思えます。そこで、AIを民主主義に対する脅威と決めつけるのではなく、以下に、メリットとデメリットについて考えてみることとします。

 第1の利用現場は、国会での与野党間の答弁です。上述したように、既に政府は国会答弁での活用を検討しているようですが、同サービスは、野党の側も利用することができます。政府側が野党からの質問に対する回答を生成AIによって作成する場合には、国民に対する説明責任(アカウンタビリティー)の所在が曖昧となりましょう。一方、野党の側も、国会にあって政府に質問をしなくとも、同様の回答をAIから得ることができます。野党側も、効果的な質問をAIに作成させることができるのですから、国会での議論は、AIにより‘一人芝居’ともなりかねないのです。

 議員の’お仕事’のAIへの‘委託’は、議会制民主主義を根底から揺さぶることを意味します。それが建前であれ、議会制民主主義とは、民主的選挙を経て国民が選んだ国民の代表たる議員達が、議会での自由闊達な議論を通して法案を提出・審議・修正し、議論を尽くした上で最終的に多数決を以て決定することが決定の手続きの基本とされるからです。生成AIが議会での議論を代替してしまいますと、議会制民主主義は全くもって形骸化してしまうのです。言い換えますと、民主的選挙制度を介した国会議員の選出も、国民の参政権も無意味なものとなりましょう。

 かくして、生成AIは、国会の答弁で導入されますと、とりわけ議会制民主主義を崩壊に導くかもしれません。しかしながら、その一方で、普通選挙制度を中心とする現行の民主的制度を前提とすれば、確かに脅威となるのですが、別の形態の民主的制度が考案された場合には、むしろ、民主主義という価値に対してプラスの働く可能性も否定はできないように思えます。

 その理由は、上述したように、生成AIは、ユーザー、即ち、国民が書き込んだプロンプトを情報としてデータベースに加えることができる能力を有するからです。即ち、生成AIを含むAIは、工夫次第では、国民一人一人の声がストレートに政治の場に届くツールとして利用し得るのです。仮に、国民の一人一人が自らの政治的意見を情報としてAIのデータベースに入力することができれば、そこには、政府やメディア等による恣意的な操作を受けない巨大かつリアルな‘世論’が集積されます。例えば、国会答弁にあっては、与野党とも同世論データベースにアクセスして質問すれば、賛否のみならず、法案に対する国民からの具体的な疑問や批判が回答として提示されることでしょう。

 民主主義を制度的に発展させるためにAIを利用するならば、政府の側の情報収集や国民管理ではなく、参政権を有する国民の側からの政治に対するインプットの装置として使う方が遥かに有益です。そして、こうした利用方法は、国会での答弁のみならず(将来において別の形の民主主義モデルに移行した場合には、国会という機関も存在していないかもしれない・・・)、政策立案においても、民主主義に資するように思えるのです(つづく)。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする