秘書にゃんこが久々のお出かけに選んだ街は、大好きな横浜。
今回は、歴史が感じられるスポットを散策してみました。
元町ショッピングストリートを通り抜けると、明治21年創業の ウチキパン の香ばしい匂いが漂い、
そこから始まる長い上り坂には、外国人墓地 の鬱蒼とした森が、夏でも涼しい木陰を作ってくれます。
ペリー提督が、「海の見える地に」 と幕府に要求して作られた外国人墓地は、決められた日時に募金を行なうと、
その 「お礼」 として、パンフレットが渡され、一般の方でも墓地内に入苑することが可能です。
坂道を上り終えて右に歩くと、多くの観光客が足を止めるのが、元町公園にある六角形の白い電話ボックス。
どうやら明治時代のものらしく、扉に書かれているように、当時は 「自働電話」 と呼ばれていたようです。
電話交換手がつないでいた電話も、やがて大正時代の末になると 「自動交換方式」 が取り入れられ、
「自働」 と 「自動」 では紛らわしいため、「自働電話」 は 「公衆電話」 と改称されたそうです。
カステラ一番 電話は二番 電話が希少だった時代の名残りです
ちなみに我が家に が登場したのは昭和40年代の初めで、花柄の服を着て、共布の座布団に座っていましたっけ。
私も年頃になりますと家族には聞かれたくない話もあり、 のコードを引っ張れるだけ引っ張って廊下に出て、
を着込んで を用意して長電話を楽しんだ札幌の冬の夜を、懐かしく思い出します
と違って誰が出るか分からないため、友人宅にかける際はドキドキしたものですが、
で大人と話す機会が持てたおかげで、挨拶をし、名乗り、友人に取り次いでもらうという、
電話をかけるときの基本的なマナーが、ごく自然に身についたように思えます。
とはいえ、当時の男の子たちにとっては、女の子の にかけた場合、運が悪いと怖~いお父さんが出て、
「君は誰だ 」 「娘に何の用だ 」 と、理由もなく を落とされた時代ですから、
さぞかし緊張して、受話器を握る に汗をかいたことと、今更ながらお察し申し上げます。
さて、元町公園を通り過ぎて更に進みますと、左手に可愛らしい洋館 えの木てい が見えて参ります。
外国人居留地があった山手には、今も洋館が点在していて、こちらも昔はアメリカ人検事の住まいでしたが、
その後、日本人の所有となり、昭和54年(1979年)にカフェとして開業して以来、私は時々訪れています。
店名は、大きな 「榎(えのき)」 からネーミング
山手を後にして、山下町にやって参りました。
日本大通りの樹木に囲まれ、外壁を蔦に覆われた 「かをり」
外国人向けの が建ち、ここ 「横浜居留地70番地」 は、日本におけるホテル発祥の地となりました。
時は幕末。
文明開化よりひと足早く、外国人たちがウィスキーを味わい、ビリヤードに興じていた 「70番地」。
明治の後期には 「山下町70番地」 と改められ、今日に至ります。
歩きくたびれた秘書にゃんこは、こちらの喫茶室でティータイム
店内の隅々まで、昭和の 「かをり」 に包まれていました
この続きは、また次回。。
お読みくださいましてありがとうございます。 クリックしていただけますと励みになります。
今回は、歴史が感じられるスポットを散策してみました。
元町ショッピングストリートを通り抜けると、明治21年創業の ウチキパン の香ばしい匂いが漂い、
そこから始まる長い上り坂には、外国人墓地 の鬱蒼とした森が、夏でも涼しい木陰を作ってくれます。
ペリー提督が、「海の見える地に」 と幕府に要求して作られた外国人墓地は、決められた日時に募金を行なうと、
その 「お礼」 として、パンフレットが渡され、一般の方でも墓地内に入苑することが可能です。
坂道を上り終えて右に歩くと、多くの観光客が足を止めるのが、元町公園にある六角形の白い電話ボックス。
どうやら明治時代のものらしく、扉に書かれているように、当時は 「自働電話」 と呼ばれていたようです。
電話交換手がつないでいた電話も、やがて大正時代の末になると 「自動交換方式」 が取り入れられ、
「自働」 と 「自動」 では紛らわしいため、「自働電話」 は 「公衆電話」 と改称されたそうです。
カステラ一番 電話は二番 電話が希少だった時代の名残りです
ちなみに我が家に が登場したのは昭和40年代の初めで、花柄の服を着て、共布の座布団に座っていましたっけ。
私も年頃になりますと家族には聞かれたくない話もあり、 のコードを引っ張れるだけ引っ張って廊下に出て、
を着込んで を用意して長電話を楽しんだ札幌の冬の夜を、懐かしく思い出します
と違って誰が出るか分からないため、友人宅にかける際はドキドキしたものですが、
で大人と話す機会が持てたおかげで、挨拶をし、名乗り、友人に取り次いでもらうという、
電話をかけるときの基本的なマナーが、ごく自然に身についたように思えます。
とはいえ、当時の男の子たちにとっては、女の子の にかけた場合、運が悪いと怖~いお父さんが出て、
「君は誰だ 」 「娘に何の用だ 」 と、理由もなく を落とされた時代ですから、
さぞかし緊張して、受話器を握る に汗をかいたことと、今更ながらお察し申し上げます。
さて、元町公園を通り過ぎて更に進みますと、左手に可愛らしい洋館 えの木てい が見えて参ります。
外国人居留地があった山手には、今も洋館が点在していて、こちらも昔はアメリカ人検事の住まいでしたが、
その後、日本人の所有となり、昭和54年(1979年)にカフェとして開業して以来、私は時々訪れています。
店名は、大きな 「榎(えのき)」 からネーミング
山手を後にして、山下町にやって参りました。
日本大通りの樹木に囲まれ、外壁を蔦に覆われた 「かをり」
外国人向けの が建ち、ここ 「横浜居留地70番地」 は、日本におけるホテル発祥の地となりました。
時は幕末。
文明開化よりひと足早く、外国人たちがウィスキーを味わい、ビリヤードに興じていた 「70番地」。
明治の後期には 「山下町70番地」 と改められ、今日に至ります。
歩きくたびれた秘書にゃんこは、こちらの喫茶室でティータイム
店内の隅々まで、昭和の 「かをり」 に包まれていました
この続きは、また次回。。
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レトロな横浜、何だか秘書ニャンコさんと一緒に楽しく散策した気分になりました。
「自働電話」 ボックス面白いですね。
ガラス窓みたいで当時はとってもお洒落だったんでしょうね。喫茶室でのティータイムも素敵~~。あこがれの横浜羨ましいです。
いつかjulietさんと一緒に歩いてみたいですね。
それにしてもそちらは温かそうでいいなぁ。
こちらは長い冬物語の始まりです。(>_<)
これからは乾燥の季節、julietさんも風邪に気を付けて下さいね。
そういえば mint さんとは横浜にご一緒したことがありませんものね。
少しばかり詳しくなりましたので、ご案内したいものです。
で話すだけでは足りなくて に帰ってから でオシャベリした頃を懐かしく思い出します。
寒い冬の始まりといえば、mint さんのお楽しみは ですよね