ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

2017年GW ポールデン・ウィークの音楽祭

2017年05月06日 | 日記

And we were New,,, そして当たり前のように今年も奇跡が現実になった。

まさにJust in Timeだった大病明けの2013年秋から数えて、3度目のポール来日公演は、最終日4月30日の東京ドームへ。

前回2015年に続き今回もいい席でした!
ステージ正面ではありませんが、最前列になるA4ブロックのなかでも5列目のステージ寄りの席。
妻が、初めて一緒だった25年近くも前の1993年が一番良い席だったというので、
あらためて当時のチケットを見直してみると、前回よりも正面寄りのC13列でした、、よく覚えている。
(「Peace in the Neighborhood」っていう当時のニューアルバムに入ってた曲を気に入っていたことは、私のほうがよく覚えている。
 今回も80年代の曲、「エボニー・アンド・アイボリー」とか「パイプス・オブ・ピース」とか「カエルの歌」(= We All Stand Togetherのこと)とか歌ってほしいなぁ、と言ってましたが、80年代の曲についていえば、Here Today以外は不思議なほど選から漏れます。いつか聴かせてくれぃ。)

 


 

 


まもなく75歳にもなるポールだけに、長旅や3時間近くに及ぶ連日のライブによるパワーダウンを心配していましたが、
ツイッターに上がってくるコメントや、黒柳徹子さんのインスタグラム投稿に、そんな不安も払拭。

武道館は行けなかったけど、最終日の東京ドームへの期待が高まります。

そう、何度見ても深いところで感動するのです。
おぉ、神よ、そこでは、あらゆる種類の人生や感情が肯定される。

朝から、神さまに逢う日の地球の春を愛でる。

沁みるような緑、フランス式庭園のように整形された端正な生垣。

青空に異国情緒のような差し色を入れるピンクのハナミズキが好きです。
上手く写真に撮れていないが、よく晴れた青い空に浮かぶ花色は、ガンダーラの歌に出てくる遥かな憧れのようだ。

生命が蠢き、沁みるような艶やさを見せるのは緑だけではない、土から栄養を吸い上げて沁みるような赤を見せるのがこの時期のツツジ。
太陽が眩しすぎて、沁みるような瑞々しさのある写真にはならなかったが、これもまたどこか遠い異国アルルの田舎道風。

おぉ、銀座に行くのに、またも出遅れた。
出待ちのペニンシュラに着く頃は黒山の人だかり。

 

McCartney on 30 Apr 2017@Tokyo Dome / part1 ~In spite of all the dangers

”彼らは2002年のDriving World Tourからバンドとして10本目になるOne On Oneの準備をしながら、ポールとの仕事について語る。
 それから14年が経ち、何百もの思い出に残る夜を経て、そして何百万もの音符を奏でて、
 このバンドはこれまでにも増してタイトであり、可能な限り最高のコンサートをしたいという意欲を強く持っている。”

1989年以来ポールとステージを共にしているキーボード奏者、ウィックスの言葉が紹介されている。
~”僕はこれを一般観客に提示すること、そしてそのレガシーという意味で、自分の仕事、僕ら全員の仕事の責任を理解している。
  僕らは演奏する度に、その状況の重要性を常に認識しているつもりだ。”

  ”曲の特徴的なパートには敬意を払う。それは何度も弾いたからという理由だけでどこかのフレーズを変えたりはしないけど、
  一方で、知られているからという理由だけで何かを全く同じように演奏したりもしない。”

曲のフレーズのここそこに、そのようなスピリットを感じる瞬間がたしかにある。
これまでに聴いた演奏と、フレーズの断片をどこか違えていたりするのだ。
その細やかなこだわりに敬服させられる。セットリストが似ていても、同じツアーではない。

 

McCartney on 30 Apr 2017@Tokyo Dome /part 2 ~ you won't see me ~

ヘイ ジュードでの合唱用にチケットと共に送付されて来た「Na Na Na」のプラカード。

4月30日には会場にサイリウムが用意されていました。

 McCartney on 30 Apr 2017@Tokyo Dome /part3 ~ The end

 

ポールは最終日のコンサートを終えた晩、会場からそのまま羽田空港に直行し帰国の途に就いたそうです。
休暇を取ってゆっくり観光するようなこともなく、音楽を届けるため、ライブをするためだけに、はるばる日本にやって来たのでしょうか。
Out There ツアー然り、One On Oneツアー然り。

 

たとえば、一つの和音を長いこと押さえたままにし、「これはどんな感じがする?」と自分に問いかけながら、
納得できる答えが浮かぶまでその音色に浸り切る。
「ものごとを実際にどう感じるかを意識し、それを確かめる力」
この大切な心と体のつながりを果たした時の変化は、文字通り目に見えるほどだ。
そのような再生が実現するかどうかは、それを自分のものにできる、という根本的な信念を取り戻せるかどうかにかかっている。

想像がつく通り、「克服するのではなく追跡するように態度を変えれば」、問題は不思議にも消えてしまうことがある。
もう一度弾いてみて、体のどの部分が、いつ緊張するのか、どこから問題が始まっているのかを、正確に追跡すること。

そして、選んだパッセージをどんなふうに感じたいのか、エネルギーの細部にいたるまで想像する。
動作を細部に至るまで想像すると、神経学的には、その動作を実際にしているのと同じ経験ができることが分かっている。

動作がどんなふうに『見えるのか』のイメージを描くのではなく、
体が神経学的にどんなふうに『感じるのか』の『フィールイメージ』を描く。

(「ミスタッチを怖れるな/ウィリアム ウェストニー」より」)

ポールの音楽や、その底知れぬパワーについての洞察や手がかりにもなる。

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2017年4月 ポールデン・ウィーク始まる

2017年04月29日 | 日記

2015年GW前に来日した時に、ポールデン・ウィークなる言葉がネット上で飛び交いました。

前回の「Out There ツアー」から「One On One ツアー」へと看板を変えたワールドツアー、
最終開催地である日本に、ポールが、またGW前にやって来ました!

あらためて見返すと、
来日ラッシュの始まりになった2013年のツアーは、大病明けの時期だったし、
前回2015年は長男の大学入学式を済ませて間もなくの頃、
今回2017年は次男も大学入学式を済ませたばかり、
節目節目に神様はやって来るのです。

ポールの新作、そして栄光の11月がやって来る

フューチャー・オブ・マインド (神様到来の前夜あたり)

次男の入学式の会場だった武道館、”動物集合”の広告はそのままに、
桜の季節は終わり、ハナミズキやツツジが咲き誇り、生命の息吹きがむんむんするような新緑の季節に。

海外からのセレブが訪れることが多いという、芝大門や増上寺辺りを歩いたり、
神さまのいる東京の空気を満喫したくなるポールデン・ウィーク。

⇒ 前回2015年はこんなにブログ書いてました。

マイスタージンガーかツァラトゥストラか、ポールが再びやってきた。

ポール マッカートニーを追いかけて(2015東京ドーム出待ちの夜)

ポール マッカートニーを追いかけて(2015 ~遂にポールに会う)

ポール マッカートニー 夢の夜 (2015 東京ドーム)

ポール マッカートニー・アート~ 夢に咲く花

ポール マッカートニー ~ 武道館と天の采配


前回 初めて追っかけっぽいことをやったら、クセになったみたいです。

月曜日は西新宿で仕事帰りに一杯やった後、武道館のリハーサルが気になって、その後直行。

翌火曜日(武道館ライブの日)も、飲み会でしたが、その後タクシーで武道館へとまっしぐら。

 

サングラスを外した生き生きしたポールの表情に逢えました。うれしい!

東京ドーム初日の木曜日は、会場に立ち寄って、パンフを購入。

今回のパンフ、すごくカッコいいです。

間もなく75歳になるポールですが、こんなに格好良く年をとる人がいるんだと思わせる、

ざらっとしたリアルな質感があって、写真集としても秀逸。

ポールのいる宙の空気を少しでも感じたくてペニンシュラのPeters Barへ。

(笹の葉が大胆に添えられたペニンシュラ・ハイボールは白洲のジャスミン・ウォッカ。)

2017年4月ポールデンウィーク始まる

3月にリイシューされた「フラワーズ・イン・ザ・ダート」のdemo音源をバックに。

このアルバムを発表してまもなく、ポールはライブ活動を再開、
ビートルズ時代以来となった1990年の来日公演を観に東京まで来た私は、
当時大学を卒業したばかり、
社会人になる直前の3月のこと、これも節目の年でした。

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Another Day of Sun ~ あの日の朝と同じように

2017年04月08日 | 日記

あの日の朝と同じように、庭には水仙が咲いていました。(祝福の春、完璧な桜)

心配していた次男でしたが、なんとか無事に大学生に。(祝 ~ 春はまたいつだってやって来たよ。)

(梅もそうですが、水仙を見ると母を思い出します。)

 マンモス校のせいなのか、入学式は武道館で。

ちょっと笑えた。

親は入場できないので、九段下で別れて、靖國神社を散策。

桜の開花を告げる標準木が4月2日に満開宣言になって一週間、
本降りになることなく持ち堪えてくれた天気、桜が見ごろを保ったまま入学式の日を迎えることができました。

長男が大学に入学した時にも、この辺りにやって来たのでした。(千鳥ヶ淵と件の牛)

千鳥ヶ淵の、御濠の水面にかかるように咲く桜は見事です。

 

その年、その年で、
これはと思うような桜の姿に出逢うことがありますが、靖國神社の啓照館の辺りにあった桜姿が美しかった。

つまは苔の美しさを褒めることが多いのですが、
幹肌を緊密に滑らかに覆う苔姿はなるほど見事です。
花ばかりに目が行きがちですが、枝ぶりを含めた木姿の美しさ。

 

そぼ振る雨の中で、刻々と移ろってゆく自然を切り取ったかのような光景に出遭う。咲き誇る花、散りゆく花、朽ちていく花、其々の瞬間がある。
輪廻転生と言うのか、うごめいていく生命の様態が凝縮されたような光景。

花露に濡れて、天も地も人もコイも、花に溺れるのであります。

 

「風立ちぬ、生きねば。」を想起させた靖國神社内の遊就館。

 

その後、靖国通りを秋葉原まで歩いて、次男のパソコン選びへと。

この春に観た、Another Day of Sun。

映画「ラ・ラ・ランド」オリジナルmusicPV

ミュージカルってどこか不自然なような気がしていましたが、
リアルをそのまま垂れ流しするのではない、いわゆる「拡張現実」的な表現方法なのではなかろうか、と考え直しました。
" 現実世界で人が感知できる情報に、「何か別の情報」を加え現実を「拡張」して表現する ”手法。
VR(バーチャルリアリティ:仮想現実)ではない、AR(Augmented Reality:拡張現実)。

「ラ・ラ・ランド」というのは、ロサンゼルス (LA) から来た言葉で、
ハリウッドやビバリーヒルズ、ビーチなど、現実ではない夢みたいな環境の
ロサンゼルスの代名詞として La La Land という言葉が80年代頃から使われるようになったそうです。

日常会話では、

It seems like she’s in la la land. She doesn’t know what just happened.
(彼女はまた自分の世界に入ってる。何が起きているのかわからないみたい。)

みたく、「非現実的な世界」「ぼーっとしてる」という意味として日常会話で使われるそうです。

でも、グーグルグラスではないですが、AR(拡張現実)って、これからきっと進化していくのだと思う。
心的現実というものが、昔から人それぞれであったように(心的現実性こそが重要である)
各々の拡張現実を生きることが、もっと当たり前の時代が来るような気がします。

( ↓ ) 黄色い衣装が La la Landっぽい。この高揚感も。

George Harrison - What Is Life

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夜会、アコーディオンと歌に酔う。

2017年02月11日 | 日記

なんだかシンクロニシティのようなものを感じます。
夏に、映画「君の名は。」を見て訪れた須賀神社と新宿通りを挟んで反対側辺り、
四ツ谷にある津之守坂を上がっていくと、細長い小さな喫茶店がありました。
(君の名は。~ 聖地巡礼つき)

ポニーテールの少女がお茶を飲みながら読書している看板が目印だとありましたが、
保護色のようであまり目印にはなりません。

 表参道のカワイ・コンサートサロン「パウゼ」で催されたピアノ・リサイタルの返礼にと、
M氏をお連れしたのはアコーディオン・トリオによる瀟洒な音楽的夜会。

ピアノを購入して間もなくの頃、体験ピアノレッスンを受けたことのある先生から、光栄にもお招きを頂きました。
レッスンを続けなかったのはミュージシャンに教わるのは自分には敷居が高すぎるなぁと思っただけなのですが、
数年ぶりにお会いすると、嫌われたのかと思ってました、と言われてしまい、反省しきり。

どんどん宣伝してください!と、ビデオ撮影も許可してくださったので、
瀟洒な夜会の模様を残すことができました。

(動画アップしたらお知らせしようかと思ったのですが、
 病のせいもあって、隠すほどのことはないにせよ、あんまりこのブログは名刺代わりにできないので困ったものです。
 YouTubeのほうも変なマスク被ったりしてるし…あぁ。)

夜会、お楽しみください。

 20170210 ARiHaライブ(Asuka&Rika&濱口雄一郎

にわか勉強。アコーディオンとバンドネオンの違いすらよく分かっていなかった。


グリーンスリーブス好きなのです。⇒ Greensleeves/ギターおじさん


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お正月なのにイエスタデイ ~ 祝 2017 ポール来日

2017年01月02日 | 日記

2016年大晦日の紅白にポールがビデオ出演して2017年に来日予定だとのサプライズ・メッセージ

サイトでは年末カウントダウン、そして2017年新年幕開けと共に、日本公演が正式に発表されました。

(ツアー名は、Out There から One on One に変わっています。)

 

号外も出たようですが、朝日新聞には全面広告も。

GWまでにイエスタディの弾き歌いをなんとかしましょう。

お正月に イエスタディ(昨日)というのも似つかわしくないような気もしますが、
いろんなアレンジがあって、意外にも愉快な曲でもあります。

Yesterday - McCartney Rehearsal


イエスタディという歌詞が出来上がるまでは、スクランブル・エッグというタイトルがついてて、
" Scrambled Eggs, Oh my Baby how I love your legs " って歌詞だった。
おまえの脚が大好きだ、おまえの太腿を愛してる、って歌詞。(こっちで歌うかな。)

"Scrambled Eggs" - Paul McCartney [audio with lyrics] [subtitulos en español]

 

しかし、イエスタディの弾き歌いは意外に難しい。

ちゃんと歌乗せができないまま、かれこれ一年が経ちますが、
YouTubeで、ビートルズのオリジナルの雰囲気やテンポに近いピアノ伴奏を見つけて、練習を再開。

( ⇒ Como tocar "Yesterday"(The Beatles) - Parte 1/2 - Piano tutorial y partitura)

 

イエスタディ 練習中(2017年1月)


伴奏のコード音の中に歌メロの音を含んでいない、いわゆる「倚音(いおん)」が使われているせいか、やはり歌を伴奏に乗せにくい。
Aメロだけでも、冒頭部分に始まって、3箇所も倚音になってるコードがある。
Bメロ(サビ)も、” Why She had to go ” のメロディはA(ラ)の音だが、
冒頭の” Why  ”のコード音(Em7だから、G,B,D/E)の中には、A(ラ)の音はない。
コード外の音で始まって、続く2番目の音でコード内の音になって解決する。

倚音には、メロディとコードの動きにずれを生じさせ、曲調が明解すぎて単純になるのを防ぐ効果があって、
この音の変化が、複雑なサウンドと、ため息をつくような割り切れない思いを表出する。
コード音にメロディを含めるのではなく、コードとメロディ、ベースの要素が合わさって曲全体のコード感=サウンドを作るのはビートルズの楽曲によくみられる特徴らしく、
単音しか出ない弦楽器や管楽器のアンサンブル全体で一つの和音になる、というクラシックと、サウンドの構築の仕方自体が似ているのだという。
弦楽器の使用や、バッハのような進行、印象派風の和音といった表面的なクラシカルだけではないのだ。

( ↓ ) 倚音の使われ方や、ギターのバッキングの音の使い方は、イエスタディの大きな特徴なのだった。

( ↓ ) Fメジャーで始まるが、2小節目からすぐに転調が始まる。(2小節目のメロディはDマイナーの旋律的短音階上行形のみでできている。)
全体の調であるFメジャーとその平行短調であるDマイナーの間を行き来しながら、長調と短調のどちらの調にも安定せず常に転調する。
Aメロの最後では、ブルーノートのB♭も現れて" Yesterday " と歌うフレーズに深い陰影を与える。
(ブルーノートでは、長音階の3,5,7度の音(Cメジャーなら、E,G,B)を♭させる。)

 


なるほど、ガイド・ヴォーカル無しにイエスタディを歌うのは難しいわけだ。
カラオケのようにバックのメロディに合わせて歌えば乗れるわけではなく、歌自体にバックの音とアンサンブルする力が必要なのです。
だから、ポールの歌にかぶせて歌うとそう難しくもない、ということが起こる。
以前、思うようにいかないゴルファーの憂鬱を和訳に乗せて歌ってみたのがこれ。
我ながら名訳だと思うのだが、Youtubeのアノテーション機能を使って和訳をつけているから、スマホやタブレットでは肝心の名訳が表示されない。
これでは、ただのアホだ。
(⇒ Yesterday 憂鬱のマスカラス・バージョン)

一年ほど前に、インターネット配信のピアノ・レッスンの先生が時々開講する実地レッスンに行って、
比較的簡単なコード使いを教えていただいたのですが、
伴奏のテンポがオリジナルと異なってゆっくりだったので、オリジナルのニュアンスが歌に出しにくかった。
伴奏撮りにはチャレンジしてみましたが、歌は上手く乗せられぬまま。

~でも今回あらためて見返してみると、こちらの伴奏アレンジも歌いやすいかもしれません。(汗)

(コードのボイシングとハーモニーについて)

([ピアノ弾きおじさんへの道] Yesterdayのレッスンで感じたこと)

(イエスタディの捧げもの)

~この時のレッスンをヒントにレッスンビデオを作ったとの連絡を頂けて嬉しかった。光栄であります。
(⇒ 簡単!「ビートルズのイエスタデイ1」ピアノ弾き語ろう超入門講座~THE BEATLES*Yesterday )


ポールが真似ることも多い、エルヴィスの歌声をイメージしたら歌いやすくなることに、今になって気がつきました。
(同じく 今練習中のレディ マドンナでは、ポールはエルヴィスばりのバリトン風の声で歌っている。)
目いっぱいの高さのキーで歌うより、余裕があったほうが、伴奏とアンサンブルするアタックの強さが生まれるのではなかろうか。

Elvis Presley-Yesterday(Elvis sings The Beatles hit) with lyrics

 

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浅草でXマス・イブ

2016年12月26日 | 日記

John Lennon - Happy XMAS (War Is Over) - Lyrics

Xマス・イヴの晩に浅草で
2007年にアイスランドに建設された「イマジン・ピースタワー」の光の塔が再演されるとのこと。

こんな写真もネットに掲載されていて、期待が高まります。
東京スカイツリーも傍にあって、これ以上ないXマスツリーを拝することのできるようなイベントを期待していました。

ひょっとしたらヨーコさんが来たりするのだろか。

開催場所はギャラリーASAKUSAとあるのですが、
記載の住所を訪ねてみてもイベント会場らしき所は見当たりません。

路地裏の奥に在る小さな民家に人が集まっていました。

夜8時、光のイベントの始まる前にはトリビュート・パフォーマンスがあるというので、
ギャラリーになっている民家の2階に上がってみました。

ヨーコさんの著書「グレープフルーツ」を参照したトリビュート・パフォーマンスということらしいのですが、
何の予告や前説もなく、ロフトのような白っぽい二階の部屋に上がると、
長髪で長身の男性が、キリストの磔刑像のように梯子に立っていました。
僅かに隠しているとはいえ、時々はだけると、全裸です。びっくりしました。
アートの名のもとのせいなのか、女性のギャラリーも多いというのに、皆、意外に冷静に見ているのにも驚きました。
好奇の眼で見てしまいがちな自分の方が正常で健全だという、
一方的に線引きするような感覚があったとしたら、それだけでは精神が貧困なのかもしれません。

~ 病的である者こそは現實を知つてゐるやうに私には思へる。 ( 中原中也 )
本当は連続しているものですら、ある境界をもって二元論的に区別される。
この正常というものは何をもって約束されているというのか。
健全とは何か、それは淋しいものだ、と言った中原中也の嘆き。
(「詩人」という生き方 ~ Junk ♪ )

期待していた光の塔ですが、アイスランドにあるという本物とは規模も全然違ってがっかり。

( ↓ ) 本物はこんな感じ









ヨーコさんと関係があるのかも不明、イベントの説明はなく、イベントを仕切る役回りの人もいない。
ネットにあったようなイベント的な趣きとはなんだか違っている。
アートは説明するものではないとはいえ、一体なんだったのでしょう。

ある意味、Xマスイヴに起きたマジック、異界体験。

東京タワーなら、きっとクリスマス・イルミネーションでもやっているのでしょうが、
東京スカイツリーはいつも通りでした。

仲見世通りは、クリスマスなんてどこへやら、早やお正月の風情。
浅草寺では、どうか幸せが訪れますようにと、ひと足早く、受験生の次男坊のお祈りを。
いつも神社で手を合わせる時には、ついつい色々と、アバウトなお祈りになりがちなのですが、
今回はそれだけをお互いにお願いしていたという奥さんと笑い合ってしまいました。

浅草に行く前に立ち寄った日本橋では、これまたXマスらしくなく、
だしを買い求めるために、大和屋や、茅の舎を訪ねる。
そんなつもりはなかったのですが、白い財布をプレゼントしたところだけクリスマスっぽい。

光の塔のイベントを待つ間、これまたクリスマスらしからぬクリスマス・ディナーは、洋食のヨシカミのカウンター席で。

長嶋さんと王さんのサインが同じ色紙に書かれているのが、カウンター席の前に掛かっていました。
これも、今となっては珍しくも懐かしい昭和の風情。

受験生への手土産に、カツサンドを買って帰るあたりも、昭和のおじさんなのです。

羽田にも店を出しているようですが、
浅草では”味にうるさい遊び好きな旦那衆を相手にしているから、味には手を抜けない”そうで、
一人前と認められるまでは客から見えるオープンキッチンの厨房でオムライスを作ることはできないそうです。
有名なビーフシチューが絶品でした。
(これまた何十年ぶりだろか、というミルクセーキをオーダーしたら、カクテルでも作るかのようにシェーカーで。)

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君の名は。~ 聖地巡礼つき

2016年09月26日 | 日記

長男お薦めの世界観を確り堪能してみようと思った。

新海 誠監督は若者に向けたメッセージをこの作品に乗せたそうだ。
震災や異常気象、何かが起きるかもしれない、不確かな時代を察知する感覚は、
世代によって明らかに違うと思う。

我々人間というのは、常に可能性の一歩手前で生きている。
何か起きるかもしれない、その前日の今を生きている。
何か起きるかもしれないということを、ポジティブに捉えてほしいんだ。

映画の設定では、2016年の立花瀧と、三年前の2013年の宮水三葉が入れ替わる。
(私の世代なら、大林宣彦監督の「転校生」や「さびしんぼう」、「時をかける少女」を連想させる設定だ。)

身体や空間だけでなく、時間軸の方も三年ずれて入れ替わってしまったところが、物語を面白くする。

( ↓ ) 「世界線」 で整理すると分かりやすい。(引用元:「君の名は。」ネタバレ!時系列で解説!)

 

黒線(三葉の運命が変わる前の、死んだ時の時間軸)が世界線として便宜的に書かれているが、
これは事後的には現実ではなくなってしまった時間軸、すなわち虚数の時間軸として整理すればよいのだろうか。

「世界線」や「時空」については、かつてブログを始めた頃にも記事にした。
(映画を教えてもらったのとは逆に、複素解析を理解する助けになるのではと思って長男に本を渡していたのだが、どうも読んでいないっぽい。)

時空とあの世について
時間の存在について

( ↓ ) そもそも、光の世界線を無視して、時空を、時間と空間の二つの要素で分かりやすく書き表そうとすることに無理があるのではないか。

    時間を実数とすると、今度は空間が虚数になってしまう。

右図は、時間と空間以外の要素を「私の世界線」に固定して書き表したものだと言っていいと思うのだが、

 この場合には、光の世界線を境界にして、現実世界にはあり得ない非因果的領域(光速を超えた領域)ができてしまう。

これは、この図自体に、実数と虚数が混じってしまっていることを表しているように思える。




ここで重要なことは、このような時間の食い違いは、決して見かけ上のものではないということ。

ある人にとっての過去が、別の人にとっては未来であるなどということはありえない、と思う人は、
未だ絶対時間という亡霊に取り憑かれているのである。

そして、三年前に彗星の墜ちた糸守町で命を落としたはずの三葉は、運命を書き換える。


 2013-2016と時を同じくしているそのような奇跡には、
ちゃんと対峙しておかなくてはいけないような気がして、
検査通院の後、湘南新宿ライン経由で、映画のモデルになった場所(いわゆる聖地)に向かうことにした。


キービジュアルとしてポスターにもなっている、四ッ谷にある須賀神社の階段。
(たぶん考え過ぎだが、2013年の初夏、三葉と同じように、私もまた、あり得たかもしれない別の世界線への分岐点にいた。)

 

そして、2016年、世界線(運命)を書き換えた三葉は、瀧とこの神社の階段ですれ違う。

彗星が糸守町に落ちる前のカタワレ時(黄昏時)に実現した、三葉と瀧の時空を超えた奇跡の出会いは、夜の訪れとともに一瞬で終わり、
その後の東京では、かつての時空でカタワレであったひとの大切な「名前」すら忘れたまま、すれ違おうとしている。

たそがれ(黄昏)の語源になったとも言われる小野小町の万葉句も、物語上のモチーフになる。

~ 誰そ彼(たそかれ)と われをな問ひそ 九月(ながつき)の 露に濡れつつ 君待つわれそ

” お前は誰だ?”... 形を変えて繰り返されるモチーフが、

”君の名は?” の変形であったことにようやく気づく。

RADWIMPSの前前前世が強力で誰もそんなことを言わないが、ビートルズのI Willもピッタリだと思った。
For if I ever saw you, I didn't catch your name.  って、
忘れっぽい男の歌だというわけではない、人の記憶はどこに宿るのかという話。

  

須賀神社には三十六歌仙絵が奉納されていましたが、
三十六歌仙にあった小野小町の歌は、こちらでした。

~花の色は うつりにけりな いたづらにわが身よにふる ながめせしまに

 おみやげ。

電車一本でつながっているから、ささっと間隙をついて、行ってみようという気になった。

四ツ谷駅の赤坂方面改札側から 九月のたそがれ散歩、いわゆる聖地巡礼。

 

 ”君もいつかちゃんと、幸せになりなさい”

 

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50歳のからくり

2016年07月11日 | 日記

~ 人間五十年、下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり ~

夢枕に、敦盛を舞う男が立つというようなことは起こりませんでした。

五十歳の誕生日は曇り空、ふつうの朝。

楽しみにしていた武道館でのセッションズ・コンサートは中止になりましたが、
代わりというわけではないにせよ、
キャロコレ(ロイヤル・コレクションのことをロイコレとはいいますが、キャロコレは聞いたことないですが。)が、
誕生日の晩にタイミングよく届く。

 

    

 

引き寄せの法則、ということがよく言われますが、
五十歳ともなると、外界との接し方を変えてみるのもよいのではないか、などと思ったりもする。
同じことの延長を続けるのではなく。
承認欲求であるとか、そういうものから一線を置いてみる。
取りに行くというのではなく、引き寄せてみるとか。

人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。
過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。
物語の先には、「ぼんやりとしたこれから」が見えてしまいます。
しかも、そのとおりに生きる以外にない、、
ここで持ち出される過去は、あなたの「いま、ここ」に関係のない、人生の嘘に他なりません。

人生とは点の連続であり、連続する刹那である。
そのことが理解できれば、もはや物語は必要なくなるでしょう。
あなたも、わたしも、たとえ「いま、ここ」で生を終えたとしても、それは不幸と呼ぶべきものではありません。
「いま、ここ」を真剣に生きていたとしたら、その刹那はつねに完結したものであり、
20歳で終わった生も、90歳で終わった生も、いずれも完結した、幸福なる生なのです。

どこに到達したのかを線で見るのではなく、
どう生きたのか、その刹那を見ていくのです。

人生はいつもシンプルであり、深刻になるようなものではない。
真剣であることと、深刻であることを取り違えないでください。
それぞれの刹那を真剣に生きていれば、深刻になる必要などない。

使い古したパースペクティブからの脱出はいつだって難儀なことだが、
「〜しつつある」という現在進行形のアファーメーションなら変わっていけそうな気もする。
アファーメーションの役割は「否定する気持ち」を打ち消すことだから、「自己矛盾を強めてはいけない」。
そのために、願望や意気込みを込めるのではなく、(それは自分に対する嘘になって、自己矛盾を強めるから)
「なりつつある」現在進行形を感じる習慣が大切らしい。
アファーメーションの語源は、affordにあるというから、ちょっとした余裕が必要なのだ。

   

三年ほど前から、自分の誕生日には、祝ってもらうのではなく、鰻をふるまうことにしてみた。

日光御成街道という江戸時代からの街道が、近年街興しで見直されるようになって、
季節柄、外食するなら、せっかくの老舗店で鰻もよかろう、と思って行ってみたのが始まり。
下の子が殊のほか喜んで、”こんな美味しいうなぎは生まれて初めて食べた”と言ってるのを聞いて、夏はこれにしようって思った。

うなぎの老舗は三軒ほどあるので、三年かけてようやく一巡り。

(今年は、行く直前になって、上の子が友達からのバイト出動要請を断り切れずに不参加。折詰にして持って帰ることに。)

 

20160710 からくり時計

ずいぶん離れた所に立っているのに、目が合ったような気がするのは、モナリザの微笑にも劣らぬ、からくり女の仕業なのか。

なんだか、尾野真千子に似ているような気もする。

先日、法事で会津に泊りで行ったりして、夏を先取りして過ごしているような気がします。

 

 

 

熊には遭遇しませんでしたが、今にして思うと、
夏の早朝に撮影スポットを求めて裏磐梯の湖畔の藪に分け入ったりする時は気をつけないと危ない。
実際に車中から熊を目撃したこともあった。(森の熊さん)
熊に遭遇したら、死んだふりなどせずに、目をしっかり見つめながら、少しずつ遠ざかっていくのがいいらしい。
(いざという時に備えて、おじさんから対処の仕方を訊いておいた。)

 

六月に来ることはあまりなかったので、
山ではアジサイが木に登るのだ、と今さらながらに驚いていると、カンボクという植物だった。

 

上の子の運転する車に初めての同乗。

猪苗代湖を抜けて、磐梯山、中瀬沼まで。

帰りは磐越道から東北道を那須まで運転してもらえて、ずいぶん楽ちんに。ありがたい。

 

 

今回はめずらしく東山温泉に宿を取りました。

先週TVを見てたら「ぶらタモリ」の番組中でタモリさんもいらしてました。

50歳になった日の晩は普通に仕事して自宅で迎えたが、

30歳になった夜は、生まれて間もない上の子と、八ヶ岳山麓の温泉に浸かっていたのを覚えています。

光陰矢の如しというのは、決して喩えではない。
30歳のあの夜に在った時空は、隣り合わせのように近く感じられる。

芭蕉は、月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり、と言ったが、
もとは李白の 「夫天地者万物之逆旅、光陰者百代之過客」
(天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客なり)
を意識して作られたのだという。

「逆旅(ぎゃくりょ、げきりょ)」との言い方が面白い。
(「逆」は「迎える」の意味で、旅人を迎える宿を意味するのだという。)

光陰(月日)という時間を人は行くのだが、
天地という空間構造は、実は「逆旅」として、そこで待っているのかもしれない。

時空を、時間と空間に切り離すから、一方向の時間や、一方向の空間だけを認知して、遠いことのように測定されるだけのことで、一体化した時空を測るには、時間や空間的な距離とは別のものさしがあるのかもしれない。

(ミンコフスキー空間のようなものだとしたら、
時間が実数なら、空間は虚数。夢幻そのものということになる。 時間の存在について )


30歳のあの夜が、すぐそこにあったように感じられるのは、そんなからくりにあるような気がします。

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伊藤若冲 ~ ひと月限りの、この世の楽園

2016年05月05日 | 日記

若冲の雀に実際に謁見してきました。
(若冲の雀 ~ 一リットルの脳髄
)

若冲がおよそ十年がかりで書き上げた「動植綵絵(どうしょくさいえ)」三十幅。

人生50年と考えられていた時代に、まさにそこに到達しようという年齢を前にして
死を意識し始めながら、仏に少しでも近づきたいという想いを持って描いたといわれる究極の仏画。
若冲は仏教の「山川草木悉皆仏性」の思想を、「釈迦三尊像」三幅と合わせ、
観音菩薩が三十三の姿に変化してあらゆる衆生を救ってくれるという「三十三応身」として描き尽くした。

そんな若冲と同じ50歳を目前にした時期に、
全三十三幅を、若冲が構想した往時の浄土空間そのままに一堂に会した形で見ることができました。
よい巡り合わせに恵まれたような気がします。

近年、謎の天才絵師としてにわかに注目されることになった伊藤若冲。


「千載具眼の徒を俟つ」(たとえ千年経とうと 眼力を備えた友が現れるのを待つ。)という言葉通り、
千年を待つことはありませんでしたが、近年まで永らく評価されなかった。一体どうしてなのか。

江戸絵画に、西洋印象派以上の早熟と、光の陰影を与えている。
(まるでスーラーのように、点描で灯篭を描いた屏風風の大きな絵もあった。)

(伊藤若冲(1716-1800)は江戸中期に京都で、
葛飾北斎(1760-1849)は江戸後期に江戸で活躍していた。二人に接点はあったのだろうか。~ ボストン美術館所蔵の葛飾北斎)


” ひと月限りの、この世の楽園 ”

「山川草木悉皆仏性」の思想の元に描かれる楽園は深淵でもある。

モダンアートのようなハート模様、
輪郭線無しで、一本のミスタッチや重ね塗りによる修正もなく、細やかに描かれた鳳凰。
艶めかしくも完ぺきな美を象徴しているかのような絵だが、

足元にはなぜか、虫に食われたり枯れたりした病葉(わくらば)が描かれている。

生きとし生けるものを同じように扱った若冲には、
まさしく「草木悉皆仏性」の美意識を感じる。

虫や蛙も楽園のなかにいる。
人間中心のルネサンスとはえらい違いだ。

 

 「秋塘(しゅうとう)群雀図」の雀にも、色彩に対する執拗なまでのこだわりがあるという。

分析してみたら、雀のお腹の部分に、微量の鉛(鉛丹)が検出されたという。
僅かに画材の上から置かれたオレンジは、目で認識できなくても、なんとなく人間の脳は認識して、
複雑な色使いを感じ取るのだという。
視覚を超えて訴える色へのこだわりと執着、すごい。

 

紅葉の葉の色も「裏彩色」という技法を使って、一枚一枚、濃淡を変えている。

(画面左の紅葉の枝の輪は、近所にあるのとそっくりだ。尋胡隠君の黄色 ~ もみじの腹上死 )

モザイクを組み合わせた東洋風の珍獣絵巻みたいなのもあったが、

こちらの象が気になった。
目はなんとなく色目っぽいのに、画面は色を失って、時が止まったかのようだ。
幽玄さを感じる墨絵はあるが、このアンマッチな感覚が不思議、
象は死ぬときは群れを離れて独りで死んでいくというが、この幽玄さは悠々と朽ちていく象の姿なのか。

多彩にして、深い。

老若男女を問わず、それぞれの楽園を見せてくれる。この世とあの世さえもひと続きの楽園のような気がしてくる。

すごい人がいるものだ。

The Beatles - Tomorrow Never Knows

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もうひとつの二十歳(ハタチ)のプレゼント

2016年01月16日 | 日記

もうひとつの二十歳(ハタチ)のプレゼント。
(成人の日のプレゼント)

 

まだ13歳の我が家なのだが、よく働くキッチン。

20周年のアニバーサリーに合わせて、まだまだ働き盛りのうちに、キッチンをリフォームすることに。

 

ラクシーナって、風邪薬みたいなネーミングだ。
(じきに治るジキニンとか、スッと治るストナとか、カコナールとか。
風邪薬だけじゃないか、後が楽になるからコーラックとか、便がよく出るからヨーデルとか。)

 

 どうせなら、自然な風合いの木目調のセットが良いと思ったのだが、お手入れを考えると、やはり鏡面仕上げがいいらしい。


人工大理石でなくステンレストップのほうがいいとか、この辺りのドイツ好み風、実務目線、でのショールームの会話には、あまり口を挟む余地がない。
イメージだけで物を言っても説得力がない。
同じ白なら、モダンでキッチュな感じのアルベロホワイトにしようよ、くらいが関の山です。

(でも、野菜ジュースを毎朝作るようになってから、週末の朝は洗い物も結構するようになった。
以前の食洗機が壊れた後になってからのことなので、今回新調した食洗機では、私も実務部隊に仲間入りだ。)

 ~ ふだんプレミアム~ なんでもないふだんを宝物にしよう! (西嶋英俊) 

ふだんプレミアム冷蔵庫:#009見せるキッチン空間に挑戦してみる。【パナソニック公式】

たーくんがハタチのバースデーを前に夜行バスで長野にスキーに行ってる間に、
もうひとつのハタチのプロジェクトは進行。
(送り出した同じ晩の事故のニュースにはほんとうに驚きました。明日はあらためて神社へお参りに行こうと思います。)

 別にパナソニックからリベートをもらってるわけではありません。
この動画の歌を歌っている財津和夫さんに似ていると、先日言われました。

今日から近所の音楽教室に通い始めた私にとって光栄なことです。
ふだんプレミアムなおじさんを目指そうと思います、はい。

Panasonic リフォーム 空間コーディネイトリフォーム篇

スケールや調性って不思議だと思いませんか。

ドレミファソラシド(ハ長調/C Major)を、第6音から ラシドレミファソラと弾くと、イ短調/ A minor になる。
ハ長調の音楽は、必ずしもハ(C、ド)から始まるわけでもないし、イ短調と同じ音階の音でメロディが作られるはずなのに。
先生にこの不思議を聞いてみると、大よそ、イ短調だとAの音を中心に音階が並んだり、Am(ラドファ)が響きの中心になっていたりするもので、
始まりより、むしろ曲の終わりの音が、その調の音(ハ長調の曲なら、C(ハ、ド)で終わることが多いのだそうです。
理屈ありきではなく、そういうものだと受け入れたほうがいいようです。

楽譜を見た時に書かれている、♭や♯ の数によって、黒鍵になる音が決まってくる、

 だから、♭や♯の数を見て、それぞれの調のスケールを弾く練習をルーチン化して、どれを黒鍵で弾くか指で覚える”

 というのが面白くて、前の晩に書き出していったのを見せながら話してましたら、

あなたならハノンの教本を使って楽しく練習できるかもしれない、とのことで、良さげなのを見繕っていただくことになりました。

弾き歌いできればいいだけなんですけど、よくある指使いのパターンは繰り返して覚えたほうがいいし。

 

 

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成人の日のプレゼント

2016年01月11日 | 日記

たーくんの成人式祝いのプレゼントにと、
年末に目黒のほうまで作りに行った印鑑が届きました。

( ↓ ) お店のホームページから。

太眞屋と書いて、たまや。

縁がある。
たーくんに続いて、まーくんの時にもお世話になろう。

 

時計とか、そういったものの方がきっと喜ぶのだと思いますが、
印鑑にお金をかけることは、なかなか自分ではしませんから、そういうものこそ祝いにふさわしい気がする。

同じ印鑑を贈るにせよ、シンプルにモノとしていいものを贈るのか、
運勢や印相といったものにこだわって選ぶのがよいのか、思案するところです。

迷信めいたものに惑わされるのはどうかという気持ちもあったのですが、
やっぱり、自分の親がしてくれたように、開運の願いを贈ることにしました。
日本人として、言葉や文字の力を侮ってはいけないし、
贈りたいのは、印鑑というモノ自体ではないようにも思えました。

かつて、言葉は「言霊」としての重みを持ち、呪いや祈りのための「武器」として用いるものだった。
「文字が作られた契機のうち、もっとも重要なことは、ことばの持つ呪的な機能をそこに定着し永久化することにあった」

(透明にすることによって隠蔽されたもの、そして賦活させるもの

果たして、印鑑や実印が、本人確認を含めた取引の意思確認の手段として、この先何十年も続くのか分かりませんが、
そんなことを言い出したら、きりがありません。
名前だって、唯一無二の本人確認手段ではないが、人は名前の字に願いを込めるし、
戦国武将は軍旗の文字に祈りを込めて、名乗りの印にした。

ええぃ、惑わされてしまえ、
印鑑は「幸具」、そういうものなんだから。

Paul McCartney - My Valentine + Lady Madonna [Piano solo - David Frost Show 2012]

バレンタインではありません、成人の日でした !

でも、映像に出てくるデイビッドが、開運アドバイザーの店主にどことなく、というか、かなり ! 似ていらしたものですから。

持って生まれた社会性を活かして公に役立つ仕事を、とのアドバイス。
器用でなんでもできてしまうが、自分の中での満足度を下げて、なんでもやってしまうことをやめること。
人を満足させようとして、人から当てにされ、結局感謝もされずに損をするような面があるそうです。
大きな変化があるが、二年後に開花する時期がやって来るので、まずは自分を高める時期だと心得てがんばること。

 

あ、三次会へとまた出かけていきました。

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龍の昇る頂にて ~ 千夜一夜

2015年12月21日 | 日記

西方より高僧が来京するというので、高校時代の硬式テニス部の在京メンバ―が集まりました。

(「龍谷」に新しい一歩を踏み出したピアノと高僧との共時性みたいなものを感じていたのですが、勘違いでした。
龍谷の阿闍梨ではなく、大谷の阿闍梨です。
前回記事「龍のいる谷間にて~第一夜」に続く第二夜を予定していたタイトルでしたが、少々変更。)

折角の東京なので、店は六本木に。

新宿や渋谷や池袋の喧騒とは肌触りの違う、東京ならではの空気感を持った街だと思うからです。

 

25の時に転勤で東京に来たのですが、来年はもう50になります。
関西半分、関東半分、
月に喩えるなら、上弦です。

少し脱線しましょう。

東京に来て間もなくの頃、当時の上司に、六本木に連れて行ってもらったことをよく覚えています。
NY帰りの ” シャーク(鮫)XX ” と呼ばれていた怖い人でした。
当時は為替取引の仕事をしていたのですが、大口の為替取引があると、支店からの連絡を受けて、インターバンクのディーラーに、
” ドル円 TTS 100万ドル!” みたいに、大声で伝えないといけません。
持ち高を誤ると、一瞬にして、融資取引の利ザヤ分を帳消しにしてしまうような為替差損につながります。
東京市場の取引時間が過ぎた頃、支店から時々連絡を受けるのが、スポット取引の連絡漏れ。
ある日の夕方、支店からの連絡を知らせる机上のボードのランプが赤く点滅して、電話を取ると、ついこの前までいた支店の外為課長から、謝罪を兼ねた為替取引の事後連絡でした。

そんな時に優しい口調で受け答えしようものなら、厳しい仕打ちが待っているのは分かっているのですが、
かつての上司を叱り飛ばすなんて出来るはずもなく、受電後は私が叩きのめされました。

叩きのめしぶりが半端ないので、シャークと呼ばれる所以にもなっているのですが、
朝まで六本木で飲みに連れて行ってくれた時に、ただ怖いだけの人ではないことが分かったのが印象に残っています。


東京に着いた阿闍梨を案内したのは、
六本木ヒルズ52階の東京シティビュー。
あいにく富士山は見えませんでしたが、東京の街を一望できます。
六本木に居ながらにして、お台場やレインボーブリッジ、
東京タワー、東京スカイツリーまで。

そして、阿闍梨ですら達しえない宙へ。

ちょっとした異界体験です。
レイア姫はいませんが、美しいオーロラが顕れる銀河に包まれます。
北極星を中心にして一定の巡航速度で、円形に廻るのが普通のプラネタリウムですが、
四角い部屋の稜線の中で、中心を見定めることのできない曲率の端っこで、宇宙の中を揺らいでいるような気がしました。
瞑想フロアみたいに靴を脱いで寝転べるスペースもあって、倍音声明に行った時のようでもあります。

六本木ヒルズにある、毛利庭園そばのイタリアンレストランを予約しておいたのですが、
こういう時のイタリアンて、記憶に残りません。
アタックの強い味だと思うのに、飲んだり話したりしていると、なぜか脇役に徹してしまう不思議。
日本の割烹料理を食べた時とは何かが違う。

けやき坂の白いイルミネーションは一時間に2回だけ赤く変わるらしいのです。
上空から見た時は白かったイルミネーションなのですが、
地上に降りてくると殆ど赤い時間しかなかったように思える。

瞑想なのか、妄想なのか、そんな赤に敬意を表して。

 

Janine Jansen Jules Massenet Meditation from Thaïs

動画に寄せられたコメントが素晴らしかった。

 

She plays as if it is her last performance in life.
Her seriousness and whole heart, it makes her music unique.

おもてなし、という言葉があるが、
その時その場所を共有する空間を最上のものにしようとするかのような、彼女のシリアス。
時空を、使い方ひとつ、気持ちひとつで、変えてしまう。
目の前の風景や空気から、直接この音色が聴こえてくるわけではないが、
同じように、共鳴しうる空間を与えられていることに変わりはないと思える幸せ。

Janine Jansen (ジャイーヌヤンセン)

あわい ~ エルガーの弦楽セレナーデ

巨大イシナギと、冬の木枯らしに似つかわしいブルッフを。

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龍のいる谷間にて ~ 第一夜

2015年12月20日 | 日記

冬の空に上弦の月が明るく輝く頃、龍谷の時が訪れる。

この曲だって、そのうち、コードを付けて、弾き歌いの曲に化けるかもしれない。
いや、もっといい新曲を作れるかもしれない。

夜のしじまに ~ 鼻唄作曲家


高校時代からの友人である龍谷の阿闍梨が何十年に一度かという来京を果たすというので、
六本木で当時の硬式テニス部のメンバーが集まって再会の宴を催すことに。
(月命日のある住職業は家族旅行もままならぬそうなのです。)
まるでハレー彗星のような出来事だと思っていましたら、
前日の晩にお会いすることになったピアノ・マイスターも龍谷のひとでした。

(こんな素晴らしい環境が家から歩いていけるところにあったなんて、驚きです。)


単発レッスンを受けたりはするものの、どうも行き場のないピアノ難民みたいな気がしていて、
ピアノのメンターのようなものを求めていました。
気軽に相談できて、ヘイジュードの歌詞のように、がんばれよって後押ししてくれるような先生が、近所にいるといいなと思ったのです。

先週思い立って、地元でピアノ教室をされている先生を探して、相談に伺ったら、
知人の作曲家がやっているという音楽教室を紹介してくださることに。
クラシックではなく、コード主体で弾き歌って楽しみたいという私のニーズにぴったりとのこと。

やりたいことや自分のレベルをダイレクトに伝えるのにYouTubeは便利です。
事前にご紹介いただいていたこともあって、思いもよらぬ返信をメールで頂きました。

ビートルズにぴったりな声、ですって。わお。


個人邸のスタジオって、なんだかポールマッカートニーっぽい。
ピアノだけでなく、ドラムやベース、ボイトレ、作曲、
さらにはバンド演奏やスタジオ録音まで、やりたいことは何でもサポートします、っていうのがすごい。

ぼくにはスペック過剰の感じはありますが、
2014年春に開校したばかりだというのに、
口コミ中心で生徒数は120名を超え、スタジオを増設し、
市ヶ谷や新浦安にも教室をオープンするというホットな教室で、
来年には法人成りして教室名も変わるそうです。

本日は奇しくも年内ラストレッスンとのことで、
作曲家オーナー氏と、チーフインスラクターから、音楽教室にかける熱い情熱を聞かせていただきました。

いろんな楽器のインストラクターによるレッスン技術共有会の風景だそうです。
まるでスタジオで音を探しているビートルズみたいです。

 

ピアノ弾きおじさんへの道、一歩前進の年末。

あ、そろそろ行かないと。

「もしもピアノが弾けたなら」

追記.

灯台もと暗し。

早めに家を出て(自転車でささっと行けるという便利さ)、音楽教室の場所を見つけてから、
寒いのでコーヒーでも飲んで待つことにしようと入ったのは、
一風変わった歌声喫茶でした。

店の真ん中にYAMAHAのヴィンテージ・ピアノが置いてあります。
オーナーのサミー木村さんは、銀座のYAMAHAでキーボード講師をやったりしていた音楽の世界の方で、
氏のアレンジによるポップスの楽譜本が机の上にはうずたかく積まれていました。
松田聖子とかユーミンとか、あの頃のです。

お伺いを立てて、ピアノに触らせてもらうと、
普段はやらないよ、と仰りながら、客は私だけなのに、枯葉やfly me to the moonを鮮やかな指捌きで聴かせていただけました。

追記その二 龍谷の阿闍梨は誤りでございました。 正しくは大谷の阿闍梨でございます。

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紅のゆくえ

2015年11月28日 | 日記

濃い霧が朝の関東を包んだ秋の日。 霜月も終わろうかという宵、まつやへ。

朱の器の中に霞む木の葉は、白い蕎麦がき。

新蕎麦の季節も過ぎたというのに、今秋は木の葉の色づきもまばらで鈍い。

 

今週になって急に冷え込んだが、雨が多い割に気温が下がらない今秋、

ひと晩明けた週末の朝は、久方ぶりにピーカンの太陽、快晴の空。

いつもの道を抜けて 木ぐらしカフェへと向かった。

  

木々に囲まれたひっそりとした場所にある古民家風のカフェで、前回食し損ねた木暮らし御膳をいただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ストロベリー・フィールズよ永遠に、と歌われるのは、決して単なるいちご畑のことではない。

なぜかしら郷愁を誘う紅に、人は魅せられるのだ。

尽きて消えゆく紅の行方。

   

Strawberry Fields Forever - Restored HD Video

ストロベリー・フィールズに描かれる心象風景は、春ではない。

どこに降りてゆくのだろう。

Let me take you down,,,

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

cause I'm going to ...

苔むした木の幹の上に、ドングリが落ちていた。

朽ちたはずの幹が、新たな草原を作っていた。 

不可逆のはずのエントロピーが交錯する。これは時空の裂け目なのか。

 

John Lennon number 9 dream

静脈が浮き出したかのような幹肌に光が射して、何やら精霊のようなものがうごめいているかのようだ。

古代のくさび形文字のような揺らめきは、何かお告げでも降りて来たかのようでもある。

  

小枝にとまる小鳥たち、或いはムンクが描く人面、

光に揺らいでくねくねしている様子が落ち着くと、いにしえの高僧の顔のようにも見える。

 

  おぉ、メリー・クリスマス  

              

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ライブ感を持て ~ ホール&オーツの夜

2015年10月21日 | 日記

自分の好みに囚われているのが好きなのだが、

” (それだけでは) あっちには行けないよ。” - I Can't Go For That

ファンクとかソウルは、そのままだと馴染みにくいところがあるのだが、
ホール&オーツは、分かりやすい形にしてみせてくれたんだと思う。

この曲の愉悦は、
” はぁ~ン、だめだめ(No can do.) "
にあるんだから、ウェットなメロディやストーリーは不要なのでしょう。
(ひたすらに、ア~ン、ノーノー、で響き合えるのが Funk なのかな。綴り間違えるといけないので、ソウルと呼んだ方がいいのでしょか。 )

因みに、「本当に音を聴くときは股関節で聴く」いう説があります。
ライブなどで生音に触れると、全身から振動が沁み入ってきて、肌で聴いているような感じになるが、
なかでも股関節は聴覚に大変関係が深い場所とのこと。
そういえば、ロックは腰にくる、と言ったりする。

  

 

オープニングは男喰らいの歌(Maneater)でした。

 

( ↓ ) 本ツアー直前のダブリン公演から。
Daryl Hall & John Oates "Maneater"

マンイーターは、Hall & Oates(ホール&オーツの2人)にひっかけたH2Oというアルバムに入っていた曲。
(私もHole 'n One、云うならばH1Oをやったところでしたが、記念マーカーが無事届き、この日集まったメンバーに配ることができました。)

 

Encoreはキッス・オン・マイ・リストとプライベート・アイズの鉄板大ヒット曲メドレー。

ライブではやりませんでしたが、
ポール ヤングの"Every Time You Go Away"がダリルの曲だったということをはじめて知りました。
ソウルフルで大好きな曲ですが、こちらは、乾いているというよりはウェットを含んだエモーショナル。

( ↓ ) 狭い空間で何人ものエモーションが響き合っている、素晴らしい音楽だ。

"Every Time You Go Away" - Company of Thieves, Daryl Hall

「ライブ感を持て」だそうである。

これは私の持論だが、多くの人はライブ感を持っていない。
それを意識していないから人生というライブの中でうまくいかない。
いつも心ここにあらずみたいな人間は絶対にうまくいかない。
絶対に人を惹きつけられない。
なぜなら、そこにエネルギーがないからだ。
過去に何をやっていたかなんて、今のあなたには何も関係ない。
過去はしょせん脳の中の情報にしかすぎない。
あなたの価値は、今この瞬間の価値でしかない。
時価でしかないのだ。
だから、ライブ感を意識して生きてほしい。
常日頃から、人生において様々な体験をしている人たち
― 科学者、ミュージシャン、哲学者、アスリート、アーティスト、ハンディキャップと闘う人たち、etc
のライブ感に触れることを意識してほしい。
それまでのちっぽけな常識や価値観は横に置いておいて、
音楽のコンサートに行って、ただ身を委ねて、体ごと揺さぶられてみろ。

まずは言葉を押し込んでおくことで、
自分自身の貧しい経験や身体実感では説明できないような、
他者の身体、他者の思念のためのスペースが、むりやり、こじ開けられる。
そして、成長してゆくうちに、そのスペースに、ひとつずつ生々しい身体実感や思いが堆積してゆく。
自分たちの身体実感をベースにして、それにぴったりの言葉を探し出すことでは、
本当の学びは成立しない。
狭苦しい「自我の檻」から一生出られない。
よく分からない言葉や思想をむりやりにでも押し込んでおくということは大切なんです。
(内田 樹)

同じことは音楽にも言えるのだと思った。 (アデルの倍音)
体に入れた振動や響きがいつしか受肉するということが起きる。
(ホール&オーツはキャッチ―でそのままでも楽しめるけど、ライブに行くのとただ聞き流しているのとは全然違う。
このサイト見てて、深いなと感じました。直截的に音楽に表現されているのとは違った背景を感じることができる。
『ホール&オーツ ロックン・ソウルを求めて/著 林洋子』(1984年)、感想3。)
Mr.ケーデーに感謝。

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