今日は、カオリな気分で。
~ トーストにママレードをぬる母の手は白い。静脈が白く透けている。
厚ぼったいステンドグラスごしに、遅い朝の日ざしが溢れかえっている。
光は水のように自在で、食器の表面を滑ったかと思えば家具に吸い込まれ、
同時にあちこちに存在し、微細な塵(ちり)や埃(ほこり)の一つずつにまで届く
(江國 香織)
同時にあちこちに存在する、、、ブンガク的であると同時に量子力学的でもある。
リビングから見える柿の木あたり、秋の遅い朝の日ざしが溢れかえっている。
光は水のように自在である。
葉を落とした街路樹を歩く別の佳織さん、光に溢れかえっている。
Kaori Muraji - Juin
~ 「ある人の価値は、その人がどれくらい自分自身から解放されているかということによって決まる。」(アインシュタイン)
アインシュタインの意中にあったのは、「私」という立場の特別性は認めた上で、
世界の中の様々な他者と行き交うために、思想的な工夫を凝らすということであったはずだ。
リンゴなんて何だか知らないけれど、勝手に木から落ちるんだろう、と思っているうちは、それ以上の思考には発展しない。
ニュートンはいわば「リンゴの気持ち」になって、
「どうして私は木から落ちなければならないのか」と想像してみたからこそ、万有引力の法則を発見した。
相手が人間であっても同じことである。
道をとぼとぼ歩くお婆さん、人生に疲れた中年男、派手な服を着た若い女、、
それぞれ勝手に生きてるんだろうと片付けてしまうんではなく、
その来し方行く末を、その立場に自分を置いて想像してみる関心があってこそ見えてくることがある。
科学における客観性は、ともすれば冷たいものと考えられがちだが、
自分自身から解放されるための思想的な工夫の一つである。( 茂木健一郎 )
来し方行く末を想像する視点、
All the lonely people , where do they all come from,
All the Lonely people, where do they all belong,
エリナー リグビーみたいだ。
邪悪な私にはむずかしそうだが、カオリの気持ちになって、リンゴではなく、もみじの気持ちを考えてみた。
もっと光を。
3週続けて飽きもせず、週末の秋散歩をする妻と夫。
もみじ園のおじさんによると、この辺りは、ハヤブサが飛び、夜になると フクロウまでいるらしい。
( ↓ ) 舞っているのは枯葉。 ( ハヤブサではない。) 万有引力の法則は発見できそうにない。
( ↓ ) もみじ葉に映る揺れあう影に思いを至す妻、着眼点がすばらしい。
風に揺れる葉っぱと影、写真撮影も居合いのようになる。
葉っぱと呼吸を合わせないと、影を捉えることができない。
龍の魂 〆