自分で「もうここまでしか出来ない」という限界に突き当たるたびに、
「想像力の限界が、その人の能力の限界なのだ」ということを思い出すように、とのこと。
個人差があるとはいえ、生物学的にみて、
人間の能力や精神的・肉体的構造には、何倍も何十倍もの差があるわけではない。
鍛え上げられたアスリートの肉体と私たちの筋肉量が何十倍も違うというわけではないし、
思考を司る脳にしても、賢い人が何倍も大きいというわけでもない。
五十歩百歩程度の差でしかないのに手にする成果が大きく違ってくるのは、ひと言で言うと「想像力」の違いだという。
逆に言うと、「自分が成功するイメージ」が簡単に持てれば、成功は得やすくなる。
イメージの持ち方次第で世界は変わってしまう。
(イマジンの世界観)
Imagination is more important than knowledge.
Albert Einstein
( ↓ ) 軽いタッチの本だが、科学者・研究者が見えない世界(いわゆるスピリチュアル)を語ったものには興味が持てます。
ニュートンが言うように、科学や人間が解明できている真理は、大海を前にした海辺遊びのように部分的なものだと思うし、
単一のモノサシではなく、持てるモノサシを駆使して、曖昧模糊として遠大な、大海を分かりやすくしようというスピリットに共感するから。
” 私は、海辺で遊んでいる少年のようである。
ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。
真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。
I was like a boy playing on the sea-shore,
and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary,
whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me."
Isaac Newton
11月の休暇、神社参りに備えての読書。
「神さまはいるのか」から、「神さまとどうしたらコミュニケーションできるのか」へ。
祈りは自分の願いを神さまに伝えるだけではなく、「神さまの意思を受け取る」コミュニケーションであるといいます。
肉体を持たない神さまは、物理的な働きかけをするのに、私たち人間の助けを求めていて、
私たちを通して、現実社会への貢献が可能になるという説明が新鮮。
超人的な天上の絶対神といったイメージではなく、私たち人間は神と補完し合うような存在なのでしょうか。神のパワーを顕現させる為には、物理的な人間の存在が必要。
神社に参拝する時には、ちゃんと”私は○○県○○市1丁目○番地の、明治太郎です。”って、
住所と名前を名乗らないと、私が誰なのか、神さまには分からないそうです。
名乗るのは神さまへの礼儀でもあるとのこと。
神さまは何でもお見通し、と甘えるのではなく、礼儀を持ってコミュニケーションを取るようにしないと。
神さまが自分に頼みたいことと、自分の願いごとの接点になるのが、祈るという行為であり、
祈ることで、あちこちに散らばった思考がきれいに片付いて、神さまの意思を受け取るスキマができる。
( ↓ ) カズオ・イシグロの小説は、変容する記憶を持った、いわば「信頼できない語り手」が特徴だというが、
この歌もそんな部分がある。(弾き間違うので演奏はつなげた作り物だし、歌も不安定で信頼に足りない。)
”Jai guru de va om”と神々の名前を連呼した後に、
”Nothing's gonna change my world”(何物も私を変えることはできない)と歌われるが、
Images of broken light(粉々に砕けた光のイメージ)や
Thoughts meander like a restless wind(落ち着かない風のように とりとめのない思考)が象徴するような、
諸行無常の「信頼できない」宇宙に身を置いている不安定な語り手が、それほどに確信的な強さを持つとは思えない。
孤独だが不思議とそんなに淋しいわけでもない、静かな充足感がもたらす世界観なのでしょうか。
Across the universe(piano & vocal cover) 20171022