再検査を控えた八月終わりの日曜日、観に行った映画は、「関ヶ原」とかではなく「キミスイ」でした。
「君の膵臓(すいぞう)をたべたい」、
ぎょっとするような強烈且つ病的なタイトルは、なんだかネガティヴで、
おいおい縁起でもない、みたいな感じに聞こえるかもしれませんが、
見終えた後に、不思議なことに、どこか清々しさが残った。
それは、たぶん少し前に本で目にした「喜びは絶望よりも深く心を流れる」みたいなところがあるからだと思う。
( ↓ ) 作者である住野よるの名前が、薄いピンク色で小さなローマ字で記されている。
Yoru Sumino
ちょうど今練習している Your Song と一瞬だが勘違いした。
君に贈る僕の歌みたいなところが、どこか似ているせいだと思う。
エルトン・ジョン Your・Song (訳詩付き)
違う選択もできたはずなのに、僕は紛れもない僕自身の意思で選び、ここにいる。僕らは選べる。
それを教えてくれたのは、紛れもない彼女だ。
もうすぐ死ぬはずなのに、誰よりも前を見て、
自分の人生を自分のものにしようとする彼女。
世界を愛し、人を愛し、自分を愛している彼女。
「僕」は、携帯電話を手に持つ。
君は本当に凄い人だ。ずっと思っていた。
僕は本当は君になりたかった。
言葉にすると僕の心にあまりにぴったりで、沁み込んでいくのが分かった。
”僕はどうかすれば君になれただろうか”
”僕はどうかすれば君になれるのだろうか”と、
記憶の片隅、いや、中央からかも、と、
考えては思い出しながら
彼女に贈る言葉を探して、打ち込むだけ打ち込むのだが、すぐに消してしまう。
そんな「僕」が、彼女に贈るのにこれ以上にぴったりな言葉はないと、
最後に彼女の携帯へ送信した渾身の言葉が ”君の膵臓を食べたい”。
(出会った頃に、膵臓に重い病を抱えた彼女が、カニバリズム的に、冗談めかして口にしていた言葉だ。)
「君の膵臓をたべたい」予告
私は小説をあまり読む方ではないのですが、
ストーリーを追わなくても、素晴らしい文章や下りを見つけると、それだけで凄いと思えたりする。
主人公の「僕」(志賀春樹)が、彼女(山内桜良)のことを思い出して号泣するシーンが、予告映像にもありますが、そこの下り。
僕らは同じ方向を見ていなかった。
反対側から対岸をずっと見ていたんだ。
ずっとお互いを見ていたんだ。
本当は知らないはずだったのに、気が付かないはずだったのに。
違う場所で、関係のない場所で、それぞれにいるはずだった。
なのに僕らは出会った。
彼女が溝を飛び越えてきてくれたから。
初めてだった、大声で泣くことも、人前で泣くことも。
そういうことはしたくなかったから。
人に悲しみを押しつけるようなことはしたくなかったから、今までしなかった。
でも今は押し寄せる数多の感情が、自己完結を許さなかった。
主人公2人の演技の素晴らしいのは勿論、
どこかやり場のない感情をかかえた男を演じた小栗旬さんに共感したりする。
(マンチェスター バイ ザ シー然り、エヴェレスト(神々の山嶺)然り。
旧いところでは初期の頃のロッキーもそうだった。
ひと気のない動物園での淋しい冬のシーンに温もりを感じるようなところ。)
(「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を観る、脱力を極める。)
喪失感と折り合いをつけながら生きる人達を美しいと感じる。
そのような脆さや儚さと共にいられる心持ちに強靭さを感じる。
お手本とするものも、状態に合わせて時々変えていくほうが自然だ。
( ↓ ) 6月1日以来、7月初旬、そして2ヶ月間をおいて本日8/30にMRI検査。
夏休みもとらず、覚悟を持ちつつ臨んだのですが、
また2ヶ月後の10月下旬に再々々検査と相成る。
小栗旬さんよろしく、栗の花が実をつけて旬を迎える頃。