ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

「君の膵臓をたべたい」~ 喜びは絶望よりも深く心を流れる

2017年08月30日 | 日記

再検査を控えた八月終わりの日曜日、観に行った映画は、「関ヶ原」とかではなく「キミスイ」でした。

「君の膵臓(すいぞう)をたべたい」、

ぎょっとするような強烈且つ病的なタイトルは、なんだかネガティヴで、
おいおい縁起でもない、みたいな感じに聞こえるかもしれませんが、
見終えた後に、不思議なことに、どこか清々しさが残った。

それは、たぶん少し前に本で目にした「喜びは絶望よりも深く心を流れる」みたいなところがあるからだと思う。

 

( ↓ ) 作者である住野よるの名前が、薄いピンク色で小さなローマ字で記されている。

Yoru Sumino

ちょうど今練習している Your Song と一瞬だが勘違いした。
君に贈る僕の歌みたいなところが、どこか似ているせいだと思う。

エルトン・ジョン Your・Song (訳詩付き)

 違う選択もできたはずなのに、僕は紛れもない僕自身の意思で選び、ここにいる。僕らは選べる。

それを教えてくれたのは、紛れもない彼女だ。

もうすぐ死ぬはずなのに、誰よりも前を見て、
自分の人生を自分のものにしようとする彼女。
世界を愛し、人を愛し、自分を愛している彼女。

「僕」は、携帯電話を手に持つ。
君は本当に凄い人だ。ずっと思っていた。
僕は本当は君になりたかった。
言葉にすると僕の心にあまりにぴったりで、沁み込んでいくのが分かった。

”僕はどうかすれば君になれただろうか”
”僕はどうかすれば君になれるのだろうか”と、
記憶の片隅、いや、中央からかも、と、
考えては思い出しながら
彼女に贈る言葉を探して、打ち込むだけ打ち込むのだが、すぐに消してしまう。

そんな「僕」が、彼女に贈るのにこれ以上にぴったりな言葉はないと、
最後に彼女の携帯へ送信した渾身の言葉が ”君の膵臓を食べたい”。
(出会った頃に、膵臓に重い病を抱えた彼女が、カニバリズム的に、冗談めかして口にしていた言葉だ。)

「君の膵臓をたべたい」予告

私は小説をあまり読む方ではないのですが、
ストーリーを追わなくても、素晴らしい文章や下りを見つけると、それだけで凄いと思えたりする。
主人公の「僕」(志賀春樹)が、彼女(山内桜良)のことを思い出して号泣するシーンが、予告映像にもありますが、そこの下り。

僕らは同じ方向を見ていなかった。
反対側から対岸をずっと見ていたんだ。
ずっとお互いを見ていたんだ。
本当は知らないはずだったのに、気が付かないはずだったのに。
違う場所で、関係のない場所で、それぞれにいるはずだった。
なのに僕らは出会った。
彼女が溝を飛び越えてきてくれたから。

初めてだった、大声で泣くことも、人前で泣くことも。
そういうことはしたくなかったから。
人に悲しみを押しつけるようなことはしたくなかったから、今までしなかった。
でも今は押し寄せる数多の感情が、自己完結を許さなかった。

主人公2人の演技の素晴らしいのは勿論、
どこかやり場のない感情をかかえた男を演じた小栗旬さんに共感したりする。

(マンチェスター バイ ザ シー然り、エヴェレスト(神々の山嶺)然り。
 旧いところでは初期の頃のロッキーもそうだった。 
 ひと気のない動物園での淋しい冬のシーンに温もりを感じるようなところ。)

(「マンチェスター・バイ・ザ・シー」を観る、脱力を極める。)

(神々の山嶺)

喪失感と折り合いをつけながら生きる人達を美しいと感じる。
そのような脆さや儚さと共にいられる心持ちに強靭さを感じる。 お手本とするものも、状態に合わせて時々変えていくほうが自然だ。

( ↓ ) 6月1日以来、7月初旬、そして2ヶ月間をおいて本日8/30にMRI検査。

夏休みもとらず、覚悟を持ちつつ臨んだのですが、
また2ヶ月後の10月下旬に再々検査と相成る。
小栗旬さんよろしく、栗の花が実をつけて旬を迎える頃。


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筑波山恋歌 (& あなたへの歌)

2017年08月19日 | 日記

まるで私向けにしつらえられた夏のようだ。

東京は8月に入ってから今日まで19日間連続で降雨を記録したらしい。

エルヴィスが亡くなった1977年の8月(22日連続で降水量を記録)以来、40年振りのことだという。

8月終わりに再検査を控えて、夏休みもとらずにいると、調子を合わせて併走してくれているかのような夏らしくない雨や曇天続き。

そんな夏の日の朝、 ちょこっと筑波山へ。

 

双耳峰の筑波嶺、左側が男体山、右側のわずかに標高の高いほうが女体山。

標高僅か877m、日本一低い百名山であるが、 山全体がご神体と言われるパワースポットでもある。
万葉集に詠まれた歌の数は25首を数え、その数は富士山をも凌ぎ別格扱いだという。

男神、女神を祀る峰が寄り添うように並ぶ。
Wikipediaにも
筑波山は古来より農閑期の行事として大規模な歌垣(かがい)が行われ、
近隣から多数の男女が集まって歌を交わし、舞い、踊り、性交を楽しむ習慣があった。”とある。
明治期になってキリスト教的道徳がサンプリングされていくまでの、古来の日本人や神道は性に開放的で、
そもそも神道には性のメタファーがたくさん出てくるといいます。

「酒をあがらぬ神はなし」という通り、「清らかな」快楽に充ちているのが神道の世界観。

そうして筑波山は情歌の代表的な枕詞となっている。

 It goes like this,,

筑波嶺の 峰より落つる男女川(みなのがわ) 恋ぞつもりて淵となりぬる

 

この日は筑波山神社からケーブルカーで男体山のある御幸ヶ原まで昇り、そこから女体山に向かいました。

ガマの口に石を入れるとご利益があると云われるガマ石。
「ガマの油売り口上」はここで思いついたそうだが、
元来「雄龍石」といい、傍らには「雌龍石」もあり、(こちらも雌雄が対になっている)
もともとはガマというより龍の姿だったよう。

筑波は、龍に象徴されるようなパワースポットなのだ。

霊験あらたかなパワースポットを、パワーをあらためて感じながらの振りかえり。

日本神話に登場する天上界である高天原(たかまがはら)。
女体山にも高天原と呼ばれ、天照大神を祀る巨大な岩があります。
神道の祝詞(のりと)に、
「樹根立草の垣葉をも語止めて(きねたちくさの かきはをも ことやめて)」と記されているが、
約2600年から3000年前に、神武天皇が、
幽顕一如であった幽界と顕界の間に扉を立て
人間は、木や草などの自然とコミュニケーションできなくなったらしい。
テレパシーや超常現象と言われるようなこと、動物と会話できる黒柳徹子さんのような人がかつては沢山いた。
しかし、突如として神は沈黙し、突然の神の不在によって、
人々はそれぞれが孤独な存在になり、争いが絶えなくなったという。

何故に幽界と顕界を二分して、物質世界を発展させたのか。
それとも、我々が知らないだけで幽界も顕界と同じくらいに歴史的な発展を遂げているのか。

二分された世界が、目指すべき歴史の終わり、終着点の世界なのか。
それとも、歴史的・時間的な分離ができない世界が別にあるのか。

女体神の頂きを前に、奇岩とかではない、もっと生身なパワースポットがありました。
見つけたというよりは精気のようなものを感じたのは、神道的コミュニケーションが成立したからなのでしょうか。
(山で時々見かけるが、これはマムシグサでしょうか。)

 

紫峰杉も、生きものめいた生身のパワースポット。艶めかしさぶりはもっとベテランだ。800歳だ。

杉の木に神を宿した姿だと言われるが、手足のように伸びる枝は滑らかで、苔までが艶っぽい。

足を踏み外したら、ほんとうに幽界に行きそうで、足がすくむ。
標高877mの低山だろ、とか関係ない。
877mも落ちれば、幽界への距離としては十分だ。

 

 (前日は山の日だった。真っ白で景色なんて全然見えない。)

筑波嶺の 峰より落つる、、とは凄い歌だと思う。

もう一首、いきましょう。

 筑波嶺のさ百合の花の夜床にも 愛しけ妹そ昼も愛しけ

幽界との結界に咲く白百合が妖気を放つ。

御幸ヶ原に戻ってくると、霧がさささっと明けて、関東平野が顕現していたのでした。

日光東照宮より旧いと云われる「見ざる・言わざる・聞かざる」。

 

パワースポット詣での記念に龍を象ったお土産を買ってカエル。

(ガマやカエルばかりアピールしないで、パワー溢れる龍とかのイメージのほうが筑波には似つかわしいと思う。
 筑波山と呼ぶのもいいが、雅称の紫峰もいい。人のことも尊敬を込めて雅兄と呼んだりする。子供たちの名前もそうだ。)   

去年の今頃はイマジンをやってました。
([ピアノ弾きおじさん] 未来をイメージとして予見せよ ~Imagine(take1))
発表会を終えて、くすぶっていましたが、私も恋歌を詠もうと思って練習中。

ユア・ソング Aメロ 練習中 20170819 wlmp

〈 追記 〉8月に入ってからの東京の連続降雨記録は21日でストップ、記録更新とはならなかったようです。


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神が宿る風景 ~ 私の範囲をとらえ直す(再掲)

2017年08月13日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

神が宿る風景、このビデオとそこに添えられたメッセージに倍音を感じた。(アデルの倍音
自分ひとりではなかなか見つけられない、鉱脈にがつんとあたったような感動。

~ 僕は、祖母の手を握って笑う赤ん坊の無邪気な笑顔を神と信じる。
遠くでベンチにうつむいて座ってる人の風景を神と信じる。
コーヒーカップ片手に信号が青になるのを待ってる­人の何気ないしぐさを神と信じる。
路地に咲く花が揺れる瞬間を神と信じる。猫の目の瞬きを神と信じる。
道路に舞う茶色の木の葉を神と信じる。さりげなくめまぐるしい雲を神­と信じる。
月や海や夕暮れのような自然を神と信じる。人々の、さりげない笑顔を神と信じる。

自然な光景、それは二度と、永久に同じようには繰り返されない奇跡で、そのどれもが目を覆うような輝きに満ち溢れてる。
そして僕は、そこに神がいると心から信じてる。

Nujabes / Luv (Sic) pt.3 feat Shing02

人間はかなしみが本質であり、土台。
自分のなかにかなしみがあるのと同様に、他の人もかなしみを持っていることに目を向けてください。
そのかなしみに敬いの気持ちを持つことです。
それが人を敬うということではないでしょうか。

人を敬う、ということの明快な答えが示されているように感じた。(攻めの養生 ~ 声に出して身心を調える

この映像とメッセージ、生物学者の本川達夫先生にも重なるものがある。

生物学的文明論 (新潮新書)
本川 達雄
新潮社

「かけがえのないものに価値を置く発想を取り戻すために、私の範囲をとらえ直しませんか。」

生物学的に言えば、子供は私であり、孫は私。
私、私、私、と私を伝えていくのが生物であるはず。
(生殖活動によって生物は続くようにできているのだから、この利己遺伝子の欲求から逃れることはできないのだが、
私一人の私、という利己主義だけが本来の生物の生態ではない。)

科学が数式を使った客観性を重視して、質ではなく量で物事を測定するようになり、
貨幣経済は、質の違いを値札という量に置き換えて、物事を評価するようになった。
(この考え方に現代人はすっかり飼いならされてしまっている。)

より速く、より便利にという社会の要請に応えて発達したのがクルマやコンピューターといった文明の利器であり、
エネルギーを使って時間を速めることで便利さが増してゆく。

質(かけがえのない多様性)を量に置き換える、便利な考え方が行きすぎてしまっているのではないか、
本来、人類を幸福にするためのものであった技術の目指すべき方向が、
このままでよいのかを考えるべき時期に来ているのではないか、という生物学者からの提言。

地球温暖化も資源エネルギーの枯渇も、元々は石油をどんどん燃やして、時間を速めているのが原因。
人間の身体の時間はどの生物も15億回で心臓が止まるようにできていて変わらないのに、
社会生活の時間ばかりが桁違いに大きくなっていき、そのギャップが現代人にとって大きなストレスになっていると指摘する。

時間を環境問題としてとらえる、なるほどそういう見方もできるのかと思いました。

利己遺伝子の欲求を抑えることはできなくとも、
自分の身体が占める空間(環境)と、自分の身体の一生という時間、
それ以外は私ではないと捉えるのではなく、もっと私の見方を変えて、もう少し広く私をとらえること。
私をとりまく物や人といった環境は、私という生物にとってかけがえのないものであり、私の一部。
そして、自分という個体の命だけが私ではなく、次世代へと受け継がれ継続していく命もまた私の一部。

生物にはそのような回って続く時間があることを、現代人は見落としてしまい、
万物共通の絶対時間に、ただただ押し流されていくしかないという感覚が私たちの生きる上での重荷になっている、と言います。

そもそも仏教的な廻る時間という概念ではない
一方向に真っすぐ流れるニュートン力学的な絶対時間というのは、
神がこの世を創った時から世の終末まで、絶対的な神の時間が流れる、という信仰の産物であり、
古典物理学は世俗化したキリスト教とも言える一面を持っている、と。

時間とは実に興味深いテーマだ。
 

 <2012.131初稿>

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芯喰いドライバー・エピックの誕生 ~ スイートスポットのほうを動かすという発想

2017年08月05日 | ゴルフィーライフ<気づきとアイデア>

ドライバーを自信を持って撃っていくために、スイングの「静けさ」を大事にしていくことにしました。

 「ゆっくり振る」というと、我慢する感じがあって、叩きに行きたい気持ちを迎えきれない場面が出てくるが、
「体は静かに、ヘッドを速く振ろう」なら、上達するスイングを作ることができそうだ。

([2017年7月]ゴルフダイジェスト・ダブルス選手権での教訓 ~ 静けさを大切に~)

アドレスからトップで力んではいけない。
しかし、漫然と、茫洋とスイングするのではなく、スイング中に集中するポイントを一点に絞る。

ダウンスイングからインパクトの間に集中する。

( ↓ ) 頭や手元が静かで、ダウンスイングを同じところに振っていく。
    本当に上手な人のスイングってこうだよなぁ、と感じさせる。
    ガチガチにスイングのすべてを固めるのではなく、ビュン! と集中するポイントがある。

リー・トレビノのスイング  天才シリーズ

静けさを持ってスイングすると、集中すべきポイントが分かりやすくなる。

( ↓ ) ニュードライバー、エピック・スターを手にして、
    ソール部分のウェート調整を始めようと思ったら、こんな記事が。
    (パーゴルフ 2017年8月8・15日号)

目からウロコだったのが、”フェースの真ん中に当てることを基準にして” ウェート調整するのではなく、
 ”自分の打点を基準にして” ウェート調整するという発想。

ウェート調整によって、クラブの重心・スイートスポットは動かせる。
(ウェートをトゥ寄りにすればトゥ寄りに、ヒール寄りにすればヒール側にスイートスポットも動く。)

フェースの真ん中に当てることを前提にして、
  ドローだ、フェードだって、大して意味のない弾道調整としてウェートを使うのではなく、
  自分の打点に合わせてスイートスポットを動かすことで、
  芯喰いショットを連発する飛距離アップの道具としてウェートを使うのだ。

 

それに、ちゃんと芯で撃てば、チーピンやダグフックは出ない。
(そのためにも「静かに」撃つのだ。)

( ↓ ) フェースのヒール寄りでヒットした時にチーピン気味の球が出るようです。
    シャンクが出るときと似ている。
    だから、ヘッドの少しトゥ側で撃っていく位の気持ちでちょうどいい。
    (上段:スイートスポットがヒール寄り、下段:スイートスポットがトゥ寄り)

チーピンやダグフックを防止するためにも、ヒール・ヒットは避けたいから、おのずとトゥ寄りで撃つ。
だから、スイートスポットもトゥ寄りにしたほうが芯を喰うだろう、という発想。
(フェースの真ん中で撃って、フェードボールにしようという発想ではない。
トゥ寄りで撃って、ストレートボールを狙うのです。)

ウェートをトゥ寄りにすると、重心距離も長くなるから、その面での飛距離アップ効果もありそうな気がする。

( ↓ ) 「明日に向かって撃て」のジェイル・ブレイク的なラストシーンの合間の様子。
    音楽でも映画でも、こういうアウトテイク的なものが好き。
    伝説や語り草になる名シーンや名演奏の前の、生身の人間を感じるから。

Butch Cassidy And The Sundance Kid - Behind the scenes

エピック(桁外れ)な、ジェイル・ブレイクのあらんことを。

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