ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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地謡(じうたい) ~ 能の舞には意味がない

2014年01月29日 | 読書ノート

能の中でも夢幻能といわれる能楽の中心をなす演目では、
異界に住まう「シテ方」が面をつけて亡霊を演じ、「ワキ方」と呼ばれる現実の世界に住む人間が異界と人間を結ぶ「あわい・あはひ(間)」の存在となって、シテの思いを晴らすまでを描く。

つまり、能について語ることは、異界の神や霊について語ることを意味するといいます。

″人が自分の言葉で神様の話をすると聞く人は引いてしまうのに、能の説明として神様の話をすると有り難がって話を聞く″、というのは、
どこか聖書を引きながら神様について話をする場合にも通じます。

人は、科学的に解明がされていない異界の話を聞く時、信頼に耐えうる、歳月の洗練を受けた聖典のような根拠を求めるからなのだと思います。

能においては、時間は独特の流れ方をするという。

シテとワキが出会うと、ワキが生きるこの世の順行する時間と、あの世から来たシテの遡行する時間が交わります。
シテとワキの会話が徐々に盛り上がっていき、やがて「地謡(じうたい)」というコーラスに引き継がれたときに、
ふたりの生きる二つの時間が渾然一体となります。

しかし、そこで謡われるのは、シテの思いでも、ワキのこころでもありません。そこで歌われるのは、風景なのです。
心象風景というのともちょっと違って、ただただ風景そのものなのです。
すなわち、ふたりの思いが風景に流れ出し、心も体も風景も、すべてのものが渾然一体となる。それが謡われるのが最初の「地謡」です。

そのとき、「いまは昔」の現象が生じ、「いまここ」が昔になってしまう。
かたや「昔を今になさばや」と、
昔を「いまここ」に呼び込んでしまう。
そして、今も昔も一体となって時制が消滅する。

ちょっと、難しい話になってしまいますが、能がただのエンターテイメントとまったく違っているのは、
能は、私たちがとらわれてしまっている「時間」や「時制」という枠組みから自由になり、その束縛から解放させるものであるということ。

武士が能を好んだのは、「時間を知ってしまった人間の心」が生み出した負の側面(未来への恐れや過去に対する後悔や悲しみ)をリセットする働きが能にはあるから。

★★『心は自分ではない』★★」にも通ずる、心に囚われず、心の表面的で感情的な部分を希薄化しておくような技能なのだと思います。

来日時に大相撲に懸賞金を出すなど、日本固有の文化に理解を示していたポール、
「今は昔」的な日本的な時制感を思わせるタイトルの「Once upon a long ago」、

ざざざざざぁ♪ザザザザザァ♪ってバックコーラスも
シテとワキの反対方向の時間が互いに寄せては返すようで、どこか地謡的です。

PAUL McCARTNEY - Once Upon A Long Ago - TRADUÇÃO

「能の舞いや振り、に人間に理解できるような意味はない」、というのは目から鱗でした。
能は、人間ではなく神様に捧げる芸能だから、人間に意味が理解できる身振りである必要はないのです。
大相撲の土俵入りの型とか、どういう意味があるのだろうか、と考えることも同様にあまり意味がないのかもしれません。

この曲の映像で見られる巨大岩石の上での演奏も、神に向けられたものであるかのようです。
岩や空や海と共鳴し合いながら、自然の中で執り行われる神事。

意味がないと言えば、歌詞もそう。地謡のように意味のない対象が謡われる。

Picking Up Scales And Broken Chords    音階のスケールと壊れたコードを拾い集める
Puppy Dog Tails In The House Of Lords   上院議員の建物にある仔犬の尻尾たち
Tell Me Darling, What Can It Mean?       ダーリン教えて、それに何の意味があるんだい
Making Up Moons In A Minor Key           マイナーキーで月を作り上げる
What Have Those Tunes Got To Do With Me?   そのチューンが僕に何の関係がある?
Tell Me Darling, Where Have You Been?         

意味や筋を追うばかりが正解ではないのです。私の本の読み方に多少通ずる話がありました。
(だから、わたしは小説を読むのが不得手だったのです、こんな風でもいいのです)

何となく、この辺にこんなことが書いてありそうな気がする。
そして、本をぱっと開く。
その時にたまたま目に飛び込んできたフレーズは「ご縁があったフレーズ」なので、それを引用する。
何となく世阿弥も横に多種多様な古今の文献を置いて仕事していたような気がするんです。
でも、その書物を頭から体系的に読んだわけじゃないと思うんです。
おお、これが出典か、ってメモしておいて、それを曲の中に適宜はめ込んでいった。なんだか、そんな気がするんです。
でも、そういう種類の本の読み方ってあるんですよ。
アルベール カミュなんかも多分そうなんですけど、体系的に本を読まないんです。
なんとなく「本に呼ばれる」ということがあると、ぱっと開いてみる。
すると、自分がまさに読みたかった当のフレーズがぴたりと出てくる。
それを素材にして書く。

「あわいの力」にもよく似たハナシが。

夏目漱石は、小説というのは「おみくじを引くように、ぱっと開けて、開いた箇所を漫然と読むのが面白いんです。(草枕)」といいます。
小説は筋なんて読むものじゃない。
一方で、ヨーロッパの物語には、アリストテレス以来の「ミュートス(筋)」を重視する影響が色濃くあります。
日本の物語は筋ではなく、読んでいるいま、開いているいまが大切なんですね。

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[2014年1月] 『土俵入りゴルフ』 ~ コントロールカード(2)(3)

2014年01月26日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

今年のテーマは、スコアやスイングばかりにこだわるのではなく、

大相撲の白鵬関のメンタルに倣って、「流れ」を常に意識して整えながら、磐石の相撲(ゴルフ)で一場所(一ラウンド)を寄り切っていくこと。

相撲や能楽にヒントを得た気づきを、ゴルフに活かしていこうと思います。
得たヒントはいくつかあるので、追ってまとめてみようと思いますが、今日は「土俵入りゴルフ」です。

「土俵入りゴルフ」
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相撲の土俵入りのようにティーグラウンドに立ち、おもむろにすり足で構える。

ピン方向に体も気持ちも流れてしまうのではなく、土俵(地面)をしっかりヒットしていく。
上ずった空中戦ではなく、すり足でしっかり姿勢を低く保って(スパインアングルをしっかり低く保って)、
相撲でいうと千秋楽まで15番、ゴルフは18番、しっかり寄り切っていく。

普通は、ターゲット方向、飛球線方向に意識が向かいがちだが、
それが、右肩が残らなかったり、体の開きが早くなったり、様々なミスを引き起こす。

相撲の立会いのように、正面への意識を強く持つのです。正面に向けて構える。

そして、立会の前傾姿勢、スパイン・アングルを保ちながら、地面を穿つようにスイングする。
(地面を穿つ、というのは、飛球線方向に流れず、体の正面で球を穿つためのイメージです。
地面を穿ち、地球を鳴らす応援太鼓のように、自然の力と共鳴する、能楽や地謡に通じる身体動作でもあるのですが、
これはまた追々。) 

筋肉の力だけに頼らずに、自然の力を「おろし」てスイングする。
太刀を扱うが如く、動き出しと刃筋を決めたら、自然の力が発動するのに任せる、そして太刀を止めて収める。--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

白鵬の土俵入り。
能と同じく、土俵入りの舞い(これは不知火型の土俵入り)は、人に見せるものというよりは、神に向けられているもののような気がします。
神様に向けて舞い、異界や自然の力を「おろし」てくる。

腰を落としながらの前傾姿勢、スパイン・アングルを保ちながらのすり足、
骨盤を立ててのせり上がり、

これをゴルフに取り入れたいのです。

さて、今年のテーマへの取り組みとしてここ最近の2回のラウンドです。

【1・19/ホームコース なの花 ~ コントロールカード提出(2)】

冷たい風が強く吹いていて、ショートアイアンは20-30yard大きめに打たなければならないようなコンデイションの日でした。
13時すぎに、IN12番スタートでしたが、冬至を過ぎるとみるみる日が長くなっていくのですね。
冬至の前後は、12時半スタートのスループレーでも日没を心配したのですが、無事にホールアウトできました。
最終ホールとなったINの11番で西の夕空に映える茜富士が、それはそれはきれいでした。

センター試験のたーくんのことを思い出しながら、地面を穿ち、応援の地太鼓を鳴らすつもりでラウンドしていると、
自然と共鳴しながらラウンドする、ということの意味がわかってきたように思えてきました。

これについては、また。

[11番スタートホール]
一球目、右目フェード、OB。(´・ω・`)
しかし、二球目まっすぐ。(前回までの左引っかけが、この日ピタリと治まりました。)
OBの後はPar5を4つ(バーディー)で上がります。

内容は悪くないんですが、相変らずスコアはばらけてます。まとまりません。

しかし、ラウンドが進むにつれて、ショットやリズムがどんどん整っていった気がします。
出だしのOBボギー(OB後カウントはバーディー)がこの日を象徴していたように思いますが、
スコア以上に内容は良い。ここのところ数ラウンドでは一番いい。

この日は北風もびゅうびゅう吹いていて、ショートアイアンは20-30Yard大きめに打たないといけないような天候でしたが、
そのようなコンディションも上手く取り込めていたような気がします。

最終ホール(なの花IN/11番)では、マイドライバーでこの日一番の当たりを放った後、
ゼクシオ8を借りて打ってみました。ヘッドがスッと走ってビシッとインパクトできるし、だからといって左にもいかない。
イメージ的にアスリートっぽくないので遠ざけていたのですが、
さすが、圧倒的な人気を誇る日本ブランドのドライバーは違うのかもと感じました。

一発目(マイドライバー)はFw右サイドでピンまで62yard、
二発目(ゼクシオ)は、ストレートでしたが、やや捕まり気味でFw左サイド、ピンまで残り距離は60yard、

ブルーティー345Yardですから、二発とも290Yard近く飛んでいます。(風は右から、アゲンストでもフォローでもなく)
往時の飛びも戻ってきました。

 

【1・26/ホームコース なの花 ~ コントロールカード提出(3)】

Sプロ 、そしてSペイさんと一緒のラウンドです。

やはり、上級者とラウンドする緊張感は、良い方向に作用します。

Outスタート、丁寧なゴルフで、久しぶりに、My Par(ボギーペース)でのイーブン(±0)、ハーフ45での折り返し。

しかし、9番ロングで1mのパーパットを外して3パットのダボにしたところ、白鵬的にはありえないことです。

磐石の寄りにはまだまだ。

そして、昼食を挟んでのINコースも5mのカラーからのパットも沈めて、
14番までで, My Par(ボギーペース)から2アンダー。

残り4ホール、ボギーを続けても88でのホールアウトです。
おまけにこのINコース12番以降は(今シーズンはあまり良くないですが)、たびたびラッシュを見せた相性のいいコース。

ところが、突然に雲が立ち込め、強風が吹き出すと、スコアは脆くも崩れていくのでした。。
結局、後半は50叩き。

 

 

コントロール・カードを提出し始めてから3回目、104、102、95、
ようやく90台でラウンドできました。ほっ。

ブルーティーからのラウンドですし、まずまず手応えがでてきたのではないでしょか。

冒頭に言及した、「土俵入りゴルフ」の型を累々とくり返し、「流れ」を作っていけるように精進していこうと思います。

先日呟きました、このあたり( ↓ )の新しいパースペクティブについても、追ってレッスン化していこうと思います。

久しぶりにマスカラス・レッスンが出るかー、というムードも出てきました。

 

 

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ゴルフでもいいんです ~ 自然力のおろし方

2014年01月25日 | ゴルフィーライフ<気づきとアイデア>

記念。内田先生とTwitterでやり取りできました。

近ごろ、というか前からですが、能や相撲(腰割やすり足、土俵入りの型とアドレスの関係に至るまで)、禅などの和の身体動作を、
ゴルフに取り入れることはできないか、ということを考えていました。

そんな折、能の稽古を17年間も続けられているという内田先生の呟きにビビっときたのです。

能の動きは至ってシンプルなのに、17年を経てもなお、″ああ、なんて面白いんでしょう。″という発見がある。

能の世界では、いつまでたっても、至らない自分をはばかることなく、てらいもなく居られる。

ゴルフはややもすると、上級者目線での分かったような物言いが多くなっていくように感じるのですが、
こんな風に、なんて面白いんでしょう、っていつまでも言えたら素晴らしいじゃないですか。

ゴルフをプレーしているさなかにも、″ああ、これこれ。″ ″ちょっと違う、、あぁ、そこそこ!″って感じる瞬間があるでしょう。
あっ、ここだと思うものを自分で見つけていく面白さ。
でもそのような感覚は、またすぐに消えてしまう。
だから、また累々と型を繰り返しながら、その感覚を追い求めていく。

何年やってようが、100叩こうが、てらいもなく、そのような面白さがあることを自由に語ってもいいと思うのです。

ゴルフではだめですか。

 

強烈な自然力を「おろし」てきて、それを充分に発動させる能楽は、日本人が見出した特異な技能のひとつの到達点だったんじゃないかと思います。
剣術もそうなんです。
剣の斬撃力というのは、すごいものなんです。
人間の腕で振った刀にどうしてそんな強大な力が発揮されるのかわからない。
それくらいに凄まじい力が出る。
剣もまた、それを通じて、荒々しい自然力が発動してくる一つの通路なんですよ。ただの道具じゃない。
人間が筋肉を使って振り回すのじゃない、逆なんです。剣を手に持つと、自然力が人間の身体を通じて発動してくる。
だから太刀を扱う時の人間の仕事というのは、振り回すことじゃなくて、太刀の動き出しと、刃筋を決めること、あとは太刀を止めること。
自然力を「おろし」て、発動させた後に上げる。
その点については、剣と能は原理的には同一の技能だったと思います。

まるで、ゴルフ・スイング理論そのものじゃないですか。
(ストッパーとは強烈なテコのエネルギー、、『 圧倒的な「勁(けい)のエネルギー』と呼ばれるもの

「陸には源氏、沖には平家」、
平安末期からの中世初期に、騎馬集団と海民集団といった自然力を操る技能集団が覇権を競い、
彼らに続いて、自然力を巧みに取り込んで活用する技能を持った集団が次々に出現してくる。

そういった時代に生まれた、憑依的な自然力の発現としての芸能である「能」には、
一芸能には留まらない、人間世界に自然や異界の力をおろしてきて制御するためのノウハウが集大成されているように思うのです。

ゴルフにも共通するような様々なヒントがあるにちがいないと思うのです。

「荒々しい自然力を制御する技能」であるゴルフ、いかがでしょか。

ゴルフではだめですか、というアンチテーゼだけでは終わらずに、ゴルフでもいいんですよ、ということにしてしまって、
「自然力のおろし方」についてまで来てしまいました。

まだ、書きたいことあるのです(ターゲットゲームから仲間を動かしていくゲームへの発想の転換や、共鳴や地謡といったこと、相撲の型や流れについて)が、ますます纏まりがなくなりますので追々。
能と同じです、限りがありません。
~ 「いのちには終わりありけり、能には果てあるべからず」(世阿弥)

Tom Waits - Take me home

ホームコースへ連れてっておくれ。
ばかばか、打ちのめされても愛してるよ

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永遠のゼロとトム・ウェイツ

2014年01月24日 | ツールとしての音楽

一月初めの話ですが、今年初めて観た映画は「永遠のゼロ」でした。

昨年五月、入院時に読んで、忘れがたい印象を得た作品です。

 

作品自体の魅力はもちろんですが、「風立ちぬ、生きねば。」で少し書きました通り、

物語中に出てくる人物、

 ― 主人公宮部の娘である清子、そして、悲しみを残さなかった人たちの心を言葉にして現じてみせた武田という男、、

特攻隊員に選ばれたからには死の宣告を受けたのと同じです。
しかし、彼らは決して私たちの前で、それを怖れるようなことを言いませんでした。むしろ明るく振舞っていました。
それが本心であるはずがありません。
彼らがそうした笑顔を見せていたのは、私たちのことを思ってなのです。
死を前にして、後に残る者たちの心を慮る ー  一体何という男たちだったのか。

新聞記者だと ー。 あんたは死にいくものが、乱れる心を押さえに押さえ、家族に向けて書いた文章の本当の心の内を読み取れないのか。
残る者の心を思いやって書いた特攻隊員たちの遺書の行間も読み取れない男をジャーナリストとは呼べない。

「死にたくない! 辛い ! 悲しい ! 」とでも書くのか。
それを読んだ両親がどれほど悲しむかわかるか。大事に育てた息子が、そんな苦しい思いをして死んでいったと知った時の悲しみはいかばかりか。
死に臨んで、せめて澄み切った心で死んでいった姿を見せたいという思いがわからんのか !

登場人物の偶然の重なりに驚き、物語の世界と自分との間に、何かあわいのような、媒介するものの存在を感じたのだと思います。

私の場合には、神殿ではなく病室が、日常とは異なる時間や空間、つまり「異界」をつくり出す装置だったようにも思えますし、
そして、この物語りが、日常と「異界」をつなぐ「あわい」の存在になったという風にも感じるのです。

人は、異界に足を踏み入れることで、自分が普段とらわれている身体性や自分の時間から抜け出し、新たなものに目覚めるきっかけをつかむことができます。
人は異界との行き来を通じて、日常の生を充実させることができたのです。

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「永遠のゼロ」を観て、サザンの主題歌も悪くはなかったのですが、トム・ウェイツの歌が主題歌だったらぴったりだと思いました。

Tom Waits - Ruby's Arms

君と一緒にいたときに着ていた服は全部おいていこう   I will leave behind all of my clothes
このエンジニアブーツだけあればいい、 それと革のジャケット
I wore when I was with you, all I need's my railroad boots, and my leather jacket,

ルビーの腕にさよならするんだ       as i say goodbye to Ruby's arms,
俺の心は砕けたけれど                  although my heart is breaking,
日よけをすり抜けそっと出て行こう、君はすぐに目を覚ましてしまうだろうから 
I will steal away out through your blinds, for soon you will be waking.
朝の光が君の顔に降り注いでいる  The morning light has washed your face, 
今や何もかもが憂鬱だ                   and everything is turning blue now,
君は枕を抱きしめている                 hold on to your pillow case 
もう俺ができることは何もないな      there's nothing i can do now,
俺はルビーの腕にさよならするから  as I say goodbye to Ruby's arms

「あわいの力」の中に、こんなくだりがあります。

人は表舞台で順調に過ごしているうちは、自分が抱えている欠落には気づきません。
「夜の世界」の何が好きだったかというと、そこに集まる人がみな、どこかに影を抱えているというか、人生に後ろめたさを感じていたことです。
自分自身を含めて、そのお店にいる人たちはみな、欠落を抱えて人生を漂白する、能楽師の「ワキ」的な人ばかりです。
人は誰しも欠落を抱えて生きていて、ちょっとした出来事をきっかけに、その欠落と向き合わざるを得なくなり、「ワキ」方としての人生を歩み始める可能性があります。
私が夜の世界を経験して学んだのは、己の欠落を自覚している人たちは、カッコつけようとするところがないというか、カッコつけてはいるもののそれが見え見えで、ポーズの裏側に深い悲しみが感じられるということです。
自分の欠落を自覚しているひとは、他人の欠落にも敏感になります。たとえばお金がない人からは巻き上げない、弱者をカモにしないというのは、欠落を抱えたものどうしの、ちょっとした心遣いのようなものです。

欠落を抱えた、引け目を持ったひとを好きだと言える気持ち、曽野綾子さんの言葉を思い出しました。

でも、この男が抱えている欠落は大きすぎるのかもしれません。たとえ多少の欠落を負ったとしてもまだまだこの男には及びません。
素晴らしい解釈です。⇒  ◆ルビーの腕◆

 今晩のトムウェイツの記事は、お褒めの言葉を頂けて、登れたというところもあります。感謝致します。⇒ 猿が芋を洗うらしい

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心の時代の次へ ~ あわいの力

2014年01月19日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

2013年の暮れ、父母のいなくなった実家に居て、
かつて家族四人、ここで過ごしたアナログな日々というものが果たしてどこまで現実だったのだろうか、というような話をした。

残っている写真から見ても、たしかに現実であったことは間違いないのだが、
もっとアナログ的な匂いや雰囲気、そこにまつわるエピソードが、たしかに現実であったとどこまで言い切れるのか。

それぞれの記憶の中に残っている思い出はたしかに現実であったはずなのだが、
その多くは弟とわたしの記憶にとどまっているだけで、現実世界の他の人たちと共有しているわけではない。

オブビリオン ― 忘却された現実は、はたして現実だったのか

Sol Gabetta - 'Oblivion' (Astor Pantaleón Piazzolla) [live]

そもそも、リアルな現実というものは、常に更新され続けている今であって、
過ぎ去った現実は、リアルでなくて最早バーチャルなのかもしれない。

現実としての確からしさが、認識を同じくする人の多さや共有度で測れるのであれば、
親しい人の間でのみ共有しているアナログな記憶は、FBにアップされた現実よりも認知度が低くて、不確かなことになってしまうのかもしれない。

( ↓ ) 日常にTVが入り込み、TVカメラの視点を持ち得ることで、私たちのリアルな現実世界は圧倒的な拡がりを持つようになった。

肉眼で捉えることのできる範囲を超越した現実認識が可能になっている。

認識装置が肉眼だけでなく多様になれば、認識できる世界も多様になる。

インプットとしての認識能力が高まれば、アウトプットとしての世界を再構築して認識する力も高まるはずだが、
必ずしもそう上手くワークしているようにも思えない。

世界を住みよく変えるための人の絶え間ない努力は何のためにあったのか。われわれの心が満足するためではなかったのか。
  しかるに、この心は相変わらず瞬間瞬間」で違う感覚に弄ばれ、ゆったりくつろぐ暇すらなく、嵐の中で身を翻し続けるばかりなのです。
   われわれの心に対する処遇や知識が現状のままでは、世界を映し出す鏡(こころ)が歪み汚れたままになってしまう。
  (★★『心は自分ではない』★★

上手くワークしないのは「心に対する処遇や知識」が間違っているからではないのか、心への態度を考え直してみてはどうか。

心の時代の次へ。(「シリーズ22世紀を生きる」だって。 もう22世紀睨み、なのです。)

人間は「心」を得たことで、時間の流れを感知することができるようになり、未来を変える力を手にしましたが、
その結果、人間は、過去に対する後悔や悲しみ、未来への不安や恐怖を感じるようになり、ヘタをするとそういう感情に押しつぶされそうになっていきます。
それが心がもたらした副作用です。
かつては「心」というものが希薄でしたが、人類は「文字」を獲得して、過去を記録し、未来に思いを巡らせることができるようになりました。
時間を知った人類が感じるようになった不安と向き合うために、孔子や釈迦やイエスの思想が生まれたのです。
しかし、現代は心の副作用がピークに達していて、この三人の思想でも対応できなくなっています。
そろそろ「心」に代わる何かが生まれないと、人類がいま直面する苦しみから逃れることはできません。
「心」の最大の欠陥は、時間の流れに対して無力であることです。
それを補うような新しい何かを得た時に、人類は次のステージに進むことができると思うのです。

心に代わる何かについて、答えが書かれているわけではありませんが、考えさせられます。
豊かな心こそは上等、というヒューマニズムが絶対の正解なのだろうか、と問い直してみたほうがよいのかもしれない。
時々心を希薄にしておく、というのもありではないのか。

そこに登場する明治時代の漁村の人々は、人が死ぬことをあまり重大事だとは思っていない。
むろん死は悲しいが、恐怖心を抱かずに、人は死ぬものとして、当たり前のこととして受け入れる。
時間の流れというのは心が生み出した抽象概念です。時間を認識するという意味では心が希薄な人々なのかもしれません。

まず、文字が生まれ、それからしばらくして心が生まれた。
文字という道具を獲得し、それを使ってるうちに、人間の脳がさらに発達し、その結果、「心」が生まれた。
そして、人間がどうやって心を獲得していったのか、心が生まれた瞬間に迫るために、心がなかった時代の文字(甲骨文字や楔形文字)を読み返すのだといいます。
「次の何か」が生まれる段階がどういうものであるのかを知るために。

心に代わる何かが生まれるためには、文字に代わる何かが、その前に生まれる必要があるということです。
ちなみに文字に代わる何かというのは、音楽とか絵画とか、そういうものではありません。
文字が存在しなかった時、誰も文字を想像できなかったように、いまの私たちにはまったく想像しえない何かが生まれる必要があるのです。

甲骨文字について→ (透明にすることによって隠蔽されたもの、そして賦活させるもの)

 


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能をやっていて一番よかったと思えるのは、自分の成果を気にしなくてよくなったということ

2014年01月13日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

「和の身体作法」というワークショップに行ってきました。

能楽師ワキ方 安田登さんと、元一ノ矢関による、四時間に渡る実践講座です。

 

相撲や禅、能といった日本の文化が生み出した所作や身体技法には以前から興味があって、腰割りにヒントを得た毎朝のスクワットも半年以上続けています。
(夜明けのスクワット~ 腰割りトレーニングの習慣 ~)

今一歩ふみこんで、身心の感覚を高めていきたいのです。
白鵬関が口にする「流れ」のような、魑魅魍魎とした感覚を言語化したりしながら、浮き上がらせて制御の方法を身につけていきたいのです。

能には以前から興味を持っていましたが、年末にこの本を手にしてから、感度が上がってきました。

そして、今回のワークショップに参加するに際して買い求めた、安田登氏の「あわいの力」、これが素晴らしい。名著です、気づきに溢れています。

観劇や習い事としての「お能」に興味を持つことはなかなかに難しいですが、「能が指し示すもの」の凄さに心酔しております。

まずもって、″能の世界に生きる人たちの基本的な心の構え″に驚かされました。

たかだか人の一生レベルの時間軸で成果を測れるなんて思うな、といわんばかりです。ビジネス・タームでは考えも及ばない発想です。
成果ばかり追い求めずに、目の前にあるものを、とにかく次へと受け継いでいくという気持ち。

ある方が鼓の革を買ったとき、「この革はいまは鳴りません。でも、毎日打ち続けて五十年経てば鳴り始め、一度鳴れば、六百年は使えます」と言われたそうなのです。
数十年後に鳴り始めるかもしれないし、ひょっとすると、その人が生きているうちには音が鳴らないかもしれない。実は全然ダメかもしれない。代々受け継ぎ、何百年後かにようやくいい音が鳴り始めるということもあるかもしれません。

でも能の世界ではそれが当たり前の感覚です。

能をやっていて 一番よかったと思えるのは、自分の成果を気にしなくてよくなったということです
自分の力で何かを成し遂げようとか、そういう思いがあったら、とてもじゃありませんが、こんな世界で生きていくことはできません。

人がその生涯をかけて自分は何を残せたのかという気持ちになる時、これは救いになります。

自分が生きているうちに何かを完成させようとしなくても、受け継いでいけば、他の誰かがいい音を鳴らすことができるかもしれない。
今生を諦めて来世にその成果を委ねるという風でもなく、成果をプレゼントする側にいるのだと思って受け継いでいく。

そもそも能は、人に見せるためのパフォーマンスではなく、神様に向けて舞うものだったということですから、人に成果を提示する必要がないものなのかもしれません。

~ その発生において、観客は存在せず、演者はただ神様に向かって演じていました。

成果主義にはしらないのは、単に大らかで呑気なわけではなく、むしろ成り立ち的にも理にかなっているのです。

世阿弥は「いのちには終わりありけり、能には果てあるべからず」という言葉を残しています。
他にも解釈の仕方はあるようですが、私には、何事も一個人の度量衡や時間尺で測ろうとする現代的な時間感覚への戒めのように思えます。

この本(あわいの力)では、「時間」というものについて、もうひとつユニークな考察がなされていますが、
咀嚼しながらしたためていきたく、また次回以降に。

 以前にも「あわい」について書いてました。 

「あわい」でどう振る舞うかということ ~ However absurd♪

 能についても。

雅楽と能について

<能ゴルフ ~ 腰椎4番>

前シテと後シテ/ 夢幻能について

観世清和・内田樹「能はこんなに面白い!」

安田先生のお姿も。

Noboru Yasuda 安田 登 - TEDxSeeds2010

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[2014年1月] 新年初ラウンド ~ コントロールカード提出開始/3番アイアンでプレイした

2014年01月04日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

ホームコースにKD砲&Mrテイラーを招聘して、新年初ラウンドに行ってきました。

秋口に復帰以来、左へいくドライバーが修正できぬままでラウンドを迎えましたので、
本日はアイアンマンに徹しようと決めました、 

鉄男です。
ティーショットでドライバーを握ることを封印して、3番アイアンで、ロングもミドルもティーショットするのです。

これまでも、いつかやってみようと思っていましたが、意外にそんなことはしないものです。
(せっかく、お金払って、一日ゴルフするのだから、ドライバーを気持ちよく振りたい、というのが人情というもの。)

いまどき、ロングアイアンは難しいからと、抜いているゴルファーも多いのですが、
わたしはロングアイアンが好きで、今も3番アイアンから入れています。
ウッドはドライバーとユーティリティーが一本あれば十分です。

人にはなかなか信じてもらえませんが、なぜか相性の悪い9番アイアンよりは、5番あたりで170yard先のグリーンを狙いに行く時の方が、自信があるのです。
Par3でも、180-200Yardあったほうが、(100Yより簡単とはいいませんが)周りよりアドバンテージを感じて、狙いに行く気持ちが高まるので、距離のあるPar3が好きです。

前置きはこれくらいにして、今日の結果を。(`・ω・´)

前半は3番アイアン(3i )が切れてます。 距離感を誤って2ndショットの5番アイアンでG向こうにOBした13番、1.2mから3パットした18番などいただけないプレイも顔を出しますが、詰めが甘い割には合格点。

飛距離的に、それほど不利にも感じません。当たりがそれほど良くないドライバー相手なら飛距離も負けませんし、なによりコントロールできてます。

 ところが、後半、暖かくなって、体もキレ始めてきたのか、
つかまった球ではあるものの、3番アイアンのティーショットが左へ行き始めます。
200Y先のFwをきっちりヒットできていたのに、左のラフや林へと。
そしてつれて、他のショットもとにかく左へ巻く。後半Outはパーすらもとれない、酷いラウンド。

ここ最近のドライバーに何だか似ています。 3鉄をもってしても左へいくのか ・・・

こんなことなら、ドライバー持っても変わらないなとは思いましたが、今日はドライバーを手にしないラウンドを貫きました。

後半、少し投げやりになって、余計なショットやパットをたくさん打ちましたが、

本日分から、ハンディキャップ取得のために、ラウンド終了後にコントロールカードの提出を開始しました。

わたしは48/56の104、 淡々とスコアを重ねたいしこは、46/47の93です。

 

  もう冴えないスコアのゴルフゲームの話なんてウンザリだと君は思ってる。

   馬鹿げたゲームで週末をいっぱいにしたい人々もいる、 それの何がいけないんだい 教えてくれよ

     だから僕はまだこういうのさ、アイ・ラヴ・ユー、ゴルフに恋してるって!

   恋なんてすぐにはできない ダメなときだってあるさ

おぉ、ポール!   元気出る~ ちっとも馬鹿げてないよ、うまくいかなくたって。

しかし、OBが出なくても、予定調和のように100とか、ハーフ45+10あたりにフラフラと着地するのはなんなのでしょ

 これを改善できたら、すごい人生勉強になるのではないでしょか。(大げさに聞こえますが、半分本気)

スコアやショットといったパーツなんかより、流れをどう捉えるのかという、勝つための意識の部分なのでしょうか。

(スコアとかショットとか関係ないから、自分がどうやって戦うかをイメージしろ)

ピン方向に体も気持ちも流れてしまうのではなく、土俵(地面)をしっかりヒットしていく。
上ずった空中戦ではなく、すり足でしっかり姿勢を低く保って(スパインアングルをしっかり低く保って)、
相撲でいうと千秋楽まで15番、ゴルフは18番、しっかり寄り切っていく。

白鵬のメンタルに倣ったゴルフ。
「流れ」にこだわるのが白鵬関の流儀。いかに流れに乗せていくかに心を砕く。

「流れゴルフ」、これは、今後のテーマに。

 

コメント (4)
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聖地巡礼

2014年01月03日 | 旅と帰省とお出かけと

浄土真宗には「土徳」という言葉があって、その土地が持つ徳のようなものに人は育てられているという考え方があるのですが、
数年前から大阪に帰省するたびに織田作之助ゆかりの土地を訪ねたりして、大阪の持つ土徳のようなものを感じることが多くなったように思います。
その土地の水が合わないとか、水が変わるから気をつけて、とか言いますが、
人間の身心は、土地の持つ霊気のようなものから、何らかの影響を受けているのだと思う。

年の瀬、そんなわたしの大阪帰りのお伴にぴったりだったのがこの本。

大阪天満宮、上町台地に始まって、四天王寺に至るまで、
不思議なくらいに、ここ数年、足が向いた場所をなぞるように歩いておられるのです。

正月、織田作之助を訪ねて
(ジョージハリスン的 四天王寺散歩)

(Magical Mystery Tour @道頓堀/Osaka in 2012

 

 

土地の持つかすかな霊性を感じ取るというのが、この本のテーマでもあるのだが、
大阪という猥雑な土地の持つ霊性とはどのようなものなのか。

例えば、上町台地にある生魂神社の周辺は、お墓とラブホテルが交互に屹立する、いわゆる典型的な″悪所"に感じられます。
ほとんど世界中の人が褒めてくれる京都や神戸、奈良と違って、大阪にはこの″悪所"のイメージが強い。
ほっといても、世界中の人がほめてくれる京都や神戸や奈良とは違い、
大阪は、たしかに行ったこともないのに嫌いだという人が多いような気がします。

かつて大和朝廷の時代には、ほとんどが湿地帯や海で、文字通り、「河の内」だったのが、埋め立てられ、どんどん地形が変わり、人が住み着いていったのが大阪。
大和や京都、海や淀川から、いろいろなものが流れてくる「吹き溜まり」のような土地。

京都や奈良のように、東西南北の方位を通して、様々な神社仏閣を勧請(かんぜい)して、霊的な抑えを利かせるといったような、秩序だった土地とは来歴がちがいます。

「わたの原(大海原) 八十島かけて 漕ぎ出てぬと 人には告げよ 海人の釣り船」
と歌われた八十島は、島がたくさんあった大阪湾、難波八十島のことを歌っているのだという解釈が新鮮でした。

京都から隠岐に流される道程が瀬戸内海を経由して、というのも、どうしてそんなに回り道をするのか不可解なハナシだと思いますが、
古代と現代ではそもそも水陸の様子が全然違うのだと思えば、合点がいきます。大阪から隠岐へと通じる海路があったに違いありません。
大阪は水の都どころか海そのものだと思った方がイメージが湧くのだと思います。
谷町は、上町台地の西側の堀江だったというし、船場、難波、と、水にまつわる地名が都市部の随所に見られる。

砂州のような低い土地が、そこから拡がっていたという「上町台地」は、古代から一度も海没していない大阪中心部における唯一の土地だそうで、
上町台地の先端に大阪城があり、そこから生魂(生國魂、生玉)神社、四天王寺、住吉大社までが、大阪の宗教性の背骨になっている。

いわば、大阪の宗教ライン。

 

そして上町台地は、古代、神武天皇が日向からやってきた岬なのである。

大阪の上町台地、ここはお寺が約二キロにわたって立ち並んでいる。世界中どこへ行ってもモスクや教会がそんなに並んでいる場所なんてないです。
寺の門も墓石もみんな西を向いていますからね。
大地がひとつの生命体みたいなデザインになってるんです。

古代まで遡れば、生魂神社が祀る生島・足島は、上町台地のみならず日本列島の土地神であったということで、
″生玉さん″の理屈で言うなら、日本人全員が生魂神社の氏子ということになるらしいのです。

まるでアダムとイブに行き着く人類の起源、みたいで、少々乱暴な話ですが、
荒ぶる海民が日本人の起源であった、というのは、なかなかにロマンを感じる物語でもあります。
(縄文土器や弥生土器をこしらえて、コメを作ってたんだよ、といわれてもピンとこない時もある。)

日本という国の成り立ちを考える時に、普通は農耕民族を中心に考えるが、
海民の視点から日本を見るとまた別の姿が見えてくる、という指摘はなかなかに鋭いと思う。

平氏と源氏の争いって、海と風を操る異能者と、当時最速であった馬という野生動物を制御する異能者の対立と読み替えることができる。
海民と騎馬民族(海部(あまべ)と飼部(うまかいべ))、荒ぶる自然力のどちらを制御するものが、列島を支配することができるのか。
陸には白旗、沖には赤旗という、海と陸の図式的な対立が源平合戦の基本構図であり、
室町時代に成立した「能」のレパートリーは四分の一くらいが源平がらみの話とのこと。
運動会の赤白に至るまで、源氏と平氏の対立構造が、日本人の考え方の軸になっている。

源氏が勝利し、武家社会が日本の歴史の本流を形成するにつれて、
私たちは、(海民的でない)農耕民族的な、身体感覚を身につけていったのかもしれません。
海民的武士道というものがあったとすれば、今日の武士道に象徴されるものよりも、もっと荒々しいものになったのではないか、と思わせます。
武田騎馬隊に対した織田信長の鉄砲隊などの舶来の砲術や、カンフーとヌンチャクなど、持てるものを総動員した戦い方。

大阪という、水陸の交わる異界スポットは、海民的であるがゆえに、農耕型日本人にはなじまないのではないかと思えます。
京都のように万人に愛されることもなく、異端として、京都や東京に次ぐ都市でしかありえない理由がわかったような気がします。

( ↓ ) 東西南北という方位に対する身体感覚への言及がすばらしい。
(アメリカ人も、国の端から端までという」ときに、ニューヨークは自由の女神から、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジまでを思い浮かべるらしい。
東西方向重視の意識は、海民的、移民的なものなのか)

僕たちが空間認知をする時って、まず南北のラインを決めて、それから東西を決めるという順番なんですね。
なんでだか知らないけど、道場を建てる時も、南北が長くて東西が短い長方形にするのが基本なんです。
長安とか洛陽とか、平城京や平安京の都市のかたちと同じ長方形。
別に決まっているわけじゃないけど、そのほうがあきらかに身体を動かしやすいんです。
ところが、海民の場合は海からやって来るので、東西が気になる。

大阪の御堂筋という通りは、北御堂・南御堂の鐘が聞こえる所で暮らしていたいという真宗門徒の人々の宗教的感受性に基づいて形成されたんですよね。
鐘の音や振動を肌で感じ取ることを生活設計の基本に据えていた。

かつては、御堂さんの屋根より高い建物を建てないという習慣があったそうなんです。

そうした霊的感受性が今はほんとうに衰微している。
なんでこんな気持ちのいい道にこんな邪魔なものを建てるんだという憤りを今日は何度も感じました。

半世紀前までは、この道を歩くと何となく気持ちいいとか、ここはどうしてもこちらに曲がりたいとか、そういう体感を普通の市民でも備えていたはずです。

″ここはどうしてもこちらに曲がりたい″ 

この感覚って、失いかけているというか、無自覚でいると、そのような感覚を自分が持っていることすら忘れてしまう類の感覚だと思いませんか。

内田先生が、霊性を感じる感覚について口にしていますが、
わたしも、四天王寺界隈を数年前にあらためて歩いてみたとき、同じような違和感を抱きました。
四天王寺の持つ、浄土信仰の極みのような、あまりの広大無辺さに目が眩んでしまったとか、そういう頭で理解しようとする範囲を越えたプリミティブな違和感です。溢れ出る霊気に圧倒されているがゆえなのか。

法然、親鸞、一遍上人もここに来て、「日想観」をしたといわれる四天王寺西門で、
能曲「弱法師」を吟じながら沈む夕日を眺めようとも思いましたが、今の私には、水の合わないことのように感じられて、足が向きませんでした。

足が向かないから行かない、というのも霊性をみがく旅の選択肢としてある。

実は、今日の巡礼の最後の四天王寺を見たとき、ちょっとショックだったんです。
だって、まるでタイガーバームガーデンでしょう。おいおい、四天王寺ってこれかよ、って。
聖徳太子の造営というから期待していただけに、旅の終わりがこれかとやや気持ちが萎えているところに、最後ここ(四天王寺境内の五智光院)に連れてきていただいて、ほっといたしました。
今日、この五智光院に来てよかったのは、ここがすごく懐かしい場所のような感じがしたからなんです。そうそう、こういうところに来たかったんだよっていう。
ここの懐かしさって、個人的な経験として懐かしいのではなく、自分自身の霊性の深いところにあるものと、この場が同期している感じがするんです。
これ、四天王寺の講堂や五重塔では感じなかったんです。あそこに行ったときは、正直言うとかなり違和感があって、造形的にも皮膚感覚的にも全然同期しない。人生の最期に「君はここだよ」っていわれたら、「いや、俺はこの五重塔の中で息絶えるのはちょっと勘弁してほしいな」っていう感じがしたんです。
ところがこの場所はいいですね。こういうところで臨終の時を迎えるのなら、いい気分だろうなって。

先日亡くなった大滝詠一さんが、「聖地はスラム化する」と語った通り、
人間の世界で受け止めるには強すぎる霊力を制御する時に俗悪なもので飾り立てるというのは、ある意味仕方がないことで、それが自然過程なのだ。
道頓堀の派手な看板文化のそばにある法善寺横丁、
織田作之助の夫婦善哉の舞台にもなった場所で、横丁っぽい風情を醸そうとする意匠も見られるのですが、不思議と落ち着かない。
情緒というより、もっと強力でざわざわした感じがする。

いまや日本の主流をなす農耕型・狩猟型だけでなく、関西には海民のパワーも色濃く残っているがゆえ、霊力も強いのだと思います。
大阪を読み解くカギは「海民」にあるのではなかろうか。

 

まるで「沖には赤旗」の荒ぶる海民ソングです、赤いひこう船による移民の歌。

Led Zeppelin - Immigrant Song

近年とみに恋焦がれるようになった牛すじ、

決して土手焼き風のではなく、透明なスープに入った柔らかいやつ、

原点はこれでした。弟が涙したという「シチュー」の味、またいずれのときかに。

  

 

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