能の中でも夢幻能といわれる能楽の中心をなす演目では、
異界に住まう「シテ方」が面をつけて亡霊を演じ、「ワキ方」と呼ばれる現実の世界に住む人間が異界と人間を結ぶ「あわい・あはひ(間)」の存在となって、シテの思いを晴らすまでを描く。
つまり、能について語ることは、異界の神や霊について語ることを意味するといいます。
″人が自分の言葉で神様の話をすると聞く人は引いてしまうのに、能の説明として神様の話をすると有り難がって話を聞く″、というのは、
どこか聖書を引きながら神様について話をする場合にも通じます。
人は、科学的に解明がされていない異界の話を聞く時、信頼に耐えうる、歳月の洗練を受けた聖典のような根拠を求めるからなのだと思います。
能においては、時間は独特の流れ方をするという。
シテとワキが出会うと、ワキが生きるこの世の順行する時間と、あの世から来たシテの遡行する時間が交わります。
シテとワキの会話が徐々に盛り上がっていき、やがて「地謡(じうたい)」というコーラスに引き継がれたときに、
ふたりの生きる二つの時間が渾然一体となります。
しかし、そこで謡われるのは、シテの思いでも、ワキのこころでもありません。そこで歌われるのは、風景なのです。
心象風景というのともちょっと違って、ただただ風景そのものなのです。
すなわち、ふたりの思いが風景に流れ出し、心も体も風景も、すべてのものが渾然一体となる。それが謡われるのが最初の「地謡」です。
そのとき、「いまは昔」の現象が生じ、「いまここ」が昔になってしまう。
かたや「昔を今になさばや」と、昔を「いまここ」に呼び込んでしまう。
そして、今も昔も一体となって時制が消滅する。
ちょっと、難しい話になってしまいますが、能がただのエンターテイメントとまったく違っているのは、
能は、私たちがとらわれてしまっている「時間」や「時制」という枠組みから自由になり、その束縛から解放させるものであるということ。
武士が能を好んだのは、「時間を知ってしまった人間の心」が生み出した負の側面(未来への恐れや過去に対する後悔や悲しみ)をリセットする働きが能にはあるから。
「★★『心は自分ではない』★★」にも通ずる、心に囚われず、心の表面的で感情的な部分を希薄化しておくような技能なのだと思います。
来日時に大相撲に懸賞金を出すなど、日本固有の文化に理解を示していたポール、
「今は昔」的な日本的な時制感を思わせるタイトルの「Once upon a long ago」、
ざざざざざぁ♪ザザザザザァ♪ってバックコーラスも
シテとワキの反対方向の時間が互いに寄せては返すようで、どこか地謡的です。
PAUL McCARTNEY - Once Upon A Long Ago - TRADUÇÃO
「能の舞いや振り、に人間に理解できるような意味はない」、というのは目から鱗でした。
能は、人間ではなく神様に捧げる芸能だから、人間に意味が理解できる身振りである必要はないのです。
大相撲の土俵入りの型とか、どういう意味があるのだろうか、と考えることも同様にあまり意味がないのかもしれません。
この曲の映像で見られる巨大岩石の上での演奏も、神に向けられたものであるかのようです。
岩や空や海と共鳴し合いながら、自然の中で執り行われる神事。
意味がないと言えば、歌詞もそう。地謡のように意味のない対象が謡われる。
Picking Up Scales And Broken Chords 音階のスケールと壊れたコードを拾い集める
Puppy Dog Tails In The House Of Lords 上院議員の建物にある仔犬の尻尾たち
Tell Me Darling, What Can It Mean? ダーリン教えて、それに何の意味があるんだい
Making Up Moons In A Minor Key マイナーキーで月を作り上げる
What Have Those Tunes Got To Do With Me? そのチューンが僕に何の関係がある?
Tell Me Darling, Where Have You Been?
意味や筋を追うばかりが正解ではないのです。私の本の読み方に多少通ずる話がありました。
(だから、わたしは小説を読むのが不得手だったのです、こんな風でもいいのです)
何となく、この辺にこんなことが書いてありそうな気がする。
そして、本をぱっと開く。
その時にたまたま目に飛び込んできたフレーズは「ご縁があったフレーズ」なので、それを引用する。
何となく世阿弥も横に多種多様な古今の文献を置いて仕事していたような気がするんです。
でも、その書物を頭から体系的に読んだわけじゃないと思うんです。
おお、これが出典か、ってメモしておいて、それを曲の中に適宜はめ込んでいった。なんだか、そんな気がするんです。
でも、そういう種類の本の読み方ってあるんですよ。
アルベール カミュなんかも多分そうなんですけど、体系的に本を読まないんです。
なんとなく「本に呼ばれる」ということがあると、ぱっと開いてみる。
すると、自分がまさに読みたかった当のフレーズがぴたりと出てくる。
それを素材にして書く。
「あわいの力」にもよく似たハナシが。
夏目漱石は、小説というのは「おみくじを引くように、ぱっと開けて、開いた箇所を漫然と読むのが面白いんです。(草枕)」といいます。
小説は筋なんて読むものじゃない。
一方で、ヨーロッパの物語には、アリストテレス以来の「ミュートス(筋)」を重視する影響が色濃くあります。
日本の物語は筋ではなく、読んでいるいま、開いているいまが大切なんですね。