ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

七七日と神様カエル

2012年04月29日 | ひそひそツイート

神様カエルをアップしました。

 

09:00 from Mobile Web
地図を読めない女、みたいなタイトルの本があったけど、地図は何時間みてても飽きないと妻はのたまう

09:13 from Camera on iOS
富士山を新幹線からみることって、10回乗って1,2回くらいに思うのはぼくだけ?夜だったり、寝てたり、他のことしてたり。 pic.twitter.com/gzVNGlTO

09:14 from Camera on iOS
あ、みえた(^ ^) pic.twitter.com/3McSL9gR

22:20 from Camera on iOS
近頃ハラミを食べても初めて食べたときのような感激がないなと思ってたら、この味だった、カクマク!ハラミと言ってもいろいろあるのだ。 pic.twitter.com/8MqDI3rH

22:25 from Camera on iOS
やや遅れて合流。美味しい『王将』で食べたいと言ってた、まーくんの希望には添わないけど、焼肉もうまかったよーだって(^ ^) pic.twitter.com/ckxIDV4D

22:34 from Camera on iOS
七七日。満中陰の法要を終えて、母と一緒に写真を撮った高台でまた写真を撮ろうと歩きだすとそこに現れた。イナバの白兎ではないが、これは『神様カエル』だと思う。 pic.twitter.com/PDHBh1rx

by lifelongpassion on Twitter

 

 

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リン♪リン♪リン♪

2012年04月21日 | 日記

たまたま買い物待ちの間、文芸春秋を読んでたら、マリリンが亡くなったのが1962年8月5日だったことを知った。
あの写真から僅か3日後、同じアメリカの夏空の下で。

( ↓ )それから2年を経た1964年、ヤァ!ヤァ!ヤァ!のオープニング。
   (YouTubeも進化している。映画は物語である一方で、シーンで観るものでもある。
    MovieClips、なんだか活き活きしていておもしろい。
    いつもより大きくしてみた。
    もっと(もっと)大きくできるが重くなりそうなのでこの辺りで。)


さらに2年後の1966年、ビートルズが日本にやって来た。
(ちなみに私はビートルズが日本を後にした2日後にやって来た。)(・o・)

斉藤和義 / やさしくなりたい 【MUSIC VIDEO Short.】


そして,,1962年の夏空から50年、、

仏壇がやって来ました、リン♪リン♪リン♪ ( チン!チン!チン!、ではない。)

リンの音色のように始まるジョン レノンのStarting overをもう一度持ってこようと思ったのだが、良いのがなかった。

仏壇のショールームで一目惚れのように出会った、樺の木で造られたもの。
「コパ」という、Mr.風水みたいなネーミングも鬼門を守る仏壇としてふさわしい。

カタログ掲載はせず店頭販売のみ、下置きになるタンスと同じ色合いのかっちりした造りが気に入ったので。

エクセレントなひとめぼれチョイスだ。

数珠つなぎの仏壇ブログみたくなってしまいました。ご勘弁を。m(_ _)m

 

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1962年8月 ~ Candle in the wind

2012年04月21日 | 旅と帰省とお出かけと

六七日(むなのか)。

今年のはじめに記事にした帯津良一先生の著書に、なるほどそういうことか、と頷いた言葉がある。

私は人を敬うという場合、その人の何を敬えばいいのだろうと常々考えていました。
人間の本質は"明るく前向き"ではありません。
私たちはまずは自分のなかにあるかなしみを敬う必要があります。
かなしみが本質であり、土台だということをごまかしているから、マイナスの出来事が起こった時にすぐにグラグラしてしまうのです。
次に自分のなかにかなしみがあるのと同じように、他の人もかなしみを持っていることに目を向けてください。

そのかなしみに敬いの気持ちを持つことです。
このひとはどんな旅をしてきて、どんなかなしみを持って旅立とうとしているのか、その「旅情」に心を向けること。それが「敬」ということではないでしょうか。

故ダイアナ妃に捧げられたこの歌にはそのようなものを感じます。

殊更に美化してどうするのだとも思えるが、「旅情」に心を向ける「敬」の気持ちでいたい。

故人が好きだったもの、愛用していたものを棺に入れることをしますが、
年老いてから使っていたものが、必ずしも愛用の品であるとも限らない。
もっと可愛らしい洋服がほんとうは好みだったのに、もう似合わないからと着なかっただけなのかもしれない。
妻がそのようなことをアドバイスしてくれたおかげで、タンスの奥にしまいこまれていた若い時分の着物なども入れることにした。

亡くなる直前の姿も若い頃の姿も、そのひとであることに変わりはない。
人が亡くなってみると、そういうことを思ったりする。
現在進行形の呪縛から自由になったかのように。

スイセンが好きだったくらいだから、自ら望むことはしないと思うが、
For Your honor、1962年8月2日、たしかに世界にあった若い姿を称えたい。
(両親がNYに在住していたこの頃に生まれていれば私は今ごろアメリカ国籍をチョイスしてまた違った暮らしをしていたかもしれない。)
なかなかにモダンな美人だと思う。
 

 満中陰が明けたら、家にある旧いメモビリアをまじえて、もう少しマイナー調でない曲をつけて映像化してとっておこうかなどというアイデアが浮かんだ。
きっと よろこんでくれると思う。

Candle in the Windはもともとはマリリン モンローに向けられたもので、歌詞がところどころ変更されている。
オリジナルはさらに「敬」がリアルに感じられる。

Never knowing who to cling to  when the rain set in
雨嵐が来たときに しがみつく寄す辺もなかったのですね
And I would have liked to have known you But I was just a kid
もっと分かってあげたかったが、私はただの子どもだった。
Your candle burned out long before Your legend ever did
貴方の灯は燃え尽きてしまった 伝説になる前に

( ↓ ) マリリンと並べるのもヘンだが、「敬」において共通する。

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花開いて人笑ふ ~ 口笛作曲家

2012年04月15日 | お気に入り♪(フォト×音楽)

メロディは汲めどもつきぬ泉のように湧いてきて、昨日はとうとうお粗末な念仏ソングまで披露、

この先どこへ向かうのやら。(--〆)

さて、

今年は四月になっても肌寒い日が続き、例年とは違う花景色を楽しまれた方も多いのではないでしょうか。

私も休みの日になると毎週のようにクルマで通る交差点から見える、お気に入りの花木スポットのひとつがありまして、
早春ともなると順繰りに梅やアンズの花、桃に木蓮、そして最期は桜が咲いて一気に春がピークアウトしていくまで一気通貫の花見山のようになるのですが、今年は寒さのせいか夫々の花の期間が長く、桜の頃迄まとめて咲いておりまして実に見事でした。
花見山とは言っても、目の前は国道だし、電線やらクルマやらディスカウントストアやらが視界に入ってくるので、カメラ撮影のビュースポットとしてはまるで適さないのですが、一隅を照らすように春が灯っている、思わずにんまりしてしまう風景なのです。

 花開いて人笑ふ。

タケノコを刺身や、春わかめとの煮物でいただき、これまた旬の生海苔を味噌汁に入れて、食卓まで春爛漫。

というわけで、今宵は食後に日本茶でも飲みながら、春っていいなぁと笑っている、
そんな光景が浮かんでくるような書を見つけたので、汲めどもつきずというかじょろじょろ零れてくるメロディをつけてみました。

沙於里さんの書のイメージをふざけた鼻唄で壊さないように、口笛に替えて、大きな古時計のセンでいってみましたのですが、、m(_ _)m。← だめだしOKですので。

 花開いて人笑ふ

 

 

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そろそろ晴れてきたか ~ 正信偈♪

2012年04月15日 | お気に入り♪(フォト×音楽)

五七日(いつなのか)。

そろそろ晴れてきたか。

Squidは英語でイカのこと。知らなかった…。

(音はこちらのほうがいいのだが、もういいかい?的な感じがあるほうをクリップした。)

Paul McCartney - Squid

ハリー ベラフォンテが好きだったのだが、かわりに真宗のおつとめをしてみた。

親鸞聖人の「正信偈(しょうしんげ)」と念仏を称え、「和讃(わさん)」を六首読むのが、おつとめなのだが、
割愛したうえ、自分で旋律をつけて、唱えてみた。m(_ _)m 

ばちは当たらないと思う。
念仏とは本来声に出して愉しむように造られたものだから。

正信念仏偈より

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「あわい」でどう振る舞うかということ ~ However absurd♪

2012年04月08日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

本ブログも4年目に入ったので、タイトルを思いつきで変えてみた。

アニカ ソレンスタムの言葉をもじった副題(Face the Strength !!)のダサいところが気に入っていたのだが、長くなるのではずしたら、ふざけた名前だけが残った。(--〆)

このブログを書くようになって、その物言いに惹かれ、影響を受けたのが内田 樹(うちだ たつる)先生。
もっともポピュラーな著書である「日本辺境論」のなかで述べられていたが、
「ぼく」という物言いでは連れてゆけない場所があるのだという。
「私」という、より強い言葉を使わないと、上がれないステージがあると。 

実用的で直接的に役立つことは無いかもしれないが、
人工的な日常の延長線上ではないセカイを持つように心がけるべきだと思う。そのほうが面白いから。

平野 啓一郎氏と菅野昭正(かんの あきまさ)氏との対談を引用しておきます。
(菅野氏は1930年生まれ、片や平野氏は1975年生まれ、
 親子以上の歳の差があるのだが、そこで交わされる対談は実に深いところでまじわっているようで面白い。
  日常生活が人工的なシステムのうえに成り立っていることは分かっていても、意外に気がつかず、それがすべてだと思いがちだ。)

日常生活を、そのまま写し取ったようなものには興味が持てません。
日常というものを生きていて僕がつくづく感じるのは、一見非常に心地よく造られてはいるけれど、それが極めて人工的なものであるということで、人間は絶えずそこから解放される瞬間を欲しているのではないでしょうか。
しかし、そのような瞬間の体験というのは、決して持続し続けるわけではないということです。
人間は、飢え死にしないためには、好むと好まざるにかかわらず現実に戻ってこなくてはならない。

そうなのだ、飢え死にしないことだけが目的ではないはずだ。
現実に戻りつつ、心的現実を大切にしながら、
反対の方向を持った二つが、同時に依存しあい、二重螺旋(らせん)のような構造となって精神を発達させていく。
心的現実性こそが重要である
螺旋の旅路 ~自分を求め 自分を手放す ~ Let it be♪

ディアローグ
平野 啓一郎
講談社

内田先生の書く文体に憧れる。
一見シリアスで退屈に思えるテーマであっても、本質的な部分を鮮やかに切り取って、おもしろく劇化して表現できる。
喪に服していると、ある面、人工的な現代の社会システムから切り離されてしまっている場所に身を置かざるをえないようなところがある。
「死とはなにか」、なんて日常会話ではまず出てこないフレーズだが、そのあたりの知見の薄っぺらなこと甚だしいのを身につまされる。
" 教育の甲斐あって"、私たちは世間を泳いでゆく技を身につけるのだが、そこで止まってしまっているのではないか。 

教育の甲斐あって、私たちはみんな死を怖れるようになる。
でも、成熟のある段階に来たら、死とのかかわり方を「元」に戻さないといけない。
「元」というのは、死者はすぐそばにいる、という感覚を取り戻すことだ。
別にオカルトの話をしているのではない。これが本来人類の「常識」なのだ。
ただ、その常識を段階的に教える教育制度がもう存在しなくなってしまったというだけのことである。
武道と文学と哲学はそのための回路なのだけれど、
「そういうふうに」武道の稽古をしたり哲学書を訳したり小説を読んだりしている人は、もうあまりいない。
「死ぬ」ということが、「隣の家に行く」ような感じになること、それが武道においてはとても大切なことだ。
それは武道の稽古をして胆力を練ったから死をも恐れぬ精神に鍛え上がったということではない。
(そんなことは残念ながら起こらない)。
話は逆で、「生死のあわい」におけるふるまい方について集中的に探究する人間は、自分がどのくらいその振る舞い方」に習熟したのかを武道を通じてチェックすることができる、ということなのだ。

社会学者の書いたものがあまり面白くないのは、あの人たちは、「生きている人間」の世界にしか興味がないからである。
霊能者の書いたものがあまり面白くないのは、あの人たちは平気で「あっち側」のことを実体めかして語るからだ。

「こっち側」と「あっち側」の「あわい」でどう振る舞うかということを正しく主題化する人はほんとうに少ない。
(内田 樹)

こういうテーマがあることを明確に教えてくれる人はいないものだ。

内田先生は、村上春樹と司馬遼太郎を引き合いに出して、
生死の「あわい」だけでなく、広い意味での「あわい」について、上手く説明してくださる。

そこに踏み込もうとすると、「何かベタっとして気持ち悪いもの」に触ってしまうのである。困った。
この世界の人々の困惑を解決したのが村上春樹である。
彼ら(村上春樹と司馬遼太郎)は、私たちの社会の深層に伏流している、邪悪で不健康なマグマのようなものについて意識的である点で共通している。
これを根絶することは不可能である。
集団が成立する程度に熱狂的であり、暴力的・排他的に機能することを自制できる程度には謙抑的である「許容範囲」にこれをコントロールするのが、さしあたり大人の仕事である。
そのためにはこの「どろどろして不健康で暗いもの」の生態と統御についての技術的知が必要である。
でも、そういうことを考えている人はあまり多くない(というか、たいへん少ない)。

もういちど 村上春樹にご用心
内田 樹

アルテスパブリッシング

ミイラ取りがミイラにならぬよう前方に注意しながら、あわいを掬いとってゆくことが豊潤さにつながるのだ。
「詩人」という生き方 ~ Junk ♪」)

4年目になるが書き続けよう、どんなに馬鹿げているように見えても。

However Absurd

 

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王貞治 「努力とは」

2012年04月07日 | 旅と帰省とお出かけと

四七日(しなのか)。

四番、ファースト、王。

長嶋さんが大好きになったのは後のことで、少年時代のヒーローは王さんだった。

実家の片づけをしていたら、王さんのサインボールが出てきた。
ホームラン世界記録を達成した当時のサインボール、マジックの文字も消えかかっている。
文字が読み取れるうちに、メモビリアとして残しておかなくては。

たしかポンキッキだったと思う。朝、この歌を聞いてから学校に行ってた記憶がある。

ビッグワン、ビッグワン、ビッグワン 王、いくぞー
一本足でかまえたら 狙いはそこだ、ホームラン
とんでゆけ、とんでゆけ、輝く明日へとんでゆけ

あぁ、思い出すだけで胸が高まるわ
坂上 忍さんが歌っていたようだが、ニコニコ動画にもYouTubeにも残念ながら見つからない。

( ↓ ) こっちはあった。

 "Southpaw"

「努力」。
王さんがサインをする時によく添えていた言葉だ。
努力や根性、スポコン物は時代の匂いがするが憧れだった。

しかし、いつしか「努力」を表に出すことはカッコ悪いとするような風潮が生まれ、
「余裕」や、ややもすると「手抜き」がチャーミングでカッコいいような感じになってきた。

原点に帰ろう。
このような努力する意志を感じる手をしていた頃の自分に。

 

努力家とか天才肌とか、目くそ、鼻くそのセカイ、どっちでもいいことだ。
実にみみっちい二元論だと思う。
いずれにせよ、努力することの大切さに変わりはない。 

王貞治 「努力とは」

 ちょうど、あの頃の自分のような手をしている甥っ子に入学祝の時計を贈った。

私もこのような贈り物を受けた。
おかげで光 源氏のように華麗で、武者のように立派な男(おのこ)になったのである。(--〆)

捨てるにわけにもいかないなぁ、といじっていると、源氏殿のクビがとれた。

 

人形修理専門店だって。(岩槻の享福。まだ明るいのに閉店していた。) 
横には神社まである。修理に出すと高いかもしれないので、お祈りだけは済ませておいた。

世界はいろいろな想いを経験してきているのだ。目に見えなくとも音に残っている。

タケカワユキヒデ「MaMa」

 

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見るもの聴くもの ~ サイツ&サウンズ♪

2012年04月01日 | 日記

春の嵐が洗い去っていった翌朝、
月も変わって四月一日は昨日の天気がうそのような日だまりの春。

IKEAにメモビリアを収納する家具を見に。

( ↓ ) これがウワサのIKEAモーニング。会員になると500円で朝食ビュッフェを愉しめる。
     しかし、行列にならぶことを覚悟しないといけない。
    この盛り付け、カロリー高そうですが、かわいいほうなのです。
    皿にパンケーキやパンを積み上げてたり、ひと皿がフライドポテトでいっぱいだったり、
    牛でもいますのか?みたいな、アメリカンな人たちがたくさんいた。(IKEAはスウェーデンですが。)

 

幹事も譲らせてもらい、しばらくご無沙汰しているゴルフだが、隠れ家の芝は取り替えておいた。

サンデー・モーニングに似つかわしいのがゴダイゴ。

In your eyesをYouTubeにアップしたら削除されてしまった。
なので他のゴダイゴの曲は、削除されないよう非公開にしています。
少年のような心を呼び起こすことのできる不思議なパワーを持った大切な曲だから。
(そのうちワン・ナイト・オンリーの御開帳とかやってみてもよいかな、と思っています。)

時の落し子 再び
はい、私は、ありがとう。

YouTubeにはない良い曲も沢山あるので、自分でまた動画をアップしてみたいのだが、削除されても困る。

( ↓ ) ニコニコ動画にアップされていたサイツ&サウンズ♪
    過剰な音がない間奏もみずみずしくて、印象派の絵画のように光と影を描き出す。

    No End、終わりなんかないのだ。 

【訳してみた】SIGHTS AND SOUNDS/サイツ&サウンズ【ゴダイゴ】

にわか勉強の結果、宗派がいろいろある仏教だが、
日本の仏教の歴史は、皆、仏・釈尊の教えを明らかにしようとする試みの連続だったのではないかと思える。

ゴダイゴはガンダーラに象徴されるように、インドや仏教文化へのアプローチも数多い。
それぞれにアプローチして、仏とは何かを考えていくのが、これからも仏教の在り方になるのではないでしょうか。

歌に少年時代とは違った意味が与えられることもある。

新しいこの星が今生まれてぼくらの胸 清く照らしてるよ 闇を照らしているよ

愛を失くした者にも輝くよこの星が
今流れる涙はもう虹に煌き出すよ
もう迷わず君の道をひとり歩いてゆける♪

清く香るだけではない、道を照らしている。

ホーリー&ブライト    ゴダイゴ

木蓮も眩しく見えた。

 

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千日回峯行と親鸞

2012年04月01日 | 読書ノート

現代において、なおもこのような修行が存在していることに驚く。 
生き葬式を済ませてから臨むほどの覚悟を伴う修行。

百寺巡礼 五木寛之 比叡山 延暦寺 千日回峯行

これを見たら、現代人であっても、
修行はいらぬ、ただ南無阿弥陀仏を念ずれば弥陀の本願によって救い摂られる、と教えることがいかに困難であったかを感じるだろう。
難行苦行に挑む意志と勇気、それをやってのけたという事実には、有無を言わせぬものがある。
人の意志の力を思い知ると同時に、
畏敬の念を持つことが、かえって束縛感や閉塞感を生む場合があることにも気がつく。
親鸞の生きた当時、平安末期~鎌倉時代は、なおのこと今とは比べものにならない濃密な空気感があったはずだ。

母がよく言っていた言葉がある。
" 子どもには上手に負けてあげるのよ "
自由と意志を持つための真理だと思う。m(_ _)m

五木寛之氏の「親鸞」、小説であるがゆえ、史実にはない登場人物が出てきたりもするようだが、範宴(はんねん、叡山修行時の親鸞の名前)の居た時空のなかに身を置いているかのように読める。
ちょうど、当時、範宴の周りの人たちが、聖徳太子のことを、
"歴史上の人物を語る感じではなく、あたかも懐かしい祖父や祖母を語るように、懐かしく、慕わしく感じていた"ように。
聖徳太子もまた、高い身分を持ちながら、「世間虚仮(せけんこけ)」と、ため息のような言葉を残した、かなしい人だった。

"音もなく落ちる椿の花のように範宴に体を預けてきた"當麻御前(たいまごぜん)の悲しい最期、亡骸はむかし河原坊(かわらぼう)がやってたように川に運ばれてそのまま流される。
おさえきれない嗚咽や、あとからあとからあふれてくる熱いもの。

歴史を歴史としてしかとらえられないようでは、意味がないのだ。

必要以上にドラマに仕立てることはないが、そこに体温のようなものを感じることができるかどうか、
それは歴史や芸術、数学や物理の世界にいたるまで同じことだと思う。

親鸞 (上)
五木 寛之

講談社

親鸞 (下) (五木寛之「親鸞」)
五木 寛之
講談社

 

図解雑学 親鸞 (図解雑学シリーズ)
仙波 芳一
ナツメ社

親鸞―不知火よりのことづて (平凡社ライブラリー)
吉本 隆明,石牟礼 道子,桶谷 秀昭
平凡社
わが家の仏教 浄土真宗
池田 勇諦
四季社

~ 身分の高い人びとが尊ぶのが和歌。今様(いまよう)はそれとちがって、卑しきわれらの好む巷の流行り歌だ。
   世態人情、男女(せたいにんじょう、おのこおみな)の妖しき思いを歌うのが今様の本領じゃ。
   しかし、なかにはみ仏の深い心を讃嘆する歌もある。

洋の東西を問わない仏性のようなもの。
この組合せはどうよと思ったが、なんだか通ずるものがあった。
宗教もまた、遠ざけるべきものではないと思う。
アプローチは多彩であってもよい。
For You And I- 10cc

 

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