左足親指の爪囲炎に悩まされています。
しばらくぶりで、先日は杖を持参。100球肩じゃないけど、家や会社と最寄駅の往復以上の移動が続くと、次第に負荷がかかって爪が剥がれるような痛みを伴います。
痛い片足をかばった歩き方をすると、今度は腰を痛めたりして、「歩き」というのは実に精妙なバランスのうえに成り立っていることが分かる。
歩き方を変えるためには、実は全身の使い方をぜんぶ変えなくちゃいけないんです。
極端に言えば、生き方まで変えなくちゃいけない。
人間の不幸は直立したことにあるという説がありますね。
(人間が四足歩行のままであれば、いろいろな病気にかからずに済んだ。
腰痛だって、肩こりだって、痔疾だって、心臓疾患から痛風まで、だいたい人間のかかる病気の多くは直立歩行のせいだと言うのです。)
四つん這いで歩く赤ちゃんは、ほとんど完成された動きをする。
(赤ちゃんが四つ足で歩く時、足裏はすごく活発に動いているんだそうです。
四足歩行の時には手も足も自由自在に動くのに、直立歩行になるとちゃんと機能しない。)
でも、人間は必ず直立歩行を始めるんですね。無理なのに。
身体が「そんなの無理だよ」と悲鳴を上げているのに、赤ちゃんは何としても立とうとする。
「直立したい」というのは、身体的な必要じゃなくて、多分、極めて人間的な欲求なんです。
これ、不思議だと思うんですよね。
なぜ人間は本能的に完成形を知っている四足歩行を捨てて、あえてやり方の分からない直立歩行を選択するのか。
なぜ、わざわざ、ふらふらしながら、不自然な身体運用をすることを泣くほど欲望するのか。
人間は誰でもうまく歩けると思ってるが、実は「人間はうまく歩けない」。
そして、直立歩行というのは本質的に、ふらふらとバランスが悪くて、そもそもが身体に悪いもんだから、
この歩き方が正しい、という「定型がない」。
中国人と韓国人と日本人と、顔の区別はつかなくても、「日本人はこういう歩き方はしないよな」というのがあるじゃないですか。
能楽のすり足にしても、自分で決めたリズムですたすた歩くというわけじゃない。
シテ方が動きの主体で、歩みを完全にコントロールしているという気分でやると、動きがごつごつして見苦しい。
そういう、秩序に身を任せる動き、歩行法、というのは、主体や自我を重視するヨーロッパではまず成立しないのではないか。
「歩く」という、一番基本形の動きだと思っていることに、実は決まった型がない。
むしろ、逆に、努力によって、歩き方のバリエーションを増やしたりできるという工夫の余地が残された、ある意味「人間的な」領域。
『あえて、本来的に不得手な「変なこと」をしようとしているから、「うまく歩く」ためには、あらん限りの身体資源を動員しなければならない。』
~ 横道に逸れますが、これって名言だと思います、
よく、自分は、あえて不得手な方をいつも選んでるような気がする、と感じるのですが、それは決して損ばかりではないと諭してくれます。
不得手な、変なことをしようとするから、あらん限りの身体資源を総動員できる。
「歩く」ことが、これほどに、工夫のしがいのある伸びしろのある領域だったかということに驚いて、ついつい引用が長くなりました。
( ↓ ) 以前から興味深く拝見しておりました甲野善紀先生の身体運用。
昔の日本人は走れなかった、って、そんな風なことは考えたこともあまりなかったです、少しオドロキました。
体育なんてなかった時代には、走る必要はなかったし、走るというのは非常時の所作だった。
歩くこともそうだが、走ることについても、効果的なトレーニング法についての検証はまだこれからである、
歩いたり走ったり、という基本動作について、人間は実はよく分かっていない、ということのオドロキ。
ナンバ歩き-甲野善紀-
これまでも、日本の古武術や合気道などの身体運用に興味を持っていましたが、
いよいよ、準備段階や興味の段階を経て、実践する段階に来ているのかもしれません。
爪先が治って、稽古に出れる程度に回復したら、和の身体動作について、
合気道教室などの場を借りて学ぶ機会を持ってみるかな、というようなことも考え始めました。
~ 「筋肉」から「骨」へと視点をシフトすること。そこにこれまでの壁を突き破るヒントがあると確信します。
部分的な筋肉トレーニングやストレッチはかえって、他の部位の硬化やケガを招く。
ストレッチや筋トレを熱心に続けるほど、体の柔軟性が失われ、痛みや怪我の原因になる、という逆説。
ランニング前のウォームアップひとつをとっても、しばしば全体の動きを重くして、パフォーマンスを悪化させているとの指摘に唖然。
根強い「筋肉信仰」や、筋肉アスリートへの憧ればかりが先行するが、
実はこれまでの筋トレやストレッチ法は、十分に科学的に深く検証が行われたものではない。常識化されているが、そうかもしれない。
~ 手足の筋力に頼った動きから抜け出した先の世界こそが、真骨頂なのです。
「何かを身につけないと強くなれない」という発想自体を疑い、固定観念から離れ、それを捨てていく勇気を持つこと。
目いっぱいの、限界的な極限値の領域ではなく、
″ 「ちょっと違う、もうちょっと違う」、「あぁ、そこそこ。」 "っていう」、微妙なほうのギリギリの領域を追い求めるのですね。
達成感を得ることで喜んでいるのは脳だけ、
脳が生み出す満足感は麻薬のようなもので、もっと頑張れ、もっと頑張れとけしかけてきますが、体は悲鳴を上げていることも多いのです。
さて、
頭の都合でなく、体の声を聴くための「骨ストレッチ」、具体的にどうすればよいのか、というと、これがすごくシンプルな基本動作を加えるだけ。
~ 「親指と小指で骨の節々を押さえる」という簡単な動作を加えることで、関節が連動し、柔軟で楽な身体運用が可能になる。
基本のポーズはこれだけなのです。 ~ 詳しくは ⇒ (「骨ストレッチ」~「動ける体」を手に入れる「コツ」を伝授!)
1、片方の手の親指と小指をつないで輪を作る
2、もう片方の手の親指と小指で、輪を作った側の手首のグリグリを押さえる
足のくるぶしを触るときも同様に、親指と小指で押してやると、これまでの前屈やハムストリングスのストレッチが「骨ストレッチ」に変わる。
骨ストレッチとは、「刺激を与える部分を孤立させず全体へとつなげる」メソッド。
これまでの筋トレやストレッチのように、「体のある部分だけを孤立させて、ほぐしたり鍛える」のではなく、
骨から骨への連動による全体性を重視する。
背骨を一本の軸として、上半身の肩甲骨、鎖骨、胸骨、肋骨、
下半身の骨盤 ― 仙骨、尾骨 ― といった重要な骨が配置され、
これら一つひとつの骨が孤立しているわけではなく、連動して可動域が広がって体が動いていることに思いを致す。
腹筋の6パックもすごいが、肩甲骨を自在にグリグリ動かせたら、こっちの方がすごいし、本当の身体能力の高さを示しているように思います。
骨ストレッチの基本は、「親指と小指で骨の節々を押さえる」ということなのですが、
著者が、手首や足くるぶしと共に、刺激を与えるポイントとしているのが「鎖骨」。
親指と小指で鎖骨を上下に挟むように押さえて、ストレッチすることで、骨への刺激の連動経路がスムーズに開くようなのですが、
部分への刺激を、それで終わらせずに、全身への連動につなげることで、可動域が広がり、勁(けい)のエネルギーも増幅されるということなのだと思います。
(必殺 アックス・ボンバー ~ 「勁(けい)」のエネルギーの体現者たち)
骨ストレッチ(鎖骨メソッド)by甲野善紀先生1
甲野先生が、甲冑は重いだけではなく、うまく着るとパフォーマンスがあがることについて述べられているのが、興味深い。
(下の市川海老蔵さんの対談でも、歌舞伎の衣装も、(手という部分の筋肉で持つと)重いが、着るとそうでもない、ということについて語られる。)
これは単なる負荷分散の話ではない、
昔の日本では、「体」でなく「體(からだ)」という文字が使われていたといいます。
骨を豊かに使うことがポイントで、甲冑で締め上げた刺激を全身に連動させる「體」使いが肝心なのだ。
和の身体作法は、実に奥が深いし、日常に取り入れて工夫ができるから、面白い。
これまでもいろいろ書いたりしてきましたが、
(能をやっていて一番よかったと思えるのは、自分の成果を気にしなくてよくなったということ)
(ゴルフでもいいんです ~ 自然力のおろし方)
(自然体の作り方)
(<能ゴルフ ~ 腰椎4番>)
毎朝の腰割習慣(夜明けのスクワット~ 腰割りトレーニングの習慣 ~)にも取り入れている「倍音声明」(キラキラ光る倍音とは)と、
この「骨ストレッチ」は相性がよい。
自分の声の振動をガイドラインのようにしたら、倍音声明がクリアに聞こえてくるように、
魑魅魍魎とした感覚を掴むためには、具体的なガイドラインを持つことが大事なのです。
鎖骨を意識する、
鎖骨を意識するために、親指と小指で鎖骨を触ってやる、
そして、倍音声明で発した母音の声を、鎖骨に響かせる。
骨が連動して、全身のガイドラインとなって、鎖骨にとどまらない、全身の共鳴を引き出す。
倍音声明の具体的技法としても「骨ストレッチ」は有効だと思う。
市川海老蔵 × 甲野善紀
骨ストレッチ自体はシンプルなのですが、長々となりました。
自分の習い覚えたこと、魑魅魍魎とした感覚の世界をなんとか言語化して技法化できないものかというテーマ。
(大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。)
「ことの理路」が、この歳(50歳過ぎ)になって、だんだんと分かってきた。
大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。
哲学も舞楽も武道も、その帰するところはおそらく一つである。
こういうことは誰の本にも書いてない。だから、自分の身体が習い覚えたことを、自分の言葉で語ってゆくほかないのである。
筋肉という、加齢と共に衰えざるを得ないものに、いつまで重きを置いているのか。
それに筋肉というのは、フローに近いもので、鍛え続けないと、筋トレを続けないと、出力が落ちてしまう。
一方で、たしかに、骨は死んでも残る。
部分的な筋力に頼らない、「骨」を鍛え、ストックしていく、そういう體(からだ)を目指しましょう。