神が宿る風景、このビデオとそこに添えられたメッセージに倍音を感じた。(アデルの倍音)
自分ひとりではなかなか見つけられない、鉱脈にがつんとあたったような感動。
~ 僕は、祖母の手を握って笑う赤ん坊の無邪気な笑顔を神と信じる。遠くでベンチにうつむいて座ってる人の風景を神と信じる。コーヒーカップ片手に信号が青になるのを待ってる人の何気ないしぐさを神と信じる。路地に咲く花が揺れる瞬間を神と信じる。猫の目の瞬きを神と信じる。道路に舞う茶色の木の葉を神と信じる。さりげなくめまぐるしい雲を神と信じる。月や海や夕暮れのような自然を神と信じる。人々の、さりげない笑顔を神と信じる。
自然な光景、それは二度と、永久に同じようには繰り返されない奇跡で、そのどれもが目を覆うような輝きに満ち溢れてる。そして僕は、そこに神がいると心から信じてる。
Nujabes -Luv (Sic) pt.3 feat Shing02-(MV)
人間はかなしみが本質であり、土台。
自分のなかにかなしみがあるのと同様に、他の人もかなしみを持っていることに目を向けてください。
そのかなしみに敬いの気持ちを持つことです。
それが人を敬うということではないでしょうか。
人を敬う、ということの明快な答えが示されているように感じた。(攻めの養生 ~ 声に出して身心を調える)
この映像とメッセージ、生物学者の本川達夫先生にも重なるものがある。
生物学的文明論 (新潮新書) | |
本川 達雄 | |
新潮社 |
「かけがえのないものに価値を置く発想を取り戻すために、私の範囲をとらえ直しませんか。」
生物学的に言えば、子供は私であり、孫は私。
私、私、私、と私を伝えていくのが生物であるはず。
(生殖活動によって生物は続くようにできているのだから、この利己遺伝子の欲求から逃れることはできないのだが、私一人の私、という利己主義だけが本来の生物の生態ではない。)
科学が数式を使った客観性を重視して、質ではなく量で物事を測定するようになり、
貨幣経済は、質の違いを値札という量に置き換えて、物事を評価するようになった。
(この考え方に現代人はすっかり飼いならされてしまっている。)
より速く、より便利にという社会の要請に応えて発達したのがクルマやコンピューターといった文明の利器であり、エネルギーを使って時間を速めることで便利さが増してゆく。
質(かけがえのない多様性)を量に置き換える、便利な考え方が行きすぎてしまっているのではないか、
本来、人類を幸福にするためのものであった技術の目指すべき方向が、このままでよいのかを考えるべき時期に来ているのではないか、という生物学者からの提言。
地球温暖化も資源エネルギーの枯渇も、元々は石油をどんどん燃やして、時間を速めているのが原因。
人間の身体の時間はどの生物も15億回で心臓が止まるようにできていて変わらないのに、社会生活の時間ばかりが桁違いに大きくなっていき、そのギャップが現代人にとって大きなストレスになっていると指摘する。
時間を環境問題としてとらえる、なるほどそういう見方もできるのかと思いました。
利己遺伝子の欲求を抑えることはできなくとも、
自分の身体が占める空間(環境)と、自分の身体の一生という時間、
それ以外は私ではないと捉えるのではなく、もっと私の見方を変えて、もう少し広く私をとらえること。
私をとりまく物や人といった環境は、私という生物にとってかけがえのないものであり、私の一部。
そして、自分という個体の命だけが私ではなく、次世代へと受け継がれ継続していく命もまた私の一部。
生物にはそのような回って続く時間があることを、現代人は見落としてしまい、
万物共通の絶対時間に、ただただ押し流されていくしかないという感覚が私たちの生きる上での重荷になっている、と言います。
そもそも仏教的な廻る時間という概念ではなく、一方向に真っすぐ流れるニュートン力学的な絶対時間というのは、
神がこの世を創った時から世の終末まで、絶対的な神の時間が流れるという信仰の産物であり、古典物理学は世俗化したキリスト教とも言える一面を持っている、と。
時間とは実に興味深いテーマだ。