長男お薦めの世界観を確り堪能してみようと思った。
新海 誠監督は若者に向けたメッセージをこの作品に乗せたそうだ。
震災や異常気象、何かが起きるかもしれない、不確かな時代を察知する感覚は、
世代によって明らかに違うと思う。
我々人間というのは、常に可能性の一歩手前で生きている。
何か起きるかもしれない、その前日の今を生きている。
何か起きるかもしれないということを、ポジティブに捉えてほしいんだ。
映画の設定では、2016年の立花瀧と、三年前の2013年の宮水三葉が入れ替わる。
(私の世代なら、大林宣彦監督の「転校生」や「さびしんぼう」、「時をかける少女」を連想させる設定だ。)
身体や空間だけでなく、時間軸の方も三年ずれて入れ替わってしまったところが、物語を面白くする。
( ↓ ) 「世界線」 で整理すると分かりやすい。(引用元:「君の名は。」ネタバレ!時系列で解説!)
黒線(三葉の運命が変わる前の、死んだ時の時間軸)が世界線として便宜的に書かれているが、
これは事後的には現実ではなくなってしまった時間軸、すなわち虚数の時間軸として整理すればよいのだろうか。
「世界線」や「時空」については、かつてブログを始めた頃にも記事にした。
(映画を教えてもらったのとは逆に、複素解析を理解する助けになるのではと思って長男に本を渡していたのだが、どうも読んでいないっぽい。)
( ↓ ) そもそも、光の世界線を無視して、時空を、時間と空間の二つの要素で分かりやすく書き表そうとすることに無理があるのではないか。
時間を実数とすると、今度は空間が虚数になってしまう。
右図は、時間と空間以外の要素を「私の世界線」に固定して書き表したものだと言っていいと思うのだが、
この場合には、光の世界線を境界にして、現実世界にはあり得ない非因果的領域(光速を超えた領域)ができてしまう。
これは、この図自体に、実数と虚数が混じってしまっていることを表しているように思える。
~
ここで重要なことは、このような時間の食い違いは、決して見かけ上のものではないということ。
ある人にとっての過去が、別の人にとっては未来であるなどということはありえない、と思う人は、
未だ絶対時間という亡霊に取り憑かれているのである。
そして、三年前に彗星の墜ちた糸守町で命を落としたはずの三葉は、運命を書き換える。
2013-2016と時を同じくしているそのような奇跡には、
ちゃんと対峙しておかなくてはいけないような気がして、
検査通院の後、湘南新宿ライン経由で、映画のモデルになった場所(いわゆる聖地)に向かうことにした。
キービジュアルとしてポスターにもなっている、四ッ谷にある須賀神社の階段。
(たぶん考え過ぎだが、2013年の初夏、三葉と同じように、私もまた、あり得たかもしれない別の世界線への分岐点にいた。)
そして、2016年、世界線(運命)を書き換えた三葉は、瀧とこの神社の階段ですれ違う。
彗星が糸守町に落ちる前のカタワレ時(黄昏時)に実現した、三葉と瀧の時空を超えた奇跡の出会いは、夜の訪れとともに一瞬で終わり、
その後の東京では、かつての時空でカタワレであったひとの大切な「名前」すら忘れたまま、すれ違おうとしている。
たそがれ(黄昏)の語源になったとも言われる小野小町の万葉句も、物語上のモチーフになる。
~ 誰そ彼(たそかれ)と われをな問ひそ 九月(ながつき)の 露に濡れつつ 君待つわれそ
” お前は誰だ?”... 形を変えて繰り返されるモチーフが、
”君の名は?” の変形であったことにようやく気づく。
RADWIMPSの前前前世が強力で誰もそんなことを言わないが、ビートルズのI Willもピッタリだと思った。
For if I ever saw you, I didn't catch your name. って、
忘れっぽい男の歌だというわけではない、人の記憶はどこに宿るのかという話。
須賀神社には三十六歌仙絵が奉納されていましたが、
三十六歌仙にあった小野小町の歌は、こちらでした。
~花の色は うつりにけりな いたづらにわが身よにふる ながめせしまに
おみやげ。
電車一本でつながっているから、ささっと間隙をついて、行ってみようという気になった。
四ツ谷駅の赤坂方面改札側から 九月のたそがれ散歩、いわゆる聖地巡礼。
”君もいつかちゃんと、幸せになりなさい”