ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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ショートゲーム革命へ(2ウェッジ体制コンプリート)

2015年07月26日 | ゴルフィーライフ

ショートゲームを戦う態勢が整いました。

A) エースパターとの出会い、
(アダムがイヴを見つける時 ~ ダウンブローのパター)

そして、

B) 万能アプローチを可能にする救世主「KSウェッジ」56度が現れ、
([2015年7月] ショートゲーム革命間近。)

極上の感触を得て一気にCへと、ショートゲームをCompleteする。

C) 100ヤードを狙い撃ち、「KSウェッジ」50度の投入です。

角が落とされて丸みを帯びたリーディングエッジ部分は、
平頭エッジといって鍛造で肉を盛っているらしい。

 

エッジがもぐり過ぎることを防ぎ、跳ね返って抜けを良くするのがバウンスの役割なら、
このゼロバウンスウェッジでは、バウンスの代わりに
角が落とされた独特のリーディングエッジと高さのあるソール(楕円状に長く丸くラウンドしている)が
エッジの挙動とインパクトを安定させる。
バウンスのように跳ね返ることもないから、飛距離も安定する。

( ↓ ) アプローチがオーバーして奥に行くのが悩みの私に、
    ローバウンスどころかゼロバウンスのウェッジはピッタリ。ロフトが立って飛びすぎてしまうことがない。   

  

100ヤードをオートマティックに狙い撃つことができれば、スコアメイクに直結する。
長い距離のショットが得意でも、アドバンテージにはなれど決定打にはならない。
他方、100ヤード前後からの距離が得意か否かはそのままスコアに直結し、勝負を決める一打になる。

今のコブラTrusty Rustyウェッジも悪くないのだが、ピンをデッドに狙うまでの自信や腕もない。茫洋とした狙いの中で打っている。
56度がとてもシックリきたので、100ヤード専用ウェッジもKSウェッジで揃えたくなった。
KSウェッジの安定したインパクトなら、本当にピンデッドが狙えそうだから。

( ↓ ) なるべくショートゲームはシンプルにしたいから、二本体制がいい。
   膝から膝、腰から腰、肩から肩、の振り幅で56度を打ち分け、
   100ヤード前後は50度で狙い撃ちしよう。

     

ウェッジはロフトが58度以上になると、ボールがフェースの上を滑って、
縦の距離をロスするので、飛距離の計算が立ちづらくなる。
だから、ミスが出にくく、アプローチ全般に使える万能な56度をチョイスしたのです。

PWが46度なので、ウェッジは6度間隔の50度―56度にして、確り距離の階段を作ろうと思ったが、
KSウェッジの最新モデルには50度がラインナップにない。。

100ヤードを加減して48度で打つことも考えたが、48度―56度という8度間隔は少々広すぎる。
かといって、48度―52度―56度という4度刻みの三本体制は、面倒だし、無駄だし、アプローチを複雑にする。。

  困った困った、と旧モデルのスペックを眺めていたら、50度があるぢゃないか! 

新)

旧)

 

新旧の違ったモデルの組合せが、かえってウェッジ間の個性を際立たせることになっていいかもしれない。
50度を2010年版モデル(KSウェッジ ゼロバウンス)、
56度を2015年版モデル(KSウェッジ ゼロバウンスWF)とすると、
56度の方は若干フェース面やソールが大きくなり、キャビティ状のポケットがついて、見た目も番手なりの違いがあって面白い。

アイアンは4度刻みで3番アイアンからPWまで10ヤード刻みの距離の階段を作れている。

もう10年前のモデルになるのですが、変える気はまったくありません。
ウェッジとロフト角がつながるように、スペックを確認していたら、いまだ”現代でもイケてる名器”と紹介されていて安心した。
キャロウェイが初めて発売した軟鉄鍛造のツアーモデル。

 

最近の飛ぶアイアン流行りで、同じキャロウェイの同じ番手でも1番手くらいはストロング・ロフト化している。
同じ7番アイアンでも、最近のアイアンは物によっては29~30度、X-Tourの34度との差は4度以上、1番手以上も違う。
飛ぶはずだ。
メーカーによっては、さらにストロング・ロフト化が進んでいるから、
もはや、ひとが何番で打ったかはあまり参考にならない。

PWも今や46度ではなく、44度あたりが主流のよう。

KSウェッジの最新モデルが48度からのラインアップになる理由はこんなところにあった。
PWのロフト角が46度でなく44度が主流になってくると、その下のAWは48度からでないとロフト角の間隔が揃わないのだ。
迷惑な話だと思います。
分かりやすくするために刻印された番手表示なのに、
飛距離を求めるゴルファーの飽くなき欲望によって歪められている。

 

”スコアカードから7や8を撲滅できないのはなぜ?”

”自己流でもよいショットを打てる能力は身につくのに、それを続けるコツに気づかない人がとても多い”

 はっ

”努力する方向がズレているからだと思います。スイングの上達法をどこかで見つけてきて、それだけでうまくなろうとしてきた。ボクはそうでした。”

さぁ、ショートゲーム革命へ。



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[2015年7月] ショートゲーム革命間近。

2015年07月20日 | ゴルフィーライフ<気づきとアイデア>

ショートゲームが格段に良くなりました。

まずパッティング、
1m~1.5mをすこすこ入れた昨日のパッティング、無敵の#7VERSAあればこそなのですが、気づきもあったのです。
(アダムがイヴを見つける時 ~ ダウンブローのパター)
心がけていたのは、
コンパクトなテークバックからフォローまでを、スタンス幅の間を目安にして、
その幅のあいだを、緩まずにしっかり振ること。

フォローがスタンスの外側までダラダラ流れてはだめで、左足のスタンスのところまでインパクトの後も緩めずきっちり振る。

(しかし、ロングパットもショートパットも決めたのに、この日は”お先に”のパットを5つも外しました。ありえません。
”お先に”の30cmを外して、その後の”お先に”をもう一度外す、という芸当も。この気の緩みが最大の敵であります。)

そして、長らくの課題であった、安定しないアプローチ、
近頃は、旧いキャロウェイX-12のアイアンセットからPWを抜いてきて、ランニングウェッジ用にキャディバッグに入れたりしていました。
このPWは、シャフトがUS製で硬めとはいえカーボンシャフトなので、
意に反して奥へ奥へといってしまうピッチショットやランニングアプローチの防止になる柔らかい球を期待したのです。
強く入って大きくオーバーすることは少なくなったように思いますが、
絶対奥に行かせたくない場面で、PWでの転がしだけでは限界を感じていたのも事実。。

楽しみにしていたのは、5月発売予定だったナイキのエンゲージ・ウェッジ「トゥスイープ・ソール」。
発売延期になって、いつ発売になるのかとヤキモキしておりました。
最近はいわゆる「異形ウェッジ」が流行りで、ウェッジが豊作なシーズンだと思います。
ウェッジがいいと好スコアに直結します。スコアメイクが易しくなる。

 

ところが、心待ちにしていたナイキのウェッジの発売日を週末に控えた今週になって
突如として私の心を奪っていったのは、『Ksウェッジ』でした。

とうとう私にピッタリのエースウェッジを手にした気がします。

鋳造で形成された、ウェッジには珍しい深いキャビティ、そして鍛造フェイスの丁寧なつくり、
柔らかな打感を感じさせるマットなサテン仕上げのヘッド、
異形を感じさせない、確りした仕事をしてくれそうな渋い顔つきには、
細かな工夫が沢山あるのです。

 

シャンクを防ぐ、ヒールの工夫。
ワイドなフェースでネック部分が長く、球にしっかりスピンがかかるイメージが湧く。

このKSウェッジのウリはゼロバウンス・ソール。
(ローバンスどころではない、バンスがゼロ。)

バウンスについて、あまり深く考えたことはなかったが、
バンスには、サンドウェッジがバンカーに突き刺さるのを防ぐ役目がある。

 

 

バンスのおかげで、ダフってもソールが滑り、地面に突き刺さるザックリが防げる。
しかし、このバンス使いが、サンドウェッジを特別なクラブにしているのもまた事実。
固いバンカーだとバンスが跳ねてトップするということも起こり得る。

なんだか、ハイバンスとローバンスのいいとこ取りみたいで、すごく魅力的だ。

 

ワイドソールは間違いなく良い機能だと思う。
もぐり過ぎを防ぐのがバンスの機能だとしたら、そもそも、もぐり過ぎるような打ち方をさせなければよい。
ソールが滑れば、バンスが滑ってるのと同じことだ。バンスの必要がなくなる。
ゼロバンスだと跳ね返らないし、ラウンドソールでワイドソールだから、ざっくりすることもなく、滑って抜けがいいはず。
理屈にかなっている。

トップのミスへの安心感のあるリーディングウェッジ。

そのような論評は見当たらなかったが、バンスがないアイアン形状のソールだと、フルショットにも使いやすいのではないかと思う。

これまでSWは58°を使っていたのですが、
58°を使っていた時はフルショットすることなんて無く、バンカー使用と、滅多にラウンドですることのないロブショット専門でした。
56°のKsウェッジなら100ヤードを切ったフルショットから、バンカー、Green周りまで、この一本でカバーできそう。
課題のショートゲームがとてもシンプルになりそう。頼りになる一本になりそうです。

( ↓ ) 「ボールがフェースの上を滑ると距離感を合わせるのが難しい」。

バンスの話はひとまず置いておくとして、ウェッジのロフト角についての記事が、よくまとまっている。
ロフト角が大きくなると、それはそれでシビアさが増す。

今回、56°をチョイスしたのは、ショートゲームを極力シンプルにしたかったから。
58°より56°のほうが易しく安定したショットが打てるとのこと。
このわずか2°の差の違いは大きく、ボールが意に反してフェース面を上滑りすることがなくなって、距離感を作りやすくなるらしい。
ロブショットのような高い球というのは、上方向へ浮かせる距離によって、進行方向の距離を相殺するわけだから、
当然に距離感を合わせるのが難しくなるわけだ。

KSウェッジは開いて寝かせても使いやすいので58°との2°の差なんてあまり問題でないように思えますし、
何よりバンカーからランニングアプローチまで、Green周りがこれだけで事足りるというのがシンプル。

冒頭でパターの振り幅への意識について書きましたが、
ウェッジ一本で打ち分けを可能にするために、ウェッジの振り幅と距離感の掴み方をシンプルにする。
クォーターショットやハーフショットの振り幅を確かめながら、30,50,70ヤードといった中途半端な距離の精度を高めていくのです。
(何を今さらですが、ちゃんとウェッジを練習することは殆ど無かったかもしれません。)



前日、宙に架かった見事な丸い虹。

明けた猛暑の中のラウンド、ショートゲームでパーを拾いまくる以前に、
ここ最近では記憶にないほど、ドライバーからミドルアイアンまで、長物が右にふける擦り球ばかり。
普段はミスの少ないユーティリティーまで、インパクトすら、ままならず、何度かゴロを打ったほど。

原因に気づきました。

右膝を痛めてから取り組んできた、左重心打法を実践しなかったこと。
ここ数ラウンド、出だし立ち上がりに苦しんだのに、この日はパースタートで調子に乗って、どんどん力みが増していき、
やがて崩壊、ゴルフにならなくなりました。

膝を痛めたのを機に、ゴルフに必要な体幹や裏すじの筋肉ではなく、目に見える表筋の筋肉まで鍛えようとしたのが裏目に出たのだと思います。
両ひじが開いて、上半身の外側の筋肉で振りに行ってるのです。
体使いは硬く、遠心力や向心力を使えていないから、力むほどにスイングからキレが失われていく。スイングが重い。

 

途中で両ひじを絞って、体の内側につけて打つと、少しマシになりましたが、時すでに遅し。53/53という惨憺たるスコア。
(最終ロングホールも左OBで2打罰,クリークで1打罰でスコアは7でしたが、
それ除きでは、3つでGreenに運び、1.5mを沈めて4つであがっているのです。やりようの部分はあったと思います。)

しかし、負けに学ぶともいう。

パーを拾いまくる、ショートゲーム革命は間近な気がする。

チューリップ StudioLive 虹とスニーカーの頃

あ、ピアノやらなきゃ。

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「借り物の時間」のなかで「分人」を生きろ。

2015年07月18日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

「借り物の時間」のなかで「分人」を生きろ。
確固たる自己などというものはなく、その時々や関係性のなかで生まれてくる分人を、どう育てるか、それが問題だ。

Borrowed Time (Acoustic) - John Lennon

英語のborrowed timeという表現には、どこか、” 主体的に生きる自分という固定観念と矛盾をきたす ” 感じがある。
でも、「時間も身体も心も借り物だ」という感覚を持つようにしてみると、呼吸の仕方や、感情の発生の仕方まで変わってくるようにも思えます。
一方向にただただ流れる絶対時間に従うだけではなく、
時間や感覚と、自分との関係を、「分人」として場面ごとに切り分けていく。時間意識を書き換える。
(
修業論 ~ 無敵とはなにか)
(心の時代の次へ ~ あわいの力
)

 

学校での分人がイヤになっても、放課後の自分はうまくいっている。
それならば、その放課後の「分人」こそを足場にして、生きる道を考えるべきである。
それを多重人格だとか、ウラオモテがあるとか言うのは、
放課後まで学校でいじめられている自分を引きずる辛さを知らない浅はかな人間だ。
学校での自分と放課後の自分とは、別の分人だと区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろう?
自分を愛されない人間として本質規定してしまってはならない。それはあくまで、その人間との関係の問題だ。
もし、新しい分人が自分の中で膨らみ、自信が持てるようになったなら、そこを足場にして、改めて過去の分人と向き合ってみればいい。
「人格は一つしかない」、「本当の自分はただ一つ」という考え方は、人に不毛な苦しみを強いるものである。
私たちは、人や環境との関係の中で、新たに分人化する。

「個人」という単位で自分を捉えるのではなく、「分人」という単位で捉えていく、「個人主義」ではなく「分人主義」。

啓蒙書の挿絵風になってしまったが、日帰り会津の猪苗代湖畔。 

確かに社会に対して個人というのは、政治や経済を考える上では有意義な考え方だった。
唯一絶対の神に向かい合うのは唯一本当の自分であり、
個人という概念は信仰と論理から導かれた、いわば人工的な人間観だった。

でも、もうそろそろ良いんじゃないか。
もっと現実に即した、新しい概念を基準に、自分のこと、他人との関係を考え直しても良いんじゃないか。
すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。
日常生きている複数の人格とは別に、どこか中心となる「自我」が存在しているかのように考える。
複数の人格は表面的な「キャラ」や「仮面」に過ぎず、「本当の自分」は、その奥に存在しているのだと理解しようとする。
この矛盾のために、私たちは思い悩み、苦しんできた。
たった一つの自分など存在しない。

対人関係ごとに顕れてくる、それぞれの自分(分人)がすべて「本物の自分」である。

この「分人」という概念を、単に気分を紛らわすためのものではなく、
もっと積極的に採り入れてみても良いのではないかと思わせるエピソードも紹介されていた。
言葉を通して人は考えるから、言葉は想像している以上に人間を規定する。
「分人」という言葉は、規定された世界観から、多様性を引き出す可能性を秘めているように思える。

~私は大学生の頃、二年間ほぼ毎日のように、アパートの近所のコンビニに通っていた。
そこでいつも顔を合わせる店員は、私と大して歳も変わらないくらいの大学生だったが、
彼とは会話らしい会話をただの一度も交わすことなく、そのまま私は引っ越してしまった。
もし、人を介した飲み会ででも出会っていたなら、私たちは、お互いに、別の分人を生じさせていたかもしれない。

どんな「分人」を生じさせるのか、
どういう関係や環境を生じさせていくのか、それは相手次第なのだが、
それは自分次第でもある、ということを考えさせられるエピソードです。
育てきれずに消えていく「分人」のなかに、育てるべき「分人」が沢山いるのではないか。

( ↓ ) 「借り物の時間」にいるのだと思うと、身が軽くなる。
    前から気になっていたサバイバーシップ・ラウンジに参加。(治験ホールアウト)
    会社とは違った形での社会参加、育てるべき分人を引き出そうとしているのかもしれません。

 

( ↓ ) ジョン レノン×アル パチーノという、私的には夢のような組合せ。
     「自分の出演した作品を観て、初めて泣いた(アル パチーノ)」。

9.5公開 映画『Dear ダニー 君へのうた』予告編

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夏の陣、谷あいに寿ぐ(ことほぐ)

2015年07月04日 | 日記

あらゆる谷あいに日本人にとってのふるさとがある。」(司馬遼太郎 )

司馬遼太郎氏の講演録にこんなのがあった。

芭蕉という人は偉い人ですね。われわれは芭蕉を持ったおかげで、世界のどの国に行っても胸を張って歩けます。
その芭蕉が近江に来て、近江の人たちと一緒に琵琶湖に船を浮かべて遊び、作ったご存知の俳句があります。
「行く春を近江の人とおしみける」 

みなさん、イメージを働かせてください。
「近江の人」と言うことで、琵琶湖にたち上がってくる水蒸気が、山々を柔らかくしている景色が浮かびますね。

近江の聴衆の幸せな顔が浮かぶようだが、これは必ずしもその人たちの歓を買うための言葉ではない。
司馬さんが讃え、寿いで(ことほいで)いるのは、近江の御国柄であり、歴史につながるこの国の風土と文化なのである。

司馬遼太郎は歴史家であったが、それ以上に文学者であり、詩人であった。
晩年の司馬さんが小説の筆を折って、「街道をゆく」という旅行記に精力を注いだことからも、この人の関心のありかたは察せられる。
近代日本の「古事記」を書いた作家は、じつは常に『風土記』の筆者であろうと努めていたにちがいないのである。
歴史家は文明の興亡を眺めるが、詩人はその底にひそむ文化という地霊の呟きに耳を傾ける。

この文学者についての最大の誤解は、その歴史学を称えて、詩人の心を見落としてきたことであった。
歴史学は今へと続く過去を描き、現在にとって意味のある過去を伝える。
それに対して、詩人の心は、失われることによって完結した過去を歌う。

まるで、「歌われざる英雄について」のようです。
会津と「八重の桜」、そして歌われざる英雄について
表面的な歴史観だけでは見えてこない、いまやエビデンスもなく、語られることもない軍功に、遠く眼を向ける人間がいる。

そういう見方をする人間がいるんだというだけで、捨てたもんじゃないと、救われたような気になります。

逆説的で面白いと思ったのは、歴史家であるはずの司馬氏が憧れ、愛したのが、モンゴルの自然や遊牧民だということ。

氏によれば、遊牧民は歴史を持たない人々であり、
「歴史を創ろうとか、歴史に残ろうといった鬱陶しい心を持たず、無常を無常ともせずに、爽やかに生きる」
その心意気を愛し、憧れたという。

権勢を笑い、虚勢を蔑んだ、司馬遼太郎、
立志伝的成功譚を描く作家というイメージが強かったのだが、なんだか勘違いしていたのかもしれない。
小説は不得手なので随想集でも読もうかと思いながら、メトロ2駅共催の夏祭りへ。

祭りの副題は「夏の陣」、

オルセーかセーヌかリンクスか」で採り上げたキレイなMAP、ふだんは花と緑の街に居ることが多いのだが、
「夏の陣」のメインは、地図の南側にある谷あいの街。

一枚のMAPに収まりきらず、南側に拡がる「谷あいの街」は別MAPになっている。
山の手もよいが、故郷はあらゆる谷あいにある、というのは本当のように思えます。
どこかホッとする街並み、
私はここがふるさとと言うわけではないが、
自然の豊かな新しい郊外の街から谷あいの古い街並みまで
地続きに様々な表情を見せるこの土地に住まうことが気に入っている。

さて、日光御成街道の宿場町の風情が残る坂を下っていきます。

 「たくつう族」のたーくんは、「あぱみん」のところでひと晩を過ごし、朝方になって帰宅するも、
昼にはふたたび筑波へ舞い戻り、忙しそうにしているというのに夜になって帰ってきた。

昨年に続いて、鰻をふるまうことにしたから。
(花火の気持ち、うなぎの気持ち)

だいたい、自分の誕生日をこの歳になって祝ってもらうというのも、少しむずかゆい。
誕生日には、美味いもんでもごちそうするよ、というほうが清々しい気もする。
ビールをついでもらって、ひと言おめでとう、と言ってもらえればそれでいいよな気がする。

この近所には、鰻の老舗が三店舗もあるので、去年の竹江に続き、今年はいせ庄へ。

(十年ほど前のCMだろうか、出張先で仕事を終えたスーツ姿の役所広司さんが、ひつまぶしー!と半ば雄叫びをあげながら美味しそうに飲んでいたのが一番搾り。
なので、うなぎの時は一番搾りが合うよな気がする)

あっさりした味付けの鰻ダレ。その場で擦って入れる山椒が白っぽくて新鮮で、香りがすごいのだが、薄味のタレに合うような気がした。
(インパクトがあるのは、甘めのタレでふっくら焼き上げた竹江か。)
甲乙つけがたいが、吸い物の出汁が繊細でうまいーと感じたのはこちら。(肝吸いではないですけど)

少々邪道に感じられるが、う巻きではなく、「明太子入りねぎ玉子」なるものを注文。

この写真ではたぶん伝わりませんが、これが個人的には絶品でございました。
長野オリンピックで日の丸飛行隊の選手たちが通ったという、今はもう閉店した居酒屋割烹が白馬にあって、
そこで食べた明石焼きの美味しさが忘れられないのだが、それを彷彿とさせるものがあった。
(これは明石焼きではないのだが、明石焼きは玉子焼きとも呼ばれ、ふわっ、つるんとした焼き具合と出し汁の上品さが美味しさのポイントだと思うので、
あながち的外れな意見でないと思う。)

谷あいでの寿ぎ、うー、いつまでも。

Queen - Lily Of The Valley (Lyrics & Art Paintings)

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[2015年6月] 左重心打法への改造計画 第4ラウンド(バーサ、エースパターになる)

2015年07月02日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

左重心スイング理論はどこか「機能姿勢」に似ている。

「たった数ミリ動くだけで楽になる。視点が違えば、世の中は全く違って見える」というのが「機能姿勢」。
左重心スイングも、実は左重心だからといって右足の使い方を疎かにするのではなく、
重心の捉え方を数ミリの感覚で変えてみることを指しているように思うから。

「機能姿勢」とは、本人にとって「意識が最強になる場所」であり、
それを意識的に察知するよう心がけることで得られる感覚。

「機能姿勢(身心がホッとする姿勢)」は常に一定ではなく、場所や状況の変化に応じて、毎日、毎時間変わり続けるものらしいのですが、
ほんの僅かな動きと数秒の時間で、呼吸が楽になり、ホッとするポイントを見つけることができるようになる。
1%の晴れ間を意識の中心、世界の中心に据える。

私たちは全員、5分間のトイレ休憩に用を足して帰ってこられます。
あのトイレでのホッとする感じの時、あなたは完全に「機能姿勢」です。
あの時の開放感のことを言っているので、できない人は一人もいないのです。
「なるほど、あの感じを一日中得られれば、体の不調や心配事もなくなってしまう気がする」と想像することは、
それほど大変ではないと思います。


ハウツーをたくさん試しても、今回はうまくいったという小さな成功例と、思った通りにならなかったという失敗例がランダムにデータとして積まれていくばかりで、芯になる部分がいつまでも見えてこない。
これでは、うまくなったり進歩したりすることはただただ運任せということになります。

工業的な研究の目的は、様々な方法論の基にある最小単位の基本の発見です。
そのようなエッセンスの技術を一つ知ることが出来れば、たくさんの応用製品を産み出せるからです。
最小単位の健康法こそすべての基本。
私は、自分の感覚に照らし合わせて必ず答えが出るという「健康の最小単位」を当然のように探し続けました。

なんだか、私が探していることにも似ている。
(修業論 ~ 無敵とはなにか

 

しかし、道は遠し。

左重心スイングへの改造計画第4ラウンド、
菜の花12番スタートは、またも重心位置を探りながら、テンプラのドライバーショット、5アイアンで2発のOBで11を叩き、
前回の4ホール連続トリプル時を凌ぐ酷さ、
12-18番でボギー+9オーバー、菜の花IN9ホール換算(10-18番/Par37)で55のペース。
前回の4連続トリでスタートした時(同54のペース)はアウトを45で廻ってなんとか99で踏みとどまったが、
今回はもはや、44で廻らないと(80台のペースで廻らないと)100叩きを喫してしまう。

( ↓ ) シロツメクサの咲く道なき遠い道、昼から飲むはヤケ酒か景気づけなのか。

 

「(のこりのハーフ)、半分は変える」

気持ちで攻め返して、後半は5つのパー奪取で42、またも97で堪えました。

 

 

実は11を叩いたスタートホール(12番)でも3mのパットを放り込み、
その後も安定感のあるパッティングを続けたのが、新兵器のバーサ。
1.5mのパットに俄然自信が出てきたのです。
(アダムがイヴを見つける時 ~ ダウンブローのパター)

 

頼りになる縦型のサイトライン、ヴァーチカルなバーサ。

どことなく白黒のコントラストが、ピアノの白鍵と黒鍵のよう。

Be Good to me, Versa my dear. やさしくしてね、僕のバーサ。

また再び、少しピアノを触り始めた。
ポールのピアノ・ピース”Martha my dear"、
イントロは左手の練習にもいいかなと思うのだが、またまた曲になりません。

この後、ジョンのI'm so tired を挟んで、今度はギター・ピースのBlackbirdを聴かせるのがホワイトアルバム、今さらながらすごいと思う。

Martha My Dear Perfect Piano Intro Tutorial

 ( ↓ )  コード譜をメモして書き起こすのもよいが、やっぱり楽譜を見ながらの方がいいような気がする。
     これは、音もついているので分かりやすい。⇒  Musicnotes/マーサ・マイ・ディア

遅まきながら、武道館の駈け込み当日券チケット手書き版をビートルズ来日公演復刻版に交換しました。
(ポール マッカートニー ~ 武道館と天の采配)
49年前の明日、7月3日にビートルズは日本を旅立ったのでした。

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