ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

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千日回峯行と親鸞

2012年04月01日 | 読書ノート

現代において、なおもこのような修行が存在していることに驚く。 
生き葬式を済ませてから臨むほどの覚悟を伴う修行。

百寺巡礼 五木寛之 比叡山 延暦寺 千日回峯行

これを見たら、現代人であっても、
修行はいらぬ、ただ南無阿弥陀仏を念ずれば弥陀の本願によって救い摂られる、と教えることがいかに困難であったかを感じるだろう。
難行苦行に挑む意志と勇気、それをやってのけたという事実には、有無を言わせぬものがある。
人の意志の力を思い知ると同時に、
畏敬の念を持つことが、かえって束縛感や閉塞感を生む場合があることにも気がつく。
親鸞の生きた当時、平安末期~鎌倉時代は、なおのこと今とは比べものにならない濃密な空気感があったはずだ。

母がよく言っていた言葉がある。
" 子どもには上手に負けてあげるのよ "
自由と意志を持つための真理だと思う。m(_ _)m

五木寛之氏の「親鸞」、小説であるがゆえ、史実にはない登場人物が出てきたりもするようだが、範宴(はんねん、叡山修行時の親鸞の名前)の居た時空のなかに身を置いているかのように読める。
ちょうど、当時、範宴の周りの人たちが、聖徳太子のことを、
"歴史上の人物を語る感じではなく、あたかも懐かしい祖父や祖母を語るように、懐かしく、慕わしく感じていた"ように。
聖徳太子もまた、高い身分を持ちながら、「世間虚仮(せけんこけ)」と、ため息のような言葉を残した、かなしい人だった。

"音もなく落ちる椿の花のように範宴に体を預けてきた"當麻御前(たいまごぜん)の悲しい最期、亡骸はむかし河原坊(かわらぼう)がやってたように川に運ばれてそのまま流される。
おさえきれない嗚咽や、あとからあとからあふれてくる熱いもの。

歴史を歴史としてしかとらえられないようでは、意味がないのだ。

必要以上にドラマに仕立てることはないが、そこに体温のようなものを感じることができるかどうか、
それは歴史や芸術、数学や物理の世界にいたるまで同じことだと思う。

親鸞 (上)
五木 寛之

講談社

親鸞 (下) (五木寛之「親鸞」)
五木 寛之
講談社

 

図解雑学 親鸞 (図解雑学シリーズ)
仙波 芳一
ナツメ社

親鸞―不知火よりのことづて (平凡社ライブラリー)
吉本 隆明,石牟礼 道子,桶谷 秀昭
平凡社
わが家の仏教 浄土真宗
池田 勇諦
四季社

~ 身分の高い人びとが尊ぶのが和歌。今様(いまよう)はそれとちがって、卑しきわれらの好む巷の流行り歌だ。
   世態人情、男女(せたいにんじょう、おのこおみな)の妖しき思いを歌うのが今様の本領じゃ。
   しかし、なかにはみ仏の深い心を讃嘆する歌もある。

洋の東西を問わない仏性のようなもの。
この組合せはどうよと思ったが、なんだか通ずるものがあった。
宗教もまた、遠ざけるべきものではないと思う。
アプローチは多彩であってもよい。
For You And I- 10cc

 

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