弦楽器と管楽器の音を勘違いすることがある。
ポールのOnce upon a long agoのエンディング、歌のメロディとは違う旋律が現れるのだが、
プロモーションビデオを見るまでは、ずっとテナーサックスの音かなにかだと思っていた。
ポールがふいに別のメロディをハミングしてみせたりするように、
曲の中にふっと、別の世界が立ち上がるようなやつにはインスピレーションを感じて、はっとする。
1985のエンディングもそうだし、ビートルズのIn My Lifeの間奏のピアノだって、
単なる間つなぎではなく、別の音楽がふっと降りてきたよな感じだ。
ベースになる曲の上でまた違った世界が湧き出ている。インプロヴィゼーション的と言ってもいいと思う。
松岡正剛氏の記事にいいことが書いてあった。(「即興の精神がすべての思想と対峙する」)
インプロヴィゼーションは即興である。即興のことではあるが、実験音楽や前衛音楽とは同義ではない。
実験性と前衛性とは、まったく異なるものだとみたほうがいい。
それらがときにインプロヴィゼーションである場合はあっても、インプロヴィゼーションが実験や前衛であるとはかぎらない。
むしろインプロヴィゼーションは音楽の本来の探求であることが少なくない。
こうしたインプロヴィゼーションが世界中にある。
民俗音楽の片隅にも、現代音楽の脇にも、ジャズの途中にも。
これらを見過ごしてはいけません。
いまこそ、そこに駆けつけるべきだ。
世界遺産もいいけれど、こうした体と音とその日の時々刻々による全き自由こそ、何かにレジストされるべきなのだ。
インプロヴィゼーションは偶在性にも似ている。(生命と偶有性、終章)
月曜日は出張で来京した弟と宮崎地鶏でイッパイやり、
10月から始めることになったプロジェクトの準備に忙殺されること深夜24時に及ぶ日があり、
オフィスのレイアウト変更で早帰りのはずの金曜日には長い打合せ。
その後 ささやかに立ち飲みバーで一杯やる。
なんだかインプロヴィゼーション的でいい日常ではないか。
課題は山積み、巻き返しを図らないとすでに遅延気味のあやうさを抱えたプロジェクト。
ひとの評価なんて気にしないでおけばいい。「ひとつでも善を積み増しすること」、そういう気持ちでいこう。
また新しい仕事の節目の記念に。
右はマッシュポテトの上にパティー状の肉がのったやつ。
昔、肉に合うのは絶対ジャガイモだと言うアメリカ人と、ライスにきまっている、という私とで、意見の一致を見なかったことがあるが、ジャガイモとひとくちに言っても奥が深い。
今なら、ジャガイモ(マッシュポテト)が添えてあって、お酒でないなら、塩をふったライスで食べるのが一番かも、ということになる。
( ↓ ) 弦楽器の音と管楽器の音がクロスオーバーするところ、なるほど、似ているといえば似ている。勘違いするわけだ。
てっぺんから爪先まで全てでなくても、ふっとインスピレーションを感じる音が顕現するようなのはいい。
Jan Garbarek In Praise Of Dreams
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Brotherも、どことなく童謡のような雰囲気があってよかったです。
ありがとう。