ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

身体意識における『制空権』と『膜』の概念

2010年07月10日 | 心の筋力トレーニングを続けよう
よく言われる腹式呼吸、あるいは逆腹式呼吸、
これを腹という空間を制御する術、制空権というワーディングでとらえてみると面白い。

(↓)30秒ドローイン/腹を凹ます最強メソッドにも相通じるところが多々あります。
   本来の働きを見失っているコアの筋肉を「リセット」して、骨格や内臓をも本来あるべき姿にリセットする。

体幹を鍛える コアトレ スタートブック (GAKKEN SPORTS BOOKS)
有吉 与志恵
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ドローインでも同じことに言及していましたが、
内腹斜筋を使えばポッコリお腹が凹む。
( 腹筋運動は、主に腹直筋を使うだけに終わってしまうので下腹は凹まない。
  お腹を凹ませてエグるのが本当の腹筋運動。)

そして、だるい身体をリセットし元気を取り戻すコツは、
肋骨や胸椎まわりの老廃物を流し、「リセット」すること。

肋骨まわりを意識した胸郭式呼吸によって肋骨が柔らかく動き始めたらOK。

 

ハラを作る、というのは、身体動作的に言うと、
肋骨や横隔膜で囲まれた我々の身体の中の空間を制御する力をつけるこだと言い換えてもいいのではと考えた次第。。
すなわち「制空権」、
物は言い様、大切なのはwording、自分の身体を操縦するパイロットのようでなんだか面白そうに聞こえる。



(↓)胸郭と横隔膜への意識をシンクロさせて逆腹式呼吸をすることを説明しています。
   わかりやすく言うと、肋骨とおヘソをくっ付けるような気持ちで息を吸いながら呼吸するのが、コアトレに効果的とのこと。

   膝を立てた、この腹式呼吸については、あの苫米地博士もその効用を説いていました。
   なんでも、会陰(えいん、外陰部と肛門の間)には、インド密教でチャクラと呼ばれる生命エネルギーの出入り口があるとのことで、
   膝を立て、この会陰(=ムーラダーラ)に気を乗せたり、額(おでこ)の上で光をいろんな形に伸ばしたりといったイメージを持って気を感じることは、効果的な睡眠にもつながるそうです。

 

<膜について>

コアトレーニングもそうですが、気功などでも重要な呼吸時における『横隔膜』への意識、という着眼点があって、
 「身体を細かく割る」といった身体感覚や、逆腹式呼吸について試したり考えたりしているうちに、
茫洋とした身体というよりも、
もっと凝集されたレベルの、『膜』をコントロールするということに思いが至った。

この『膜』という概念は、なかなかに面白い。
リサランドール博士の異次元理論についてで、博士が言うように、私たちは、
5次元世界の中では膜に張り付いている存在かもしれないし、
博士のビデオに出てくる話の様に2次元世界にレベルを下げれば、平面的、すなわち膜のような存在でもあります。

物や情報を粒や点のレベルまで抽象化して、それらが集まった時に意味をもちえると考えれば、それらの集合体を結び付けているのが膜。
ミクロとマクロの境界線についての概念であるかもしれないし、
森羅万象のいたるところに立ち現れる、(量子力学的でない)マクロ、集合体の概念を言い換えたものかもしれない。

多層をなすものは、すべからく膜によって てんめんたるたおやかなタペストリーをなす。身体的動作にとどまらず、身体と精神のつながりも、膜と膜、虚としての空間と実数としての時間の関係に立ち現れる時空をつなぐ境界線も膜のようなものかもしれません。
気功でいう「気」も、あるいは、何らかの粒子が集まった(緩やかに結びついた波動のような)膜のようなものかもしれません。

多分、何を言いたいのかよくわからん、と思いますが、そういった上手く説明がついていない物事の道理についての興味は大切にしたいと思うのであります。

(↓)一青窈さんが推薦文を寄せていますが、分かりやすくて面白かった。
   そのうち記事で引いてみようと思います。

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桜井 進
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(↓)トマベチ博士も同じ「横隔膜呼吸」に着眼した気功に注目しています。 
 (いかんせんタイトルがバタ臭いですが、この人は着眼点が斬新で面白い。)

なんでも、「亀息法(きそくほう)」と呼ばれる気功術の呼吸法では、
”舌の先を上の歯ぐきの後ろ側にくっつけて”、ゆっくり呼吸を行ない、
”その時出てくる唾は身体にとてもよいものなので、必ず飲みこむようにしてください”とのこと。
夢が勝手にかなう「気功」洗脳術~脳科学から見た「気功」の正体
苫米地 英人
マキノ出版

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[2010年7月千代田カントリークラブ]

2010年07月10日 | ゴルフィーライフ[ラウンド編]

久しぶりにYさんとラウンド。あまりイジりようがなくなってきた私のゴルフぶり、力みまくってドライバーで地面こすって火花を散らしていたのも今は昔、となりつつある。

この日も心はクリスティー カーをイメージして、ポスチャー(姿勢)やアドレスを大切にしてスタート。

思うに、ゴルフのラウンドってこうして振り返りをすると、
いかにホールbyホールで、無駄な1打を打たないか、ということに尽きるような気がします。
無駄な1打がリズムや流れを悪くする、
逆に、派手でなくても、無駄ではない、有効な1打というのもある。

余計なものを足していくばかりではなく、引き算のゴルフ、
どうやって無駄を削いだシンプルなゴルフができるか。


ゴルフ終えてから、一昨年に購入してからそのままのシューズのソフトスパイク
、交換しました。
オイル交感がてら立ち寄った車のディーラーで、エア・コンプレッサーを貸していただき、スパイク抜いた跡の泥を吹き飛ばしてから締め直し。
気持ちも締め直していきましょう。

 (↓)宮里藍選手も3位と大健闘した全米女子プロで優勝したのがクリスティ カー。 
  この映像の、藍ちゃんの2つ目のパッティング、左耳でカップインの音を聞くが如く、
   まったくヘッドアップしない。見事。
Prudential Rock Solid Performer: Kerr wins LPGA Championship

例によって、ラウンドの流れをつかむトレーニングのために反省と振り返りを。

<西コース>
◎1番 Par5
ちょっと時間の読みが甘かった、、ティーオフぎりぎりで到着して、急かされてのスタートとなったロングホール、
にもかかわらず、ドライバー、4番アイアンといいショットが続いた。
しかし1mちょっとくらいのバーディーパットを決めれずパー。
(Myリーダーズボード(ハーフ45基準)は▲1)

× 2番 Par4
ドライバー右にすっぽ抜けの真っ直ぐOB、
プレ4の8番アイアンは左側グリーンに乗せる。
アプ2回だったが1パットでしのぐ。早々にトリがでる。
(Myリーダーズボードは+1へ。)

○3番 Par3
50°ウェッジが少しショートした。2パットでボギー。

× 4番 Par4
ドライバーは引っかけるのが最悪だと思っているので大抵右目に出る。
木に当たって1ペナ。5鉄で出して、9鉄はややショート。
満点アプと1パットでダボで堪える。
(Myリーダーズボードは+2に後退。)

◎ 5番 Par4
ドライバー真っ直ぐ、9鉄でパーオン、パー。
(Myリーダーズボードは+1に押し戻すいい展開。)

△ 6番 Par5
ドライバー右目に出たがいい当たり。
しかし、ヘビーなラフでU、4鉄とショボる。
残り130Y強フェアウェイバンカーからの4打目8鉄でグリーン狙うも、今度はグリーン右バンカーへ。
いいバンカーショットだったが2パットのダボ。
(Myリーダーズボードはまた+2へ。でもこの辺りで押し引きやってるうちはまだいい。)

○ 7番 Par3
9鉄はグリーンエッジ。寄せて2パットのボギー。

◎ 8番 Par4
ドライバー真っ直ぐ、難なく寄せて2パットのパー。
(Myリーダーズボードは+1。いい流れ。)

◎ 9番 Par4 ドライバー真っ直ぐだが、フェアウェイバンカーにつかまる。
しかし9鉄でしっかりグリーンエッジへ。連続パー、
前半4つのパーでMyリーダーズボードを0に戻し、ハーフ45で終了。

これで、ここのところ3連続でハーフ45、ということになる。
多少ミスがあっても、45を自分の中で目安として意識できるようになってきた。

<中コース>
◎ 1番 Par5
ドライバー飛んだが、左の林。
しかし、そこからPW、AWがさえて、4オン、1パットでパー。調子があがってきた感じ。

× 2番 Par4 ドライバー左の浅いOBゾーンへ。フェードを打ちに行ったのだけど、そのまま左へ行った…
悲しみのプレ4、9鉄を乗っけて2パット、ダボで堪える。
(Myリーダーズボード(ハーフ45基準)は±0)

◎ 3番 Par4
今度は狙い通りの満点フェード、球も強かったので2打目はAW、難なくパー。
(Myリーダーズボードはまたアンダー圏内、▲1)

○ 4番 Par4
今度はドローで満点ショット、狙い通りの球筋が打てると快感である。
AWで難なくパーオンしたが、3パットでボギー。

○ 5番 Par4
ドライバーが右の林へ。Pwで出して3オン、2パットのボギー。
(ボギーでまとめてここまでMyリーダーズボードはまたアンダー圏内、▲1をキープ。)

△ 6番 Par3
振れている時はこれが出る傾向にある。
8鉄を引っかけて、グリーン左のバンカー集落へ。
そこからのSwはもひとつ目の前にあったバンカーを避けて左目に出す。
次の58°でのアプを1ピン以内につけたが2パットのダボ。
(Myリーダーズボードは±0に後退。 しかし、残り3ホールで1つパーとれば2つボギーでこらえて90切り達成。)

× 7番 Par4
 池とクリークが邪魔をしてドライバーを振らせてもらえない、UTで安全にいく。
このUT、左に行きにくいクラブなので、置きに行くと右目に行く。
右のカート道で変な跳ね方、右サイドは池へと下っている、1ペナ。 

あ、この追い込みかけたい大事な場面での1ペナに切れたかも。

5鉄打ち直しはトップして正面の池へ。
5打目となるPwでGオンしたが、また3パットして8の大叩き。
( Myリーダーズボードは一気に+3。)

◎ 8番 Par3
  これも成長の証か。(ということにしておこう。)
トップ気味だったが寄せて1パットのパー、久しぶりにでた後半3つ目のパー。
(Myリーダーズボードは+2)

× 9番 Par5
 イーグルが出れば44でめでたく90切り、とうことで力みまくって半ばお遊び。
 右目に出たドライバー、ラフから4鉄で強振するもボソボソ右ドッグレッグの右足をツタっていく。
 残り200Y強、視界の開けた方角は池、大きくスライスさせればGに乗るかも。 どうでもいいや、乗れ~って振ったら、狙い通りのインテンショナル・スライス。
 ひょっとしたら、乗ったか~と思ったが、結果はロスト、2ペナ。
 くそっ、初めて使ったオレンジ色のボールって、ラフに潜ったら見つけるの大変だからなぁ、 って打ったアプもショボって結局7オン、2パットの9と、またも大叩き。
 
なんとも後味の悪い終わり方。 こういうのやめないと。

ということで、結果は45(15パット)/50(18パット)の95.
ショット62ショット/33パット。
パット数はここのところ、44→38→33と改善をみせている。
アプやアイアンが冴えてるとピン傍に乗るので、パット数が減る、とも言われるけど。
今日の敗因は上がり3ホールの大叩き、につきるでしょ。

OBや池もあったけど、95までで堪えたんだからある意味予言通り、
⇒ あまり自己ベストや80台にこだわらず、90台(前半)でコンスタントに廻る地力をつけとく。
  リズムや流れがくるのを待てること。流れがきたら、脇の甘さは排すること。

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のどぐろ

2010年07月04日 | 日記
どこで覚えてきたのか、食べてみたい魚のNo1になってるのど黒。
開高健さんあたりに唆されたというわけでもない。

日本海で獲れる赤むつの仲間で、"白身魚のとろ"と言われているらしい。
旨そうに聞こえるでしょ、キャッチィに響くラベリング。

しかし、高いね~。


でも、早めの誕生日ってことでお買い上げ。(^◇^)

のどが鳴っている、

心ではなく素直に身体に従うことにした。

(↓)ほんとだ、魚ののどは黒いもんだけど、かなり黒いような気がする。



(↓)白身魚のとろ、とは言い得て妙。
   金目鯛にちょっと似た感じ、脂がのってて旨いっ~。
   脂ののった40代でいきたいものです。
   


 にゅう麺にして、出汁を味わってみると、なかなかに濃厚。
 どうでもいいことだけど、素麺は揖保の糸に限る、と思う。
 でも子供たちが食べ盛りで、素麺では文句いうので、最近は夏でもあんまり食べなくなった。
 ナスとかピーマンを油で炒めると、生姜醤油とは違ったコクのあるバリエーションになったりするのに。
 



コスト パフォーマンスとしては、入梅いわし(梅雨時の脂ののったイワシをこう言うそうです)だが、
たしかに旨いノドグロ、良い宵だった。

(↓)シンプルなマンゴー乗せ。
   マレーシアに旅立った友人がいるですが、クアラルンプールのチャイナタウンで、ドリアンを探したことがあります。
   どうしても興味があって食べたくて、あの厚い皮をキレるナイフまで買い求めて、
   ホテルの部屋でたらふく食べようという密かな企て。
   しかし、ホテルに大きなナイフ持ち込むのも何だか物騒だなと思って、屋台で切ってくれ、ってお願いしました。
   ところが、屋台側に廻り込んでみると屋台の下に隠れてた青いポリバケツに張った水が、、
   ぷかぷか何か浮かんでるその水で刃物を洗おうとするので、思わず止めてくれ~、って…。
   お腹こわしたら仕事になんないよ (・。・;汗

   きっと、切ってくれとか止めてくれとか、訳わからん奴だなと思われたことでしょう。
   部屋に充満した、くっさ~いドリアンの匂い、
   食べた後の生ごみをそのまま置いておくと翌朝トンデモナイことになりそうでポーターに持って行ってもらいました。
   あの馬鹿だな~って感じの微笑みとか、いい感じでしたねぇ。


The Luckiest~ a handwritten letter


コメント (3)
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大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。

2010年07月04日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

にわか雨に濡れた日曜の午後。
RolexのCM曲で知ったLang Lang(郎朗)の演奏による、チャイコフスキーのピアノ コンチェルト1番の第1楽章。
ドラマチックな曲調、打ちつける雨や雷を連想させる弾け感が、なんだか梅雨や夏の激しい夕立に感じる天体の響きのよう。
そして、はじまりはいつもボケナス。

Lang Lang - Tchaikovsky Piano Concerto No.1, Part 01

私の身体は頭がいい―非中枢的身体論内田 樹新曜社このアイテムの詳細を見る



さて、こちらの本は最終章が唸るような文体で見事でした。

最終章に至るまでの納得感があってのことなので、ここだけ抜書きしてもあまり意味がないかもしれませんが、めくるめくような恍惚感を文章を読んでて感じることもそうそうあることではないので。


終章 響く身体 ~

いろいろな呼吸法、練功法を試みる。ねらいはひたすら「身体を細かく割る」ということ。

謡の発声のときにも、「身体を割って声を出す」ということを考える。
正しい謡の声は朗々と響く、「肌理(きめ)の立った声」。
大きい声でもないし綺麗な声でもないが、声帯ばかりでなく骨も神経も筋肉も、身体のすべてが謡の音に唱和している交響楽のような声だ。
一人の人間の声がこれだけ多様な微細音を同時に発することができるということを私は謡を習うまで知らなかった。

舞も同じ。序の舞のような緩慢な動作に美的な緊張を感じるのは、わずか一歩出るすり足のうちに大量の運動が潜在的に含まれていることを私たちが感知するから。
シテは多起源的・多声的な力を「ただ一歩の運足」のうちに込めなければならない。
全身から集められた微震動のエネルギーによってシテの身体の内圧は高まり、
シテの身体は無限の細片に「割れていく」。

美とはつきるところ「肌理(きめ)の微細さ」のことである。
武道における勁さ(つよさ、ケイ)もおそらくこれと同じところに収斂する。
私が稽古していることはすべて「他者から送られる響きを聴きとる」というただひとつの身ぶりに集約される。



や合気道の稽古を通して修練を積んでいる著者が50歳を過ぎてようやくものの理(ことわり)が分かった、と感じたというくだりです。


「響き」というのは「割れる」ことでしか発生しない。
静止したソリッドな単体から何の響きも生まれない。
単体に亀裂が入り、異化が始まり、中枢的に統制されたシステムが"非中枢的に自律する"システムに変容し、
身体各部にズレや温度差、密度差、時間差が生まれるときに、はじめて「響き」は生まれる。
複数の震動体や発音体が、それぞれ決して互いを、否定せず、阻害せず、統制せず、
ただ互いの音を受け止め、享受し、装飾を与え、支え、「我を忘れた」ときに発生する、
「誰の所有にも帰属しない和音そのもの」のことである。
「響き」を聴く者は、その響きを経由してはじめて、己がどのような仕方で和音に参加しているかを聴きとる。
ある音を聴いていると、自分の身体が共振し始める。
そのときにはじめて共振する「響き」の自分もまた一個の構成要素であったのだということを知らされる。
そのような形で、主体性とか私とかいうものは事後的に確定されるのである。
端的に言えば、生きているとは、「響きを発し、響きを聴く」、ただそれだけの動作に集約される。

そのためには「割れ」なければならない。「割る」というのは、同時に微細な震動を発することである。
割れが細かければ細かいほど、発される震動音は深みを増し、厚みを加え、肌理(きめ)が立ってくる。

能楽では、それは朗々とした、また纏綿(てんめん)たる音声的な肌理として、
あるいは強烈な内圧を凝集したかすかな動きとして、総じて美的感動として顕現する。

武道では、囚われない融通無碍(ゆうずうむげ)の動きとして、また圧倒的な勁(けい)のエネルギーとして顕現する。

そういう「ことの理路」が、この歳(50歳過ぎ)になって、だんだんと分かってきた。
大切なのは、まず「身体を割る」ことなのだ。
哲学も舞楽も武道も、その帰するところはおそらく一つである。
こういうことは誰の本にも書いてない。だから、自分の身体が習い覚えたことを、自分の言葉で語ってゆくほかないのである。



ずいぶん難しい物言いをするなぁ、という風にも感じますが、
始まりは以下の通り、ボケナスから、なのです。
でも、真摯に、学術的に論じることが難しい領域について、
自分の腑に落ちるように、
自分の言葉で、なんとか理解しよう、語ろう伝えよう、とするところに共感を覚えます。

「身体を割る」、といった身体感覚、研究中。


世に三面六臂の活躍をしている人は沢山いるけど、そういう人ほど「おおらかな人柄」と言われる。
おおらかとは、言い方を変えれば「ボケ」ということである。
活躍している人ほど、お会いするとフツーすぎるくらいフツーの人であり、どこかぬけていてチャーミングだったりする。
ようするに、「本当の私はボケナスであるほどいい」というわけで、私は心から安心してしまう。
そうだ、私はボケナスでよいのだ。これでいいのだ。

虚をおのれの中心に据えること、自我の中心にあるのはボケナスである。


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私の体は頭がいい ~ 心と身体をばらばらに使え

2010年07月04日 | 心の筋力トレーニングを続けよう
すっかり、ファンになった感のある内田 樹(たつる)氏。
ナンバ歩き等の古武術研究で知られる甲野善紀氏が序文を寄せていますが、武道(合気道)にも通じた方です。
養老孟司先生によると、「人間の意識はたかだか数十年の記憶しか持たないが、身体は数十億年の記憶を持っている」ということです。身体は頭より一億倍物知りなんですから、身体が「気持ちいい」と言ったら、おとなしくそれに従って、ごちゃごちゃ理屈は言わない、ということでよろしいのではないでしょうか。
私の身体は頭がいい―非中枢的身体論
内田 樹
新曜社

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「あがってしまって、ふだんできることができない」ということは日常生活でよく起こることですが、
命がけの闘争の場を想定した武道の場面でのそういった状態が招く身体能力の低下は死活問題になる。
こういった心理的な働きが抵抗となることを武道では「居着き」と呼び、「兵法家伝書」で「着(じゃく)」あるいは「病(やまひ)」としてきびしく諫めています。
勝とうと思うこと、習得した技術を出し切ろうと思うこと、相手を打ち負かそうと思うこと、
そういった「居着き」を去ろうとあれこれ工夫すること自体さえも「心のこだわり」となって、身体能力の低下を招く。
日本の伝統的な身体観はよく「心身一如」であると言われる。
しかし、心身一如であればこそ、精神的なストレスが身体能力に影響を与えるということも起こり得る。
武道にとって大事なのは、そのような心身の連関を、事実として認知することではない。
どのようにして、この心身の連関を断ち切るか、
どのようにして、精神的なプレッシャーを身体に反映させないかという技術的な問題にある。
生死の境にあって、不安や恐怖を感じない人はいない。
しかし、その不安や恐怖を身体能力の低下に結びつける回路は技法的に切断することができる、というのが「兵法家伝書」の考え方。
家伝書は「心と身体をばらばらに使え」、「精神と身体を切り離せ」、と教えている。
心と身体がばらばらに動けば、心がいくらマイナス思考をしても、身体能力に悪い影響を及ぼすことはない。
家伝書では「木人花鳥(もくじんかちょう)に対するが如し」という荘子にもある教え、
すなわち、花鳥風月にも白刃や流血にも、同じように、意味やコンテクストを無視して、刺激に対してオートマティックに反応する身体を武道的身体の理想としています。
型をしっかり訓練して機械的に反応する身体をつくる方法もあれば、
「身体を細かく割る」という練功法についても述べられています。
(本書の最終章「響き」に、この「身体を細かく割る」動きについて書かれていますが、感じ入るところの多い文章で、後日抜書きしたく思っています。)

たしかに、心身が一体となって好調のリズムや流れに乗りゾーンに入っていく、「心身一如」は好調時の哲学としては素晴らしいかもしれません。

一方で、マイナス思考の時や、身体が不調だったり病気になったりした時には、「心身一如」ではなく、心と身体を切り離した方が共倒れを防げます。最悪を消す、発想。

人間誰しも老いに向かうものだし、病気になっても心の健康をキープできる技術として、
毎日のバイオリズムに合わせて、うまくこの使い分けのトレーニングをしていくということが大事に思えます。

~ 「身体は言語として構造化されている」

  日本の「腰」に相当する身体部位を表す言葉が英語にはない。 waist、hip、loin、は腰とは違う。
  「腰」を曲げたり伸ばしたり、タメたり、キメたり、据えたり、砕いたりすることがウェストやヒップではできない。

腰がわからんかったら、いろいろと難儀でしょ。。(ゴルフのレッスンとかも、ね。)

(↓)フランスには「gorge ゴルジュ」という身体部位を表す言葉があるらしい。
  ゴルジュが痛い、ゴルジュを掻き切る、と言うと「のど」、
  女性のゴルジュが美しい、と言うと「乳房」を意味するそうです。
  ピカソの絵は、のどとかオッパイとかが頭の中で色々とミックスされてああいう風になったってことだったのか。。ヘ?(・・?
   やめとけ、という心に、身体(オッパイでなくてのど、ね)が勝ったので、ゴルジュが歌うフランス語混じりの歌。(・o・)

<(_ _)> michelle by ごるじゅは、騒音であることが判明しましたので削除いたしました。 あしからず。
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アブラカダブラ

2010年07月04日 | お気に入り♪(マイナーなラジオ局編)
(@_@)(@_@)(@_@)(@_@)(@_@)(@_@)(@_@)

Wカップ、アルゼンチン/ドイツ戦も見ずに読み出した本、面白くて、
われながら、いい切り口で記事にまとめられたと思って投稿ボタン押したら、なぜかブログのログイン画面に。
一瞬にして記事が消滅した、ショック。
アブラカダブラ、魔法の歌でも。。

(↓)のちにポールと共演もしている。スティーブ ミラー。
   学生時代、土方のバイト(ゴルフ練習場の造成作業、今にして思えばたまたま。)をしていた時、
   いっしょだったお兄さんがこのバンド好きでした。
   暴走族が数日間バイトに紛れ込んで、ブルドーザーで威嚇して仕切ってくれました。

Steve Miller Band Abracadabra

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雨を讃えよう

2010年07月03日 | お気に入り♪(マイナーなラジオ局編)
I praise the rain down in Africa、かと思ってたら、
praise でなくて bless だった。こういうことってよくある。
ネイティブの耳ってどうなってるんでしょうねぇ?

いずれにせよ、雨を讃えよう、って梅雨どきには なかなかいいフレーズだ。


Toto - Africa with Lyrics (high quality audio)



昔UCLAのサマースクールに行った時、
" どうして CanとCan'tの区別がつくの~?勘違いしたらまったく反対の意味になるのに。"
って聞いたら、Canは短く発音してCan't は伸ばして発音するような回答が返ってきました。
いまだに今一つ腹おちしていません。

梅雨空、ビール、とくれば、、、で1年前に採り上げたボズ スキャッグス、
今度はこれ。
レコードでは たしかカルロス サンタナが咽ぶようなギターを弾いていました。
もっと都会の夜の雰囲気のある曲だと感じるのですが、白いスーツなんぞを着ています。

Boz Scaggs  "You Can Have Me Anytime"






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宮沢賢治の世界を再考する ~ 春と修羅

2010年07月01日 | 読書ノート
宮沢賢治が生きている間に残した著作は「春と修羅」、「注文の多い料理店」の2点。
有名な「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」などは未完のまま。
宮沢賢治を再考する、続編です。
軽くてライトなものは好みですが、40過ぎたら それだけじゃいかんでしょ、と思う。

眼をそむけがちというか、表現にためらいを伴うようなとこのあった、
性や生、死といった人間の根幹にかかるような部分についてもそれなりの見識は深めておきたいもの。
でないと、開高 健氏のようなアフロデジアックなジョークのひとつも言えない、つまらない ただのおじさんになってしまう。

哲学の東北 (幻冬舎文庫)
中沢 新一
幻冬舎

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宮沢賢治は、宮沢賢治、アメニモ モンクタレズで採り上げたとおり、科学的な物の見方をする人でもあった。
教職を経て、自ら自耕自炊の生活をしながら農業教育や研究を行ない、
仏教(法華経)や超科学への関心を示した人。

歩きながら、外界に開いた眼を持ちつつ、自分の意識の中に浮かんでくる表象や言葉を、毎日毎日、ノートにメモして書きつける。
それは、何かの契機で作品化されることもあれば、そうでないこともある。
そして、賢治自身は一つの作品にするということに それ程の関心も持っていたかどうか怪しく、積極的な意味での詩人というわけでもなかった。
むしろ、最初の作品である「春と修羅」を著した時には、印刷所が詩集としたのを見て、嫌がったとの逸話が残っているそうです。

賢治はミンコフスキー空間などの4次元世界に強い関心を持っていて、そこに私たちが目指すべき東北のダンディズムみたいなものがあると、この本の中で中沢新一氏は指摘します。

曰く

"東北的なものの世界では、魂も思考も、肉体をかきわけながら、表面へ向かって出てくるもの。
 不透明な肉体的な大地のようなものが、純粋な思考の歩みにあらがって、抵抗を示します。
 明晰な人達はそれを野暮ったいとか、思ったりするのでしょうが、むしろダンディなこと。"

" 音楽が鳴り響いている間は、そこに壮大な宇宙が出現するけども、
 音楽が終わってしまえば、もうそこにはどんな建造物も残っていない。
 存在の世界にあらわれたものを堅固に持続させようとしているという意味では、
 消えてしまう音楽は、建造物をもしのぐ強さを持つという逆説を発揮します。
 建築は、純粋な思考や構造を出発点として、物質を従わせようとしています。"
(賢治は音楽好きでした。)


なるほど、光の世界線から見れば時間も空間も存在しないというミンコフスキー空間に、
消えていく音楽や、あるいは人為的な行為によって存在する建造物を喩える、という発想はおもしろい。

こうも言います。
" 詩の響き=音とすると、言葉が生まれたばかりの詩は、純粋な「空間性」を持つ。
それが今度は言葉として投げ出された時、それは時間の中に入っていく。"

この文章だけでは難解で、
中沢先生、何が言いたいんでしょうか ヘ?(・・?、ってことになってしまいますが、
光の世界線と時空図上に現れる非因果領域の理解があれば、
何を言いたいのかがわかると思います。

なかなかに難解な本ですが、
賢治の志向した、仏教や科学(例えばミンコフスキー空間)と言葉の結びつき、
単純に『詩』の範疇でくくるのは、やはり違っているように思えました。

(↓)タイムリーだったので思わず購入したサライ。
   賢治に親しむには良いですが、ここまで深い洞察に至っている記事はない。

サライ 2010年 07月号 [雑誌]

小学館

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(↓)中沢先生は「春と修羅」にエロスを感じると言います。
  " 東北にとっての春のイメージというのは、生命が一度に溢れ湧きだしてくるという、性的な意味合いが込められている。
   そういう文脈で修羅が生動している。
   ポルノグラフィーの語源である「ポルネノア」という言葉には、自然の猥らさ、という意味がある。
   賢治は言葉のなかに生命の猥らさを注ぎ込むことができるポルノグラフィー、
   あるいはエロスを抽象化させたアヴァンギャルド作家、
   賢治は聖者のように扱われているが、そういうことを平気でいえるようにならないといけない。"

   なるほど、これほどの人がそんな子ども騙しのはずがない。
   純粋な童話の世界は好きですが、
  " 子供は善良でなくてはならない、っていうのは大人の策略。
   子供の善良さを当てにして、可能性を持っている子供をはめる罠のような下心を感じて大嫌いだった。"
   っていう氏の指摘にもうなずくものがある。
   

朗読『春と修羅』/「序」「春と修羅」「蠕虫舞手」


ZYPRESSEN はドイツ語で、糸杉のことらしい。
どこが性的なのかよくわからん。。

でも、宮沢賢治には、これからも触れる機会はあるでしょうから、図鑑ブログとしてはよく整理できました。

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