ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

悲しみはぶっとばせ

2010年09月15日 | お気に入り♪(ビートリー)
今の会社におよそ6年前 同じ時期に中途入社で来た、いわば中途同期が辞めることになりました。
その後合併を重ねて環境も変わり、処遇も後回しみたいに思えると、仕方ないことかもしれません。

40超えたら、どの社会もそうでしょうが、
個人の能力なんて たかだか知れてて、人のつながりで動くのが人間の集まり。
それが組織ですから、そのこと自体には是も非もありません。

私なんぞ、10年以上いた銀行を振り出しに、今で4社目。
履歴書書いたら、結構すごい経歴になってしまいますが(えへん。)、
さすがにいつまで跳んでられないですし。

基本 仕事は持ち込まないのをポリシーにしていますが、こういう悲しい夜くらいはいいでしょ。

how can I even try, I can't never win
~ 勝てっこないのに、どうやってトライしろっていうんだい

いやいや、そんな気持ちはぶっとばさないと。執着するなよ。
立ち去る者ばかりが美しいわけでもないのだよ。

(↓) ブログのアイコンにもしてるこの当時のジョン レノン。
  この映像の歌いっぷりとか、coolで格好いいとしかいいようがない。  

The Beatles - You´ve got to hide your love away

(↓)最近、モデルの押切もえさんが、何かの本で読んで心に留めてるフレーズだって言ってました。
  " 自己憐憫ほど、みっともない態度はない。"

  そのとおり、だと思います。

  敗者だなって考え出すと、顔で笑って、心中 雨がざあざあ降り。
  まぁ、あらかた上手く言ってるし、不平を言いだしたらきりがないし。そんなこともあるのだ。 
 
  『自らを州(す)とせよ。』 ← 流れにのまれずに、ちょっと高いところに居られるっていう風にでも考えとけば。

  整斉と、清々と、バリューのあるパスを送り続けることこそが仕事の本質なのだ。

   I'm a loser (Remastered 2009) - The Beatles [HD] // suntitles Spanish- English

 " Love "を、単なる" 愛 "ではなく、もっと広義の、その裏返しの執着心であったり、居着く心であったりという風にとらえると、
  さまざまなメッセージを受け取ることができる。
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あばよパンパスグラス、サムライたちの運動会

2010年09月12日 | 日記
運動会を見に行くのも中学校まででしょうから、今年で終わりか。
来年は、秋空に拡がる雄大なパンパスグラスを見ることもないのか、
なんだかさみしいなぁ、、。

帰り道、パンパスグラスが名残惜しげに西日に揺れてたので、
短いムービーにして、涼しげな音楽をつけてみました。

最後に、トンビくんが惜別を込めて空を渡っていきます。

 

塾の夏合宿に参加してから ずいぶん変わりましたが、
生徒会や部活で、運動会の準備にも追われ、すっかり真っ黒。

私も受験生のころ、
飯食って、プロ野球のナイター見終えたら勉強しよ、と考えては、
延長中継が終了する9時半になったら、疲れてよく寝てた。。(-_-)zzz

いろいろ大変だな。そら、疲れるわ。



立派なスローガンだ。がんばれ、サムライ。

[侍ジャイアンツ OP1]侍ジャイアンツ.mpg

校庭になんとザクロを発見。
中学校の校庭にこんなのあったら、普通食べるだろ。



旬の戻り鰹。初ガツオより脂がのって戻ってくる。まぁ、元気つけてくれ。頭脳も明晰になるぞ。



でもね、
男は不幸なサムライ、花園では眠れぬこともあるのだよ。

沢田研二 サムライ
 

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坊っちゃん見っけ、荒城の月。

2010年09月12日 | お気に入り♪(いろいろ)
通りすがりに見つけました。
1980年放送のアニメ、西城秀樹さんが声優を担当していた「坊っちゃん」。

ご存じのとおり松山が舞台の物語、
愛媛、松山は子どもの頃によく遊んだ土地、
夏山でトロッコに乗ってみかんを獲ったり、海でウニを獲ったり。
(北海道のウニより小ぶりなのですが、瀬戸内海のは独特の旨みがあります。)

この夏、曾原湖で見たような星空を子どもに見せたかったのも、
ルーツを辿れば、子どもの頃に瀬戸内海でみた夜空の天の川に感激したから。

なので、愛着を持ってみたのでしょう。

今の私の嗜好の、原点のいくつかを感じるところがあります。

記憶では、このアニメの中で坊っちゃんが荒城の月を歌う場面があって、
これが、私の荒城の月好み、の始まりのような気もします。

(↓)西城秀樹さんではなく、舟木一夫さんの「荒城の月」。
  この陰影に富んだメロディと詩、日本の美学。
 
 

あの人のワルツ、モネの日傘の女性、
妄想の中に出てきそうなマドンナの姿まである。



ちょい見せ 「坊っちゃん」

続きはこちら ⇒ ムービースクエア 

(↓)荒城の月の歌碑のある鶴ヶ城の記事、
   写真のスキャンで済ませていた記事を写真のデータから起こし、写真を大きくして見応えが増しました。
   天守閣から見た夜桜の写真も追加。
   美しい日本の美、ぜひご覧あれ。

  まほろば~鶴ヶ城の夜桜
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ガリレオ的 頭の中の地動説展開運動

2010年09月11日 | 心の筋力トレーニングを続けよう

自分は弱い。しかし、その弱さを自分は自分に許さない。
そう決意している人間だけが、弱さから抜け出すことができる。
弱さに安住している人間は、永遠に泣き続け、怒鳴り続け、恐れ続け、妬み続けるしかない。

" 自分の中の強さに向き合おう "にも通じる考え方。
自分の中に起こる感情には、ヘンチクリンなものを含めていろいろある。
ゴルフ ビジョン54にもあるように、
" 思考は人格そのものではない。頭が思い浮かべる状態にすぎない。
 私たちは一日に六万回以上の思考を行なっている、との研究結果もある。
 だから、心の声がささやく内容を信じる必要はない。"
ということなのだ。わんわん。 

~ 弱さを恥じることはなく、受け容れることもいいのだが、
   弱さを認めるのは、強くなるためである。

思想家であり、武道家であるウチダ先生は
武道において、多田 宏という師匠をお持ちであり、
多田宏師匠が弟子として学んだのが、かの中村天風氏。

中村天風先生の影響も間接的に受けているであろうウチダ先生の箴言をつづけます。

< 型から入る >

ウチダ先生は、型から入る教育の重要性を強調します。

(とりあえず自分の内面なんかどうでもいいから)
「敬意と礼儀正しさを示す型を正しく践む」。

~ 心からの敬意がないのに、かたちだけの敬意を示すなんて偽善だ、という「正論」を言う人間が沢山います。
  先生や親に「心からの敬意」が持てないんだったら、
  その通りの態度を示すのは、むしろ他者に対する「誠実さ」ってもんじゃないの?みたいな。
  まるで違います。
  まず「型から入る」。
  これは精神論ではなくて、純粋に技術的な議論です。
  
「心からの敬意」や「自発的な礼儀正しさ」なんて持たなくてもいいのです。
自分の内面なんてものを無視する、
あたかもそんなものは存在しないかのようにして始まるのが
師という他者とのコミュニケーションにおける最初の一歩。


  「礼儀正しい」というのは「型通り」ということであるが、「型通り」のルーティンを守ることは、生存戦略上有利である。
  なぜなら、ルーティンを守っている人間はそうでない人間にくらべて
  「いつもと違うこと」の発生を察知する確率が高いからである

  「型通り」を「自己表現の断念」というふうに否定的にとらえる人がいるが、 
  「その局面においてもっとも適切な型」を選択できるかどうかは、
  個人の社会的能力を査定する上で、おそらくいちばん重視されている点である。
  「決められた型」を「型通り」に演じてみせるためには、
  場を構成する人間関係の序列や位階、自分がそこで果たすべき機能を見きわめ、
  用いるべき語詞、声の音質、身体操作などを適切に選択することが必要であり、
  そのためには長期にわたる訓練と人間観察が不可欠である。
  だから「型を使う」能力を、私たちはその人の社会的能力そのものの指標に取ることができる。


  礼儀知らずが増えた最大の理由は、
  私たちの生きている世界がろくな生存戦略を持たない人間でも生きていけるほどに「安全」なものだったからである。
  だから、逆に言えば、「礼儀正しいことの必要性」が改めて言われるようになったということは、
  世の中がそれだけ「危険」なものになったということである。

  礼儀知らずが増えた第二の理由は「自己表現」とか「自己実現」とか「私らしさ」とか
  「オリジナリティ」とかいう悪質なイデオロギーをメディアがまき散らしたせいである。


<他者にパスを出すこと>

  思慮のない若者は「自己実現のために」とか、「おれの生き様を示すために」とか「自分探し」とか言うが、
  それは寝言である。
  仕事の本質は、他者を目指してパスを出す、その運動性のうちにある。
  私たちは「自分のために」「自分に向けて」「自分に何かをもたらし来すために」
  仕事をしているのではない。

  「社会的プレステージ」や「自己実現」して仕事をすることではなく、
  他者にパスを送ることに意味がある。

前に、うえの子が親にインタビューするという宿題があって、
仕事で大事なことはなんですか、って問いに、
" サッカーと同じで、ボールが来たら、タッチしたボールにバリューを加えること、
 横流しやスルーパスはいけない。"
みたいなエラそうなことを語ったことがありますが、似たようなニュアンスを感じる言葉です。

夢のような理想に過ぎませんが、私は、
阿弥陀如来の如く、
自分を通り過ぎると、淀んだ空気でも薫風に変わるような、
もっとオーバーに言えば、手に触れるものが黄金に変わるような、
そういうバリューを加える、磁場を持ったような人になりたい、と思うことがあります。
(ほんとは邪悪でふらふらした人間なのですが。)
 

それはさておき、ウチダ先生の考え方の根本にあるのは、
物事は静止した理想状態のような最終形があるのではなく、常に変化する運動体なのだ、
ということだと思います。
タンホイザー序曲 ~ 大海にそそぐ前は静止系か )


~ 「自立者」というのは、自分がつかまっているもの、自分につかまっているもの、
   そういったネットワークに巻き込まれた中で、自分の「いるべき場所」を見つけ出すことのできる人なのだ。

   満員電車で、一人だけ「わしはこの場所、動かんけんね」的に「自立」しているおやじがいると、
   はた迷惑だろう。
   こういう人は、自分の空間的位置を「車両という静止的な座標系」の中に位置づけていて、動こうとしない。

   だが、ほんとうの座標系は、車両を満たし、流動している乗客たち相互の「動的な」力学的バランスの中にある。
   システムの中で生きる正しいマナーとは、
   その「動く座標系」に即して、自分の位置を決める、ということだ。

長くなりましたが、一連のガリレオ的 頭の中の地動説展開運動、
丘の上の馬鹿と呼ばれながら、沈む太陽の真実を理解している男の歌。

The Beatles Fool On The Hill HD Quality

『 断定するということは、誰かが断定的に言ったことを繰り返しているにすぎないのだが、
  断定的な物言いに、人は勝手に気後れしてしまう。
  一方で「ほんとうのこと」というのは、決してきっぱりと言い切ることのできないものなのだ。
  本当に感じていること、本当に言いたいことを言葉にしようとすると、
  常に言いすぎるか、言い足りないか、であって、決して言いたいことを過不足なく言うということは起こらない。
  だから、「ほんとうのこと」を言おうとする人間は、
  結局つねに「断定する人間」に負けてしまうのだ。 』
 ~ 内田 樹(たつる)

 =  今日は冴えてるな。ネギでも食べてきたか。
    私が今日しゃべったことは、ぜんぶラカンの請け売りなのだが、まぁ、そういうことだ。



期間限定の思想―「おじさん」的思考〈2〉
内田 樹
晶文社
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モーツァルト交響曲 No. 40 ~ 悲しみのシンフォニー

2010年09月08日 | お気に入り♪(クラシック)
シューベルトはこの曲を聴いて、
"神の声が聴こえる"と言って涙した、といいます。

モーツァルトの曲の中で、最も好きな第40番シンフォニー。
よくある端正なモーツァルトとは趣きが異なっていて、
深い悲しみを内包しながらも、ある種の優しさを感じさせてくれる曲です。

人間に必要な3つの幸福で書いた、ぎりぎりのつらさ、があったとしても、
何とか持ちこたえる勇気が見えてくるような曲。

有名な冒頭のメロディーが2回目に少し形を変えて出てくるところを聴くと、
シューベルトの気持ちが分かるような気がしてきます。

 シューベルトの「楽に寄す」は、このブログのテーマ曲にしたいくらいのお気に入りの一曲。

Mozart: Symphony No. 40 / Pinnock Berliner Philharmoniker


<初稿 2009/8/20>

<第2稿 2010/9/8>


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ハーフ40切りの前のステップはハーフ41

2010年09月05日 | ゴルフィーライフ(Myスイングチェック)
老境についての考察三部作、
Ⅰ「成熟の仕方 ~ 大海にそそぐ前の出来事」、
Ⅱ「タンホイザー序曲 ~ 大海にそそぐ前は静止系か」、
Ⅲ「大人は愉しい ~ 薄闇の向こうへの誘い」)
を経ての、
新たな歩み。

「大海にそそぐ前」の荒川を横目に。

(↓) むくむくと雲が起き上がってた。夏の終わりの薄やみの手前。

  荒川の芝生が近所にある幸せ



ハーフ40切りとか、エラそうな目標を掲げてましたが、
ステップbyステップで、高みを目指すことに。
まずはハーフ41だ。

(↓)おいおい、気は確かか。

72へのゴルフプログラム―めざせパープレー! (GOLFマネジメントシリーズ)
角田 陽一
ベースボールマガジン社

人は自分のイメージする範囲の者にしかなれないと言いますから、
とりあえず可能性を信じることに。

しかし、まずはハーフでpar(ホームラン)4つ、boggie5つの41を目指す。
boggie5つ>par4つ、というのは、ボギーペースを基準としたParを奪取していくゴルフ。
Par5つ>boggie4つだと、parを基準とし、boggieを4つまで許すゴルフとなり、レベルが上がる。
調子が良かったり、ラッキーで出ることはあっても、
波を小さくしていくことが肝心、
ベストスコアと平均スコアののギャップを埋める努力を始めよう、
ということで、まずはハーフ41から。

(↓)自分に足りないラッシュ力をつけるのは、100Yからチャンスメークして決める力。

  100Yから右へ左へボールが散らばることが多い。
  (むしろ150Y以上あった方がエイミーな感じがして、少なくとも100Yよりは人より狙える自信があったりする。)
  これは目線がビシッと決まって、うまくいったショット。
  両肩の高さやスタンスを揃えることに気持ちを向け、ヘッドアップせず、
  体の重心を感じながら、体の正面で、丁寧にボールを拾えたショットをイメージづけ。
  なんだか、ヘッドの先まで意思が及んでいるような感覚があったぞ。

CIMG0963

(↓) 横の距離は見事にピンに絡んでいる。
  パッティングがそんな下手くそだとは思ってないのだけど、ラウンドでも、こういうチャンスで、こういう気のないヘボパットをする。

  喝 ! ナイスショットを生み出すのはスキルだけど、スコアを作るのはココロだ。

  この噛みあわせの悪さ、を考えるにつけ、自分はゴルフに向いてないのだと思うことがある。
  もっと自分に向いてる事をやった方が快適ではないのか。
  なんだか、できてしまうことは避けて、不得手な、あるいは新しいモノを指向したがるのはクセなのかもしれないとも思う。

  でも、自分に足りないところを、これほど自覚させてくれるモノもそうそうない。
  だから、ゴルフはやめれない。

CIMG0964

 フジサンケイ・クラシックで優勝した石川遥選手、
 3日目首位に立った時に、
 " 優勝は近づいたと思ったら、離れていくと思ってプレーしたい"と言っていた。
 気持ちを緩めぬよう自覚している、ゴルフのスコアが崩れるココロの綾を私よりよく知っている。


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大人は愉しい ~ 薄闇の向こうへの誘い

2010年09月05日 | 心の筋力トレーニングを続けよう
ウェブ日記には、既に専門の研究論文や学会まであるらしい。
大人は愉しい―メル友おじさん交換日記
内田 樹,鈴木 晶
冬弓舎

鈴木先生はバレエや舞踏研究が得意分野のようで、機会があれば著書に学ばせていただこうと思ってます。
バレエのあのしなやかな動きには興味があるから。
ラホールの仏陀もそうですが、草刈民代さんの姿勢とか、トレーニングの時に意識するといいかも。

「大海にそそぐ前」と鳥瞰していたかと思えば、こんな自己肥大的コピーにふむふむと頷く。
まったくもって、煩悩まみれなことよ。(-"-)




両氏とも非公開を前提とした個人的日記を書く習慣はなかったのだけど、公開を前提としたウェブ日記にはハマったといいます。
私の場合は、日記的な、日常のあれやこれやを書くつもりはあんまりなくて、
気分転換の趣味でありながら、ゴルフや諸々の気づき、
知的トレーニングを継続するためのツールやビジョンボード、といったような、
ブログを使った自己向上プログラム的な仕組み作りに興味があるのですが、
両氏のハマった理由の説明が明快でした。

  ウェブ日記を書く作業が私にとって楽しい娯楽であるのは、ここで造型されたヴァーチャルな「内田 樹」が
  現実の私よりずっと自由ででたらめな人物であり、
  そのキャラクターのフィルターを通して、「私の現実」を追体験すると、
  自分の索漠として散文的な生活が、なんとなく愉快そうなものに思えてくる、
  という「日常の劇化」という効果があるからです。

  読者の眼で読んでいる第三者としての私が、文体や文章の内容に強いバイアスをかけ、
  ここでの「内田 樹」氏は現実の私がしたり思ったり、感じたりしていることの一部だけを選択的に経験し、
  その性格の歪みや偏りをことさらに誇張した人物になっている。
  しかし、この「日常の劇化」、あるいは「セルフ パロディ」というワンクッションが入るせいで、
  非公開の日記を書く時よりも、私は自分の生活についてかえって嘘をつかずにすんでいるのではないでしょうか。

  ウェブ日記には、自分のなかにわだかまっている複数の人格をいったん解離させ、
  それをもうひとつ上位のレヴェルで統合するという、プロセスについていえば、
  ある種の文学的行為と相通じるものがあるように思います。

ブログにしようかと思うと、視点を変えたり、違った切り口を探すクセがつくようなところがあります。
これが結構いい気持ちでハマる。
書くことによって、これまでならその時その時で埋没していたテーマが、残り、つながる。


(↓) 「博士が愛した数式」の小川洋子さんの本を紹介していたやつ、架空の日記という発想が面白かったのでスクラップ。

   消えてなくなることもない小さな幻想、
   そこに混じる琥珀のような現実のかけら、
   薄闇の向こうへ誘うユーモラスでエロティックな小石、


ウチダ先生は、
本には、私に個人的にメッセージがある人が書いた本と、
そもそも私宛に書いてない人が書いた本の2種類があって、
読者は自分に語りかけてくる本を探し当てるものだと言います。

薄闇の向こうに誘うような本、というのは上手いこといいますねぇ。

吉本隆明氏が言っていたことを思い出しました。

~ もし、ひとつの書物を読んで、読み手を引きずり、また休ませ、立ちどまって空想させ、また考え込ませ、
  ようするにここは文字のひと続きのようにみえても、じつは広場みたいなところだな、と感じさせるものがあったら、
  それは小さな世界だと考えてもよいのではないか。
  そういう場所に行き当たった読み手は、ひとつひとつの言葉、何行かの文章にわからないところがあっても、
  書き手をつかまえたことになるのだ。

こういう書き手を見つけて、薄闇の向こう側にどんどん誘われてみたいものです。
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タンホイザー序曲 ~ 大海にそそぐ前は静止系か

2010年09月05日 | 心の筋力トレーニングを続けよう
ワーグナーのタンホイザー序曲。
個々の楽器が散文的に跳ねながら、全体としては纏綿(てんめん)なるタペストリーの如く、
滔々と大河のように流れていくさまに
スケールの大きな営みを感じます。

「大海に注ぐ前の穏やかさ」というのが、決して静かなだけの世界ではなく、
このようなダイナミクスに心躍るような境地であればそれは素晴らしい。

老境をもって、「前」というのが、希望があっていい。

老境は静止した理想状態であるべし、なんて、だと考えるといけないと思う。

~ どんな社会理論もすべて、なんらかの静止した状態、安定した状態、最終的な「理想状態」を描き出してしまうんです。
  マルクスにせよ、人類の歴史は階級闘争の歴史であるという分析までは正しいが、その分析から導かれる最終的な目標が、
  「階級がなくなる社会を作らなくてはならない」。

~ 不均一なものが一つにおさまって、シーンとなって、動かなくなって、
    みんなが同じことを毎日繰り返すようになることが歴史の目標なのだといったら、それはウソでしょう。


「理解の及ばなさ」でさえも人によってユニークなもの。

変化するものが、ウソや既成観念に固められて動かざるものになっているだけかもしれない、、

ガリレオ的、頭の中の地動説展開運動、
こういう感覚を積み重ねていけば、歳を重ねてもグレーになるだけでもないのかもしれない。
グレーも悪かないとは思うけど、隠し味はカラフルな方がなにかと便利ではないのか。

TannhauserOvertureRehearsal(2/2)

カラヤンの語る内容は、意外に思えるほど謙虚。
" 邪魔をするな "。
自然や生き物の理に沿うだけでいい。

大人は愉しい―メル友おじさん交換日記
内田 樹,鈴木 晶
冬弓舎

~ ネット時代になり、印刷書物テクノロジーがもたらした同一テキストの大量生産による
  一対多の啓蒙的教育システムや権威が解体される。

大学の先生(なんとフランス思想と古武術・体育のかけもち)でもあるウチダ先生ですが、
 " そう、それでいいじゃないの。悦ばしいじゃないの。 "

ユダヤ教の聖典、タルムードでは、その師弟関係の中で「口伝」によってその解釈が継承されていく。
「どれほどの知識を持っているか」より、
その知識を「どういう仕方で伝授されたか」の方が重要。

「知」を実体(知識の量)だと考えると受け容れにくい考え方だが、
「知」を「他者に出会う仕方」、「転移の経験」だと考えることで納得性が出てくる、とのこと。

ヘ?(・・?

~ 教授が学生に伝授するのは知識ではない。
  膨大な知識の中をどうやって泳いできたか、というある種の生き様である。

なるほど。

知識もまた、静止したものではなく、動き(ダイナミクス)のあるもの。
~ 凍結された教えは、解凍して、本来の生命を賦活させるために、「対話と論争」の状態に戻してやらないといけません。

静止系ではなく、動きのある系で世界をとらえ直していく
ということが大切なのだ、とふみました。

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成熟の仕方 ~ 大海にそそぐ前の出来事

2010年09月04日 | 心の筋力トレーニングを続けよう
よく素人の川柳や俳句が新聞などに掲載されているのを目にします。
あんまり興味ないや、と思ってたのですが、
メトロの宙吊り広告の私の文学館にふと眼が止まりました。

激流となって岩を削り、峠や森を渡ってきた水たちが荒川にたどり着いた様子を綴った文章です。

 ~ ここから見える川の水は旅をしてきた者たち
    大海にそそぐ前に
    こんなにも穏やかな顔になるのだ

短い文章ですが、惹きつけられるものがありました。

「大海にそそぐ前」の出来事とまとめてしまう器量の大きさに、
釈迦の言葉にある、「ととのった人」を感じました。

 ~ ただ歳を重ねただけの、むなしく老いぼれた人は世に多い。
   おまえが歳をとるのならば、そのときは、誠実で、人格があり、悲しみに溢れ、
   何をしても他人をそこなうことなく、また慎み深く、身と心がととのった、
   そういう人になるように。( 超訳 釈迦の言葉より)

ブッダ入門 (仏教 入門シリーズ)
中村 元
春秋社

釈迦はその生涯の終りに、ガンジス河を渡り、ヴェーサリーに入り、生まれ故郷を目指す途中で入滅したといいます。
そのヴェーサリーという地で語ったのが
「自らを州とせよ」ということ。

洲(す)というのは、原語では「ディーパ」、洪水で一面海のように水浸しになった時に、
みんなが難を逃れるちょっと高いところ、を意味する。

この世で自らを島とし、自らをよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ、

自分に頼れとは、自分を自分たらしめる理法、ダルマに頼るということ。
釈迦には「おれがこの仲間を導くのだ」という意識はなかった、といいます。
では何が導くのか。
それはダルマ(法)、人間の真実、
それが人を導く。

決して傲慢なのではなく、「百万人が反対しても、自分はこの道を行く」。
なぜ、そう言い切れるのか。
それは、あるべき道、あるべき姿、にしたがっているから。
「自分に頼る」ということは「法に頼る」ということとは実は同じ。

人につくな、事につけ、
自分の中のモノサシ、判断基準を磨け、ということですね。

人間は、誰もが、本質的に、おごりたかぶる者であることを釈迦は若いときに既に気づいていたといいます。
奢り高ぶってると非難する人も例外ではなく、人間だれしも、
自分はまだ若い、元気だ、さらには、まだ生きてる、といった具合に、
空虚なおごりを持っているがゆえに、若い時をむだに過ごし、健康をむだにするような事を行い、生きているうちにすべきことを怠ってしまう。
それなら、まだ見出されていない、人間の本質的なおごり、を超えたよりよきものを見出そう、と考えたのが釈尊。

生老病死、釈尊の反省は、そのまま自分にも当てはまります。

~ 迷っている我々凡夫は、自ら老衰の運命を免れない。
  それなのに、他人が老いさらばえた姿を見て嫌悪の情をいだく。
  しかしこの嫌悪の気持ちはやがて自分自身に向けられてくるのではないか。
  何とあさましいことであろう。


親にいいことを教えてもらった、と感謝している言葉があります。
" 上手に子どもに負けてやること "。
いい言葉でしょ、"負けてやる"ってとこが。
子どもを立ててやりながら、まだまだ本当は負けんぞっていう親の面目も失っていない。

老人に接する態度のベースになるような、拮抗した感じのいい言葉を私はいまだ見つけられません。

丹下誠司さんという方の「インド通信」というHPに、釈迦の内面に迫るような素晴らしい写真を発見しました。
ラホール美術館にあるガンダーラ彫刻の至宝、苦行する釈迦の像。
釈迦族の王子として生まれた、人間ゴータマ・シッダールタの姿を生々しく伝える2世紀頃に作られたもの。
釈尊は、苦行をやめて、河で身を洗い清め、村のスジャーターという娘の捧げた乳粥を食べて元気を回復した後に、
菩提樹のもとで瞑想し、悟りを開いたと言われます。ブッダとは目覚めた者を意味するサンスクリット語。
目覚めたのは苦行を捨ててしまった後、心身をととのえた後、のこと。




私は、休日にプールでストレッチ&ストレンクスで、心身をリセットするのを習慣化してますが、
この、首筋と肋骨と腹部、
身体意識における『制空権』と『膜』の概念のイメージにそっくりあてはめることができます。


仏の悟りの境地を表現したと言われる曼荼羅。
空海によって中国から日本に伝えられた密教が伝える美の世界。
魂の花火のごとく、魂の深くにうごめく神秘。

密教のベースは、すべての現象は仏の現れであるという考え方で、
真言(マントラ)を唱え、手では印を結び、仏を思って、一体化することを説く。
自分自身もまた仏であると気づくこと、即身成仏の教え。

この誰もが持っている仏性、生命に宿る美しさ、というものは科学的にも明らか。
そこに思いを至し、
立ち昇る感情を意識に上げてコントロールする

Mandalas Vision - Spread your Light

先日渋谷のHMVが閉店しました。ダウンロードして音楽を聴く人が増えて、CDは売れないらしいですが、
初めて私が買ったレコードがこれ、ゴダイゴのガンダーラ。
イントロのギターとかえも言えぬ郷愁を誘います。

「イエス、アイ サンキュー」や「時の落とし子」、良い動画を探しています。

ガンダーラ / ゴダイゴ
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