ゴルフィーライフ(New) ~ 龍と共にあれ

目指すはスクラップ・ブックか、はたまたビジョン・ボードか。
隠れ家CLUBゴルフィーにようこそ♪

ノイズではなく、意識の粒は運動しているのだ

2010年10月11日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

ラッキーナンバーってありますか。

私は2、5、7あたりに惹かれる。( 意味はあんまりない。)

ジョン レノンは自身の誕生日の数である9を好んだ。歌にもよく出てくる。

John Lennon number 9 dream


終章で手じまいにしたはずなのに。。

~ 今のところ科学がうまく扱えているのは、すべての質量が点として存在しているかのように扱える単純な物体の運動だけ。
  意識や生命現象のように、関係性が複雑に絡み合って変化していく偶有性の運動学は、まだ発展の諸についたばかりだ。

~ 私たちの意識の中に現れるクオリア(認識の粒)も、静止した結晶的表情に見えても神経ネットワークの運動学に属する。

旨いこと言うなぁ、と感嘆したのは、

" 神経細胞の運動の不規則性を、従来の「秩序」対「非秩序」の枠組みで評価すれば、「ノイズ」ということになる。
生命の運動原理に慣れ親しむ方法は、
自分の意識や無意識が、いかに偶有性を持った、変化や推移に満ちたものかをメタ認知(客観的に認識すること)すること。"

「ノイズ」と切り捨ててしまうのではなく、運動体と考える。

うまく、禅の考え方なんかに寄せていければ よいのですが。

生命と偶有性
茂木 健一郎
新潮社


人間は「人間にとっての真理」しか知ることはできない。

人類は、言語や数学を「発明」し、自然界の中のさまざまな鉱脈(定理や法則)を「発見」してきた。
人間は、物事を類型化しパターン認識することで、抽象的思考を獲得してきたが
人類の脳の構造上、認識パターンを拡げることはできても、認識できないパターンもあるはず。

数学は、人間の因果関係を認識能力を拠り所として発達してきたもの。
数学が普遍的なものであり、人間の存在とは無関係な実在である、というのは、迷妄である、とばっさり。
人類においても、序数(1st、2nd)と自然数、ゼロの発見や、負の数や虚数、様々な数学の文化史があった。
他の天体の宇宙人と数学が共有できるはずがない。
(認識する世界、パターン、が違う。知覚する世界が違うのだから。)

"文系、理系の志向を交差させて一段高い立場から思索することを好むタイプの感性をお持ちの方々へ"
数学者からのプレゼント。

なんだか、褒められたみたいだ。


〓2(るーと2)の不思議 (ちくま学芸文庫)
足立 恒雄
筑摩書房



 
  

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金木犀日和((キンモクセイびより)

2010年10月10日 | 日記
この3連休は、子供の受験に備えて、年末近くにバタバタしないよう 前倒しで少しずつ大掃除を始めようということに。

年末の恒例行事となってましたが、新たにワックス落とし専用のクリーナーとブラシを買ってきたら、
これまで十分にワックスが拭き取れていなかったのか、垢のようにボロボロと、ワックスの膜を剥がすことができる。

ぷっちん、と同じで、ワックス落としに夢中になりだしたら、
昼から日がな作業をしていたのに、リビングと台所だけで終わってしまった。。
(しかも、リビングはおよそ半分を残して夕暮れに。明日もするのか、、(ーー;))

TVを観る、という習慣があまりないのですが、
いつものように、朝からだーっと駆け足でワックス掛けをすることなく、
昼からのんびりTVつけながらやってると、TVが面白い。

「あの日に還れない」って番組で、
ハンダースっていう、昔流行ったお笑いグループのメンバーのその後、あの人は今、的なドキュメントをやってました。
メンバーの中では、比較的普通の生活を送っているアパッチけん氏が、
"あがくと、かえってよくない。今が一番楽しいですよ。"と語っていたのが印象的。
ついつい華やかな人たちをスタンダードに考えがちだけど、
世の中、やはり、そんなに甘くない、、あがき、苦しんでいる人たちも多い。
(というわけで、シード落ちから這い上がってきた横田真一、13年ぶり優勝のゴルフ中継、見そびれました。。)


力の入った特番だと情報量はハンパではない。
制作に携わった人達の幾人ものパワーが費やされているので、当たり前といえば当たり前によい。
TVは低俗だ、みたいな話はどうも通説、固定観念に近いような気がしてきた。
読書やネットのほうが、能動的に情報を取りに行くという側面はあるが、
逆に言うと、自分に必要な、あるいは興味ある物事にしか向かわなくなる。
つまり、入ってくる情報がタコつぼ化して、偏りがちになる。

ふらっとTVみてると、バッファローに威嚇されるライオン、とかへぇ~ってのを見かけたりもする。

ネットもいいけど、"そうだ、もっとTVみよう"、って思いました。

力の抜けたこういう過ごし方、悪くない。
せっかくお気に入りの居場所があるんだったら、外出に時間とられる方がかえってモッタイないのでないか、と感じるようにもなった。

リビングからの借景になっているカキの木で、実った柿を収穫してる様子を10年居て初めてみた。

ウチの近くの金木犀(キンモクセイ、漢字で書くと、薔薇や檸檬と同じでブンガク的な感じがする。)。
近くを通ると、芳しい匂いに立ち止まってしまうほど。
午前中の雨がウソのような秋空にオレンジ色の花をいっぱいにつけています。





こういう過ごし方の日は、気持ちも優しくなる。

Treat Her Gently,  Treat Her Kind     彼女には 穏やかに 親切に接して
She Doesn't Even Know Her Own Mind   自分自身の心がわからなくなってしまったのだから 
Treat Her Simply , Take It Slow , Make It Easy  簡単に ゆっくりと、易しく
And Let Her Know  You'll Never Find Another Way  そして彼女無しで 道を歩いてはいけないことを知らせよう

Treat Her Gently/Lonely Old People


YouTubeのコメントどおり、A gentle reminder な曲。

自戒。

~ 迷っている我々凡夫は、自ら老衰の運命を免れない。
  それなのに、他人が老いさらばえた姿を見て嫌悪の情をいだく。
  しかしこの嫌悪の気持ちはやがて自分自身に向けられてくるのではないか。
  何とあさましいことであろう。
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ジョン レノンの新曲??

2010年10月10日 | お気に入り♪(ビートリー_見つけもの)

グーグルはイマジンのBGM映像つきでジョンの70歳の誕生日を祝い、



YouTubeにもジョンのトレードマークが。

じゃじゃーん、ジョンの新曲のような堂々とした音楽。

John Lennon " Now and then" reprocessed - Paul Newell


ジョンの残したピアノ デモから起こしたものですが、素晴らしい出来栄え。
オリジナルの冒とく、みたいなことをいう向きもありますが、
オリジナルはオリジナルとして、いろんなアプローチやマッシュアップで音が磨かれ、
バリューを高めることは どんどんやったほうがいいと思う。

1990年代のアンソロジーの頃も、ビートルズの面々が集まって、
ジョンの残した" Free As a Bird”をもとに、中間部を書き加えて、レコーディングしました。
ジョンが曲を書きかけのままバカンスに行ってしまった、という設定にしてレコーディングしたといいます。

オープニング、2拍子だけでリンゴのそれとわかるドラム、
控えめながら迫真の、ジョージらしいスライドギターを添えて、
付け加えられたミドルのVerseは、Lennon&Mccartney復活、みたいな陰影のある抑揚があって、
少しずつ音階をあげていくポールの声も、ビートルズ時代のサイド ボーカルで見せたような歌いっぷり。
映像は色々な曲がモチーフに出てくる、ファンにはたまらない内容でした。


The beatles - Free As A Bird (HD)


うえの子は、この曲をおなかの中でよく聴いていました。


( ↓ )このような映像まで。
   「離山房」、小さかったうえの子を連れて行ったところ。


ジョン・レノンが愛した軽井沢 万平ホテル BGM イマジン


~ かつて、父親の膝にまとわりついていた幼い私は どこに行ってしまったのか。
  目を輝かせて風の中を歩いていた若者は、いかなる虚空に消えたのか。
  「今」という特別な時間は、いかにして あっという間に 薄ぼんやりとした過去になってしまうのか。
  (「茂木 健一郎/生命と偶有性」より)

  ジョンが生きてたら、どんなに素晴らしい音楽がもっと生み出されていたでしょう、
  ってYoutubeにコメントがありました。
  世界の偶有性を感じずにはいられません。





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サプライズ、サプライズ ~ レディ・ガガ

2010年10月09日 | お気に入り♪(ビートリー)
ジョン レノンの生誕70年ってことで、ニュースがいろいろ出てるなぁ、って見てます。

ヨーコさんてもう80歳近いんでないの!? サプライズ。。

レディー・ガガとオノ・ヨーコが共演!強烈なツーショットが実現 - goo 映画



~ ガガは以前オノ・ヨーコが暮らすニューヨークのダコタ・アパートを訪れた際に、
   亡き夫ジョン・レノンのピアノをガガが演奏している写真を二人の息子であるショーン・レノンがツイッターに掲載し、
   ジョン・レノンのファンからの抗議が殺到したことがあった。
   今回のコンサートもレノン一家とガガとの親交から実現したものと思われる。 ~

ジョン レノンがエルトン ジョンと共演したSurprise suprise
Sweet as a smell of success、 Her body is warm and wet
って始まって、
サビですとんと急にメロディアスになる。
John Lennon & Elton John - Surprise, Surprise (Sweet Bird of Paradox)


がお~、。 朝からやばいな、これ。。
約4千万回も再生されてる、、ジョン レノンもバンド名に使ってた、プラスティックな感覚。
ジョン レノンの言葉を借りれば、I was blind she blew my mind って感じ、
コラボや交流が目覚めさせる新しい感覚。

Lady Gaga - Paparazzi
 

(↓)これ、すごい、驚いた(@_@)。サプライズ、サプライズ。

グレイソン君 レディ・ガガの「パパラッチ」天才少年.flv


車犬でなくて、車ドック、に行ってきます。わんわん。
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City Lights とペトロナス・ツインタワーでの出来事

2010年10月08日 | 旅と帰省とお出かけと
フライデーナイトといえば。。

フライデーナイトファンタジー/ピエール・ポルト・オーケストラ


そして、夕刻から都会のイルミネーションが眩しい夜へ。

10cc - City Lights

( ↓ )これは有名なクアラルンプールのペトロナス ツインタワー。
   
    おっ、ちょっと話を脱線させますか。



    出張で新商品のフィールドテストに行った場所。
    無事任務を終えて、昼間このタワーの前で、
    カメラを持って佇んでいると、短時間の間に次から次へと怪しい人たちに声をかけられました。

<1人目(1組目)>

      インド系の目鼻立ちのはっきりした中年の性格のよさそな美人。
      噴水を眺めながら、腰掛けていると、" 日本から来たのですか"。
      (いかにもって感じの分りやすいマレーシアン・イングリッシュでしたけど。ボルネオから来たようなことを言ってました。)
      話は弾んで、そのうちお互いにファーストネームで呼び合うように。

      (名前は忘れてしまいましたが、仮にここでは、アンヌとダン、ということにしておきましょう。(・・?))
      なんでも横浜にアンヌの友達が住んでいて、淋しい、って手紙を寄こすらしい。

      "ダン、埼玉って横浜の傍なの?"

      " アンヌ、近いと言えば、近いけど、車で2時間くらいはかかるよ。"

      " 近いじゃない、ダン!"

      " あなたのような人が日本にいると安心すると思うから、是非会ってあげて。"

      " う~ん、今はこうしてるけど、日本に帰ったら仕事もあるし、なかなか思うようにはいかないと思うよ"

      " もう、ちょっと詳しく話をしたいわ、
       私 ここで友達と待ち合わせしてるんだけど、友達が来たら、ランチでも一緒にどう、ダン? "

      (遠くから、手を振りながら友達登場。
       アンヌは、僕のことを紹介している様子。登場した友達を、そうだなぁ、仮にヌーと呼ぶことにしよう。)

     (ヌー)" ハーイ!ダン!(親しげに腕を絡ませてくる…。)"

     (アンヌ)" ダン、それじゃあ、ランチでも食べながらゆっくり話しましょう。"

     (アンヌ)" ダンはとっても いいひとなのよ "

     (ヌー) "いきましょ!ワタシおなか空いてるの。何をご馳走してもらおうかな~"

       (やべぇ、ヌーを見た瞬間にバタ臭いと思ったが、こいつら詐欺コンビに違いない。。)

     (ダン) " あ、用事思い出した! 一旦、ホテルに戻らないといけないんだった。
           ランチ食べてる時間がもうないや。。さよなら。"

     2年以上前の話なので、ちょっと脚色入ってるかもしれませんが、こんな感じ。
<2人目>

      というわけで、噴水の前を後にして、タワーの傍の公園のベンチでガイドブック見ながら、やり過ごし、
      おじさんよろしく、ゴルフスイングの真似ごとをやってると、
      今度は、バブリーな時計やネックレスをつけた体格のいいオシャレなお兄さん出現。
      ゴルフ(スポーツ)を愛する気持ちは国境を越える。

     " ジャンボOzakiを知ってるか?"
     " オレの友達はOzakiの知り合いで、マレーシアのツアープロだ。"
     " 車ですぐだから、紹介してやるよ。"

      もちろん、ノーサンキュー。(-"-)

     " わかった" (意外に理解がいい、さすが紳士だ。)  
     " ここで出会った、友情の証に、おまえの被っているその帽子をオレにくれ。"

     (ー_ー)!! ( なんで、この暑いのに、おまえに帽子をやらんとアカンねん。。)

    もう、こんなとこに居るのはよそう、と思ったら、対岸を歩くアンヌとヌーが手を振っている…。 (-_-メ)

<3人目(3組目)>

     あー、もういやって気になって、
     そそくさと、そこを抜け出すと、今度はイスラム装束をまとった体格のいいお兄さん方が、
    " おまえは幸運の星の下に生まれた、いい顔の相をしている。
     おれたちはstorytellerだ、おっ、そのホクロ、聖なるホクロだ、いいぞ。"
    と まとわりついてきた…。

    勘弁してくれ~!って、シェラトンホテルのカフェに逃げ込んで一息ついてから、
    夜の帰りの便までたっぷり時間がありましたが、空港のラウンジでゆっくりすることに。
   

    半分 仕事入ってましたけど、いいとこでした。
    ラウンジの大きな窓からは滑走路が見えるし。

   中央の透明な円柱形の小型エレベータで上がると、

    

 シャワーも使える、ラウンジのメニューは食べ放題、


ここはスタッフの応対も良くて、気持ちよく、のんびり過ごせました。


      
  クアラ、万歳。    
      
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starting over、もう一回始めよう。

2010年10月06日 | 日記
2000年10月9日、21世紀を目前に控えたジョン レノンの誕生日にオープンしたジョン レノン・ミュージアムが
2010年9月30日で閉館になりました。


( ↓ )当時のさいたま新都心は、まだまだ建設途上でした。



( ↓ )21世紀が明けて、早々に訪れた頃。



  私の眼下の川は、やがて流れることに倦む(うむ)のか?
  空を吹く風は、いつか飽きてしまうのか?
  雲はいつしか空を行くことから離れるのか?
  心臓は打つことを止めるのか?

  とんでもない。
  川は流れ、雲は空を行き、心臓は鼓動する。
  死ぬことはない、万物はただ変化する。       
                              (テニソン ~映画「エレファントマン」で引用された詩からの抜粋)

" 狂った時代のスクラップブックを眺めながら、アイルランドの岸の傍みたいなところで暮らすナイス カップルでいたい。 "

 還ってくるところは、こういう「偶有性」に満ちた自然。 starting over、もう一回始めよう。
 
John Lennon - (Just Like) Starting Over-HQ
 

~ 私は、全く別の存在でもあり得た。
   想像もできない志向性を持ち、運命を担い、あがいているということも可能だった。
  
  いや、すっかり出来上がってしまった大人の「今、ここ」からさえも、
  全く違った人生を歩むこともできるだろう。
  流され、もがき、泳いでいるうちに、気がついてみると私は思いもかけぬ変貌を遂げている。
  そのようなことは、あらゆる人に繰り返し起こってきた。

~ 自分の人生にまとわりついている偶有性の目くるめく深淵に思いを致すと、私は不安の中に投げ込まれる。
   同時に、なぜだか分らないが、根源的な生の喜びの中に人知れず胸がときめく。
   すっかり 固定化したもののように思えていた自分の人生が、
   揺れ動き、ざわめき、甘美な予感に満ちた風が吹き始める。

   その時、私は「まさに生きている」と感じる。

  「私は、全く他の物でもあり得た」

  自分にそう言い聞かせることは、人生をその「偶有性」のダイナミックレンジの振れ幅のすべての中で味わい、
  行動しつくすために大切なことである。
  そして、私たちは往々にしてその呼吸を忘れてしまっている。

  どんな人生を歩んだとしても、その「偶有性」を引き受け、味わう覚悟さえあれば、
  生きるということを裏切ることにはならないはずだ。
  
  それが、一回性、偶有性に対する強健な態度。

生命と偶有性
茂木 健一郎
新潮社
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松井選手、応援してます。

2010年10月06日 | 日記
明暗を分けた感のある、今季の松井とイチロー。
イチローのマリナーズでのメジャーデビュー戦を本拠地であるシアトルのホテルで観てたこともありましたが、
私は今、松井に注目しています。
( 東京ドームで松井選手がプロで初めてシーズン30本目のホームランを打った試合を見たのも、いまや10年以上前の話。)

巨人 ⇒ ヤンキース ⇒ エンゼルス、と渡り歩き、来季4球団目となると、私と同じ4社目。

松井と比べるのもおこがましい話ですが、
高度成長期に巨人のONやV9戦士に、企業戦士が自らの姿や憧れをそこに投影して見ていたのと同じようなこと。

変化を恐れずチャレンジングなキャリアを積んできた松井、
今季もまずまずの成績は残しているにもかかわらず、エンゼルスでは確たる居場所がない。
これが生え抜き選手であれば、周囲の見方や処遇も変わってくるように思えます。

なぜ、WBCでもヤンキースという持ち場を優先していたようなフォア・ザ・チームの精神を持ち、実績のある選手が、
ヤンキースを離れてしまうと、その時々の都合にあうかどうかという見方をされて、岐路に立つようなことになるのか。

清原選手もそうでしたが
その偶有性の結果、複数球団を渡り歩く結果となって、
違う選択をしていたなら味わうこともなかった苦しみを抱えてしまう。。
( ← " おまえにふさわしいプロ野球選手としての花道をつくってやる"、という男気でもって
    清原を感動させた仰木監督のエピソード映像が無くなってて残念でしたが、
    清原の引退試合で王さんが声をかけたエピソード、ぐっときます。)

" 他の形でもあり得たかもしれないが、
 今ここにこのような姿であり、そのことを受け入れ、
 しかし一方で他の事態もあり得たことも忘れずに引き受けて進んでいく人生"

36歳(プロ選手の年齢としては中堅世代を過ぎている)、松井秀喜選手、
不条理なんか物ともせず、清々しくプレーを続けてほしい。

大らかな人柄ともども、応援しています。

(↓) スクラップなんぞをやってる人って、今どきあんまり見ないなぁ。(ーー;)

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ソクラテスかプラトンか、宇宙のファンタジー

2010年10月04日 | お気に入り♪(マイナーなラジオ局編)
近ごろ、哲学めいた本をとみに好むようになりましたが、
生命や時空の神秘、人間の意識や宇宙の営みといった根源的で壮大なことについて考える、というのは、頭のリフレッシュにもなる。
いつの時代になっても、人が問い続けるテーマ。

suntory gold akiyuki nosaka
 


哀愁のあるスキャット風のボーカルっていうのは流行りだったのか、近頃はあんまり聞かなくなりました。
ブログの背景が宇宙のうちに、、。

宇宙のファンタジー  
Fantasy - Earth, Wind & Fire


Every man has a place, in his heart there's a space,
And the world can't erase his fantasies
Take a ride in the sky, on our ship fantasii
All your dreams will come true, right away

And we will live together, until the twelfth of never
Our voices will ring forever, as one

Every thought is a dream, rushing by in a stream,
Bringing life to our kingdom of doing
Take a ride in the sky, on our ship fantasii
All your dreams will come true, miles away

Our voices will ring together until the twelfth of never,
We all, will live forever, as one

Come see victory, in the land called fantasy
Loving life, a new decree,
Bring your mind to everlasting liberty

Our minds will explore together, old worlds, we conquer, forever
We then, will expand love together, as one

Come to see, victory in a land called fantasy,
Loving life, for you and me, to behold, to your soul is ecstasy
You will find, other kind, that has been in search for you,
Many lives has brought you to
Recognize it's your life, now in review
And as you stay for the play, fantasy, has in store for you,
A glowing light will see you through

It's your day, shining day, all your dreams come true
As you glide, in your stride with the wind, as you fly away
Give a smile, from your lips, and say
I am free, yes i'm free, now i'm on my way
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人間の孤独を癒す量子論 ~ 偶有性が示唆するもの

2010年10月04日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

茂木健一郎氏、この本でファンになりました。
氏の言う「クオリア」が何を指しているのか よく分からなくて、
今度は「偶有性」か、なんだろ、って思いながら読んでいたのですが、
この方、脳科学者でありながら、生命の神秘や宇宙や自我、時間や歴史といった壮大なテーマを、
科学と哲学を融合させながら、詩的に解き明かしていこうという志向を持った方のようです。
文学的に表現しようとするから、意味不明に感じられる箇所が出てくるのですが、
シンプルに、単に科学的な記述のみに留まるのではなく、
文章にコクを与えて、読み物として美しいものを創ろうとするアプローチに共感を覚えました。

読んでいると、考えさせられるような、示唆に富んだフレーズがいくつも出てきます。

本を貫く「偶有性」(Contingency、随伴性とも訳される)というのは、
「今、ここ」から選びとっていく「たった一度しか起こらない人生(一回性)」を指す。

ジョン レノンのBeautiful boyの中に出てくる、
" Life is what happens to you while you are busy in making other plans"
( 人生とは、他の計画を立てる間に、あなたに起こってしまうことである。)
という一節が「偶有性の海の泳者」のモットーを簡潔に言い表しているといいます。

" 他の形でもあり得たかもしれないが、
 今ここにこのような姿であり、そのことを受け入れ、
 しかし一方で他の事態もあり得たことも忘れずに引き受けて進んでいく人生"

 今の自分とは違う自分、であり得たという思い、誰しも抱くことがあるのではないでしょうか。

しかし、われわれ人間の社会の中での動きも、空気中の分子と同じ。

  空気中の酸素や窒素や二酸化炭素だって、本当は自分の思った通りの所へ行きたいだろう。
  しかし、実際にはそんな訳にもいかず、周囲に小突かれ、運動量を交換し,ジグザグに運動する。
  自分の運命のパートナーがすぐ近くを通ったとしても、そう簡単に出会うことさえかなわないのだ。
  分子たちはさぞや悔しいだろう。

私たちの人生など、完全な意味で自由になるはずがない。
だからこそ、何が起こるかわからない、何者でもあり得たという偶有性の知覚が、
人生において保ち続けることのできる唯一の矜持となるのだ。
私たちは、実際には一人ひとり、「今、ここ」にいるこのような人間になってしまった。
しかし、そうなってしまった私のすぐそばに、
全く異なる人生の履歴を辿っている「もう一人の私」もいたはずなのだ。

私たちの人生の一瞬一瞬は、現実と仮想が切り結ぶ現場である。
一つの実際に起こったことのまわりには、たくさんの起こったかもしれないことがまとわりついている。

人生の豊かさとは、静止したパターンとしてのそれではなく、
まさに運動学の中に理解されるものだ。

そして、

"「今、ここ」からの未来は、過去とつながっているが、過去は育てることができる。"

生命と偶有性
茂木 健一郎
新潮社



茂木氏は科学者らしい視点を持ち出します。こういうテクスト、は好み。
量子論というのは、実に哲学的でもある。

"もっと多様であってもよさそうなのに、
 なぜか、宇宙の中にある電子はすべて同じ質量と電荷を持っている。"

氏は、「私」という意識の成り立ちについても、この世界の根本的な成り立ちに寄り添って考えることを提唱します。

~顔や人格、記憶といった表面上の因子を除去していく時、
 「私」の中核にある自我の中枢は、無色透明な他者と等価なもので、本当は差異などないのではないか。
宇宙のもっとも根本的な中核的な構造と同じく、世界には本当はひとつの意識しかないのではないか。

~ 世界のすべての電子をたった一つの電子の運動として説明した、
  ウィーラーの一電子モデルのような、根本的な世界観の変化を経由して初めて、私たちの孤独は癒されるのであろう。

 以下は、個人的興味からの備忘録。 (図は別の文献から引用。)

(↓)ウィーラーは有名な物理学者ファインマンの友人。
  
  ビッグバンによって、宇宙には粒子と同数の反粒子が生まれた。
(反粒子とは、粒子と質量やスピンは同じで電荷だけが反対の粒子。電子(-)の反粒子は陽電子(+)。)

       

 
  十分なエネルギーが与えられると、光は一組の粒子と反粒子になって(「対生成(ついせいせい)」されて)、宇宙を移動していく。
  逆に粒子と反粒子が衝突して「対消滅(ついしょうめつ)」すると光になり、この世界から消えてしまう。


ウィーラーは、宇宙にある電子がすべて質量が同じであるのは、世界には一つの電子しか存在しないから、だと
いう大胆な仮説を立てた。


『粒子と反粒子は、時間の流れと関係している。
 粒子が過去から未来に向かって運動することは、反粒子が未来から過去へ運動することと同じ。
 逆も同様で、反粒子が過去から未来に向かって運動することは、粒子が未来から過去へ運動することと同じ。』
これは量子力学上の定理。

上図の(2)をみると、反粒子は過去から未来へ向かって運動しているが、
下のように上図(1)の時間軸と空間軸を反転させると、粒子が未来から過去へと運動している。

 粒子と反粒子が反対の時間軸方向への動きが同じ(等価)だというのは、
   量子(粒子や反粒子)は状態であって、配列のごとく、時間に関係なくふるまうという性質のことを指しているのでしょうか。
   それとも時間と空間が虚数と実数の関係にあるように、数学的に証明される事実なのでしょうか。
   よくわからん。。
   (ファインマン博士も、世界に量子力学を本当に理解している人間なんていない、という言葉を残しています。
    それくらい、量子のふるまいというのは日常的感覚からはかけ離れている。)






もし、世界中の電子がすべて、過去のある時点で光から陽電子と共に対生成されたもので、
未来のある時点で、陽電子と共に、対消滅して世界から無くなる、とする。

すると、宇宙の中のたった一つの電子(粒子)が、時間の中を順行したり逆行したりして、
宇宙の中に電子が同時に存在しているように見える。

(ただし、このモデルでは宇宙の中に同じ数の粒子と反粒子が存在する必要があるが、
観測の結果、宇宙には粒子の方が反粒子より多く存在することが分かっているため、このモデルは成り立たないとファインマンは指摘したそうである。)

ビッグバンの時には粒子と同じ数だけあった反粒子が、少なくなってるのはなぜ
ブラックホールに消えたのか、反粒子が反物質を形成した反世界が存在するのか
それがパラレル ワールドなのか 

茂木健一郎×佐藤勝彦


(↓)ネットからの引用です。

 光あるところに影があるように,
 全ての素粒子に対して質量や寿命は同じだが電荷が逆の反粒子というものが存在する。
 たとえば,電子の反粒子は陽電子であり、
 ディラックによる相対論的な量子力学の取扱いによって
 1928年にその存在が理論的に示され、1932年に実在することが実験的に確認された。
 陽子の反粒子は反陽子、中性子の反粒子は反中性子とよばれる。

 我々の身体やまわりの物質は電子、陽子、中性子からできているが、
 陽電子、反陽子、反中性子からできている反物質があってもおかしくはない。

 しかしながら、この宇宙には反物質でできた反世界は観測されていない。
 反粒子や反物質は加速器を用いた実験で人工的に作るか、宇宙線と普通の物質との相互作用で作り出されるかしかない。
 なぜだろうか?
 この疑問に答えるには、粒子と反粒子では適応される自然法則が異なる、という点が重要になる。
 これを粒子・反粒子間の非対称性 (専門的にはCP対称性の破れ)と言う。
 我々の宇宙の現在の有様を説明するには粒子・反粒子間の非対称性があることが不可欠なのである。

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共感覚 ~ food for thought♪

2010年10月02日 | 人間と宇宙~哲学を科学する

形や音に色が見える感覚、
見たものは視覚野、聞いたものは聴覚野に入る、という具合に、
脳(大脳皮質)は部分によって違う役割を担うという現代科学の説明を覆すような、
センセーショナルな採り上げ方をされることも多い「共感覚」。

(オーラの色について考えてると、ちゃんと整理できてなかったこの本を思い出した。
 整理するに足る、気づきを与えてくれるフレーズやフレームワークに遭遇しない本も多いですが、
 こいつは面白かったのであらためて読み返してみました。)

音に色が見える世界 (PHP新書)
岩崎 純一
PHP研究所


黄色い声(視覚⇒聴覚)、まろやかな味(触角⇒味覚)、といった
比喩的表現の問題でもなく、ましてや幻覚でもなく、
五感が分化されていない全感覚的な感覚世界に生きている「共感覚」者がいるのだそうです。(著者がそう。)
著者は、"文字の形や音に色を感じる"という。

しかし、本来、五感は完全に分節化されたものではなく、
言葉を覚え自我が生まれる前の子どもや、昔の人々にとって、
五感は混じり合っていたのではないか、というのが共感覚者である著者の考え。
(もちろん、人間は五感以外にも、平衡感覚や運動感覚など多様な感覚を持っている。)

人間の脳は使い回しが上手い、のですから、そんな厳密に分節化されたものでもないのかもしれません。



文字の音(聴覚)に色(色覚)を感じるというのは、五感が分節化されていないから、という説明が成り立ちますが、
文字の形に色を感じる、となると、形状と色彩の違いはあっても
同じ視覚という感覚様相内の中がさらに細かく混じり合っているということになる。

さらには、あらゆる文字(かな、感じ、数字、ローマ字に至るまで)に性別まで感じるそうである。
ラテン文字なら、女は、b,e,f、h、i,n,p,で残りは男、
数字では2、4のみが女であとは男、といった具合。
(これは、著者の感じ方であって、共感覚者に共通というわけではありません。)


そもそも、
「私にとって綺麗な物はあなたにとっても綺麗である、
 私にとって無価値の物はあなたにとっても無価値である」という、
人間は共通の感覚のもとに生きているみたいなこと自体が思い込み。
 
どうもこれは好みや価値観の問題だけでもなさそうです。

人が赤い物を赤いと感じるのは、言葉を覚えて以降の出来事で、
言葉と感覚や思考は連動するようになってしまっているのでは、と著者は言います。

たしかに、人の「考える」、「思考する」という行為は言葉無しでは成立しない。

そして、「赤」という言葉を知る前に、
周りの音や感情まで含めて感じていた世界、五感が混じり合った感覚、を
ほとんどの人が失い、想起することさえ困難になっていく。

(共感覚者の脳の構造と機能は、
 人間が言語を獲得する以前の感覚、あるいは、
 各感覚様相が記号的・抽象的に分節化する以前の幼時期に見られる感覚の仕組み
 を示唆しているのではないか、との学説も実際にあるらしい。)

 言語を獲得する代償として、失っていく感覚もあるのだ。。

(逆に、言語で人は世界を認識するので、言葉が人格をつくっていく。 バイリンガルは2重人格説、もあるくらい。)

著者は共感覚を超能力的な摩訶不思議なものではなく、科学的に説明されるべきだという立場にたっています。
著者曰く、
"今の共感覚研究は、大多数の人間の観念のほうに共感覚者の感覚をも回収して語ろうとする作業"。

"本来の人間の感覚には、文字も風景も区別はない。ただ見たままの風景がそこにあるだけである。
 その風景も個人によって違う。
 視細胞や視神経、脳も違えば、骨格や筋肉、性別まで、一人ひとりが違うのだから、
 私にとっての「赤」が他人にとっての「赤」と寸分たがわず同じである、ことはあり得ない。
 「赤」というのは、人間同士極めて近い共通点を取りだしたものであり、それが言語である。"

"事物をあらしめているのは、我々人間の認識と言葉。"
 ( 私たちは変性意識下でしか外の世界を見ることができないのでした。)

著者の指摘は言語のありかたにまで及ぶ。

~日本人が「にほひ」で人間をたたえるときには、"匂い"という臭覚だけでなく、
  薫、香、芳、といった様々な漢字で表現されるように全感覚的なものであった。
 
~人間は壮大な感覚を一つ持っている存在であるとも言えるし、
  無限の種類の感覚を持つ存在であるとも言える。
  そういう多種多様な感覚の持ち主が人間であることを、かつての人間は知っていたからこそ、
   「諸感覚のまたがり」に余裕を持たせ、許容して、感覚動詞を生み出したのだ。

~ 英語が、世界で最も五感を記号的・抽象的に分節化し、感覚どうしの行き来を認めない言葉であることは容易に想像がつく。
  国際語となった英語では、アメリカ人でもフランス人でも日本人であっても、
   「taste」はあくまで「味わう」でないと困る。
  インドでは「嗅ぐ」であったとしたら、意思が伝わらなくなる。
  かくして英語という言語は巨大化し、英米人の文化を離れた、無機的な言語になった。
(英語のI see(わかった)は、比喩的表現であって、見るという視覚とは別の感覚を跨いだ言い方ではない。)

 でも、クアラルンプールのちょっとアブない感じの人混みの駅を独り目指して歩いてた時、
   なぜだか" train "が通じなかったぞ。
   看板見てナットク、なぜか" tran "って書いてあった。(これは意味の問題でなくて音のモンダイか。)


~元来、日本語は「漢字を無視する言語」であり、「視覚を無視する言語」であり、
 「余計なことを文字にしたがらない言語」であった。
 それが明治以降、変わった。
 太政官布告によってparkが「公園」と定義され、"こうえん"は講演(lecture)や後援にもなる。
 仮名ではなく漢字、言い換えると、視覚言語に変身していったというわけ。
 (それまでは" 物事をみる"は、「音を見る」ことだったり、「景色を聞く」ことでもあった。)

色彩感覚も、色相・彩度・明度のなかで、「色相」だけが色の違いとして認識されるようになった。

もともと「淡い色」として古来「青」は広い領域を占めてきたが、
色相ばかりが重視されるようになった明治以降、現代の日本人には、
”緑なのに青野菜とか青信号、ってヘンじゃないの”ってことになる。

なるほど。

(↓)英語にも例えば、"hot"っていうのがある。暑い、熱い、刺激的。
  でも、これは比喩であって、共感覚を指しているのではない。
  食欲と色欲を並べてみせたこの歌、実にcoolだと思う。 
  五感は分化して、人の欲をあの手この手でそそるようにデキている。

10cc - Food For Thought






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オーラの色が見える、ますかけ線の持ち主

2010年10月01日 | 日記
うえの子が面白いことを言い出した。

人にオーラのような色が見えるらしい。

大抵のひとは色々な色が混じって色味の区別がつきにくく、
モノトーンに見えることもあるらしいが、
家内は、キレイな紫色、したの子は、うすい水色らしい。

ちなみに私は・・・

今日は濃いグリーンに見えるらしいが、
時によって色がカラフルに変化するらしく、周りにはほとんど見ないタイプ、とのこと。
しかも、薄くなく、強い色であることが多いらしい。

一体どう解釈したらいいのでしょ…。



ちょっと興味を持ったので、オラオーラというページで、名前を入れて自分のオーラを調べてみました。



あれれ、青とシルバーが同じ値だぞ。
そもそも、姓名だけでオーラなんてモノが測れるの?(・。・)

というわけで、私は子どもの言う、今は緑だけどであるとする説を信じることにしました。

うえの子は手相、も変わってて、
頭脳線と感情線が一緒になり、手の平を真っ直ぐ横に横断している『ますかけ線』と呼ばれる手相の持ち主。

 ~ 比較的珍しい手相とされていて、
    徳川家康や豊臣秀吉、織田信長もこの手相だったことがよく知られていて、天下を取る手相だとも言われています。
    別名、百握りとも呼ばれる相で、つかんだ物は絶対に離さないと言われています。
    両手にますかけ線があるというケースは稀で、そのほとんどが片手だけのものになります。


片手であれば100人に一人はますかけ線の持ち主らしいが、
うえの子は両手が共にますかけ線で、
これは100人×100人で1万人に一人という稀有な手相ということになるそうだ。
徳川家康がこの手相を持っていたといわれている。

安定期よりも浮き沈みのある時代に面白い手相、血液型もRH-だし、
面白い時代を生きていくのにきっと似つかわしい若武者なのだ、がんばれよぉ。


(↓) うそみたい。見つけた。大好きだったサビ。

   ” 今 戦国と人の云う、 こらえて生きて十余年    ← ちょうど14だし。
    ああ世の末の南西に はばたけ竹千代 時来たる ”

少年徳川家康・一休さん
 
コメント (14)
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