タイムマシンの可能性を指摘するワームホールの考え方。
時空が平坦でなく極端に歪んでいた場合には、
宇宙船がぐるりと廻って出発した時点より以前の時空に戻ってくることも
可能性としてはありうるということになってしまいます。
( ↓ ) (「ホーキング、未来を語る」より。)
時空が極端に歪んだ場合には、
時空の異なる領域間を結びつけるチューブのようなもの、ワームホールが存在することになるのでしょうか。
アインシュタインの相対論によれば、光速度は不変かつ超えられない速度でしたが、
光速より遅い宇宙船が、時空上の時間的経路にしたがって移動しているにもかかわらず、
出発した時間より前の時間に戻ってくることがあり得るというのでしょうか。
時空は閉じた時間的曲線、つまり何度も始めの点に戻ってしまう曲線を認めるのでしょうか。
さて、コンノ ケンイチ氏の指摘する「現代物理の死角」、
私にとって目からウロコ、だったのは、「同化作用」による空間構造の考え方。
我々の意識は歪んだ時空に「同化」してしまっている、のだという。
( ↓ ) 丸い球体宇宙を真っ二つに切断して、自分が F 点にいるとします。
実際はF の等高線を直進すると同じところに戻ってくるのだが、
私たちは宇宙空間に同化しているが故に曲がりを認知できず、
自分達の居る空間を直線として認知し、周りの空間が曲がっているのだと観測する。
地球の裏側の国の人間は、地球外の客観的な視座からみると逆さまに立っているのだが、
地続きだと認知している限りにおいては、そんな風に考えることはできないのと同じこと。
地動説以前の人間にも似たような人間中心的な考え方や視座から完全に離れることは難しい。
この図だけで気づきを与えてくれる。
自分の存在点を中心に見た場合に認知される空間は、
一見客観的であるようでいて、視座を変えると客観的ではなくなっている。
自分の存在点の「前後」方向だけを考えて、
平面ではなく、3次元空間に引き直すと、下図のように、空間はラッパ状の構造となり、
宇宙的に距離が増大するにつれて、ラッパの曲がりが大きくなっていく。
これが我々が認知している「前後」方向の空間の姿。
さらに、「前後」方向だけでなく、「左右」、「上下」、360°方向へこの空間構造を引き直していくと、
私たちが認知する宇宙空間はこのように見えていることになる。
「同化」作用が生み出す空間構造である。
私たちの観測する時空というのは、このように主観的な空間構造なのかもしれません。
コンノ氏は言います。
地球から観測できる宇宙は、海面にたとえれば水平線の範囲でしかない。
観測機器の発達によって、宇宙はある範囲から突然、銀河一つ観測されなくなるだろう。
そのときビッグバン論者は「やっと宇宙誕生の瞬間をとらえた」と言うかもしれない。
そうではない。どんな高性能な望遠鏡でも水平線の向こう側は見ることができないのである。
タイムマシンの可能性、ホーキングが言った "閉じた時空曲線 " というのは、人間の認識の錯覚によるものなのでしょうか。
もうひとつ、哲学的、宗教的な視座へのヒントを与えてくれるような論理展開に驚いた箇所があります。
" 我々は時空の果てに居ながらにして、時空の中心にいる。"
コンノ氏はビッグバン宇宙論は否定していますが、
球体としての宇宙の中にいる我々が認識する世界を、下の図ひとつで見事に説明しています。
空間構造の顕れ方に対するアイデア。
宇宙は膨張しているとか、宇宙をまるで風船を見ているかのように言いますが、
実際に宇宙の中にいる私たちの認識する宇宙は、
人間を中心に考えると下図のように、球体の裏表が逆になるのです。
風船の中からしか宇宙は見えないのです。
人間は神様のように遠く、外から俯瞰的に宇宙を観測しているわけではない。
風船の中に入った小さな小さな地球にいる、さらにもっと小さな粒の気持ちになってみると、、
イメージが湧いてくるでしょう。
私たちが見る宇宙は、決して外側から見た膨らんでいる風船ではなくて、
風船の内側から見た宇宙であって、空間構造も内側から見たものになる。
ちょうど、内側を外側と逆転させた上図のような宇宙球体の表面にいるのが私たち。
地球の海面上をどんなに速く移動しても常に海面(水平面)の中心に存在し、
同時に海面という球体の境界面に存在しているのと同じように、
風船の中に居ながらにして、
風船の裏表が逆転しているように見える空間においては
" 私たちは常に宇宙の中心に存在すると同時に宇宙の果てにも存在するのである。"
この裏表が逆になった空間構造は、著者の想いとは異なるかもしれませんが、
ビッグバン宇宙論が説明する、宇宙の果ての特異点についての考察の中でホーキングが述べた言葉につながるように思えます。
" 宇宙は完全に自己完結した存在なのです。"
" 地球の表面(球面)にどんな境界も端も存在しないのと同じように、果てがないのが宇宙の境界条件だ"
宇宙には時空の境界面は存在しないのだとすると、
人間が認識できる内側からでなく、
純粋に外側から見た風船の表側の境界面は一体どう取り扱えばよいのでしょう?
そこは神の視座から見える、我々の理解の及ばない宇宙なのでしょうか?
それとも、リサ ランドール博士などが提唱する膜(ブレーン)宇宙のように膜のようにへばりついた次元として説明されるのでしょうか?
もはや、空間構造さえも、意識や思考の産物なのかもしれません。
この発想の凄いところは、もうひとつ、
マクロの世界(私たちの現実世界とその外側に在る大宇宙)と、ミクロの世界(量子や私たちの意識の粒のような微小な世界)さえも
このように裏返しになりうるとしているところ。
裏側の世界から見ると、表側の世界、風船の表面で展開される現実の世界が裏側になる。
ミクロの世界から見ると、マクロの世界(宇宙)は裏返されて、
風船の内側の世界、中心へと閉じ込められてしまう。
これが無限宇宙の正体であり、
古代からの叡知 - 大宇宙を表現するウロボロスの蛇など - はこのミクロとマクロの逆転現象に気づいていたといいます。
空海は性霊集の中で" 一滴の露の中に万象が含まれている"と教え、
般若心経は「是諸法空相(ぜしょほうくうそう)、是故空中(ぜこくうちゅう)、遠離一切顛倒夢想(おんりいっさいてんどうむそう)」と教えた。
このマクロとミクロが逆転しているという宇宙構造の真理を視覚化したのが、
「金剛界(宇宙)曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」とのこと。
空間構造の見方を変えるだけでマクロの世界(宇宙)は風船の内側になってしまう、
意識や存在の根源を問うようなところのある量子論の建て付けを、
ミクロの現象面からでなく、大局的な仮説によって説明されていて興味深い。