Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

トラビスくんのこと、その壱

2013-06-06 00:15:00 | コラム
先日の帰省時―。

とーちゃんが「君がしつこくいう『タクシードライバー』のすごさが、いまひとつ分からない」というので、性懲りもなく? トラビス愛に溢れた文章を「再び」(どころではないか)綴ってみる。

好き嫌いがあるのはしょうがない、ただ、どうすごいのかを解説するだけなら、意見の押しつけにはあたらないだろう。


(1)少年、あるいは青年は、スクリーンのなかに自分を見た

作家・田中慎也は秋葉原殺傷事件の犯人を見て、「コイツは自分だ」と思ったという。

それと似たような経験が、自分にもある。

Мくんこと、宮崎勤。

いやロリコンじゃないよ。
訂正、社会的に許される範囲内ではロリコンかもしれない。Мくんの興味は幼児にあったが、自分は少女にある―そのちがいがあるだけ。

身体を切り刻んだり血を飲んだりする趣味もない。してみたいという願望もない。

ないが、彼の部屋に高く積み上げられた大量のビデオテープと、それに囲まれて日常を送ることに快楽を感じていたという点が、自分と共通していると感じた。

実際、Мくんの部屋がメディアによって公開された翌日、クラスメイトから「まっき~の部屋みたいじゃん」などといわれたものである。

強く否定したが、なんとなく同じ世界の住人なのかもしれないな・・・などとも思った。

自分はこの時期―高校生になった直後に、『タクシードライバー』と出会っている。

「また、自分が居る」

そう思った。
Мくんとはまったく別の意味で抱いた、自分に似ているという感覚。似ているというか、別の世界で生きているもうひとりの自分、、、のような。

そう捉える男子はひじょうに・・・いや訂正、異常に多い。

『タクシードライバー』が公開された直後、監督スコセッシにある男が近づき、

「どうして僕のことを知っているんですか、あれは、僕自身だ」といったそうだ。

スコセッシによると、その男は、クレイジーには見えない、むしろ真面目そうな青年だったという。

自分だって彼だって、銃を買い込み改造したりモヒカンにしたりしているわけじゃない。(後年、モヒカンスタイルにはしてみたが・・・)
要人暗殺を企てているわけでもない。
初デートでポルノに行ったりはしない。
街を歩くもののほとんどがゴミで、こいつらを根こそぎ洗い流す雨が降ればいい・・・などと思ったりもしない。(弱めに訂正、不運が続いた日などは、そう思うことがあったかもしれない)

だけれども。

「自分が居る」

そう思った。

なぜなのだろう。

ポケットに手を突っ込み、下を向いて歩くトラビス―ポスターにもなった、この映画を象徴するシーンに、既視感を覚えたからである。

どこかで見たような光景、、、いやいやこれは、自分の歩く姿じゃないかと。


(2)死なないトラビス

イマサラくどくどと筋を解説することはしない。

どう考えたって「ずれている」主人公が、ひとりの女(ベッツィ)に惚れ、振られて逆ギレする。少女(アイリス)ひとりさえ救えぬことに無力感を抱きつつ、銃を手にしたことから「ある種の全能感」を覚えてスイッチが入る。
要人暗殺に失敗した彼は、少女を支配するゴミのような男たちを標的にした・・・と、そんな物語だ。

ちょっとしたパラノイアみたいなもので、標的を要人からポン引きへと「いとも簡単に」変更しちゃったところなんか、通り魔のいう「誰でもよかった」に通ずるところがあり、ムチャクチャな男である。

ただ、このようなキャラクターが存在しなかったわけではない。
ないが、新しい点がひとつだけあった。

このようなキャラクターはふつう、死ななければならない。
しかしトラビスは、死なないのだ。

トラビス自身も「死ななければならない」と考え、だから自分のこめかみに銃口を当てた。
けれども弾切れのため、彼は命拾いをする。

こうして生かされたトラビスはどうするのかというと、入院したのち、タクシードライバーとして復帰するのである。

メディアによって勝手に英雄視され、それを知ったベッツィがわざわざ彼を訪ね、復縁を迫っても彼女を振ってのける。
少女娼婦アイリスは救えたが、街はなにひとつ変わっていなかった―というクールなエンディングを観て、一部の男子は痛快だなぁと拍手喝采を送った。

「自分が居る」と思ってスクリーンを眺めていたのに、トラビスは自分では出来ないことをやってのけた。
それは「死んでもしょうがない」行動だったはずなのに、彼は死なない。
しかも、そんな奇跡を経過したあとも彼は、タクシードライバーをやめないのだ。

死なない。
かといって英雄にはならない。
街も変わっていない。

アンチヒーロー、ここに誕生。

ときどきファンタジー、でも、しっかりとリアル―トラビス信者が「この映画を観ると、元気が出る」というのは、そんな絶妙なバランス感覚にあった。

『羊たちの沈黙』(91)のレクター博士や『セブン』(95)のジョン・ドゥが「トラビスの子ども」と称されるのは、そんなところからきている。
これらの映画は、あきらかに『タクシードライバー』の影響下にある。


つづく。

※あすは、(3)負のパワー炸裂の76年 (4)響きと怒り。




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明日のコラムは・・・

『トラビスくんのこと、その弐』

コメント (2)
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