かつて松尾スズキが、可愛かずみ自死の訃報を受けて「自死の似合うひと、そうでないひと」という内容のコラムを書いたことがある。
少しだけ引用してみる。
「岸田智史首吊り死体で発見。これはどうだ。理屈でなく、すっと入ってこないか。なんか"あり"な感じはしまいか。MIEガス自殺。"あり"だと思う。GAOも"あり"だ。でも、TARAKOは違うと思うけど。田村英里子入水。頷ける。斉藤慶子服毒。ああ、わかるわかる。ルー大柴ピストル自殺。意外と"あり"かもしれない。だけど、ぼんちまさとでは忘れられ過ぎだ」
さすが松尾さん、「いけない笑い」全開で何度読んでも笑えるが、
これ読んで自分がすぐ考えたのが、「ドラッグのオーバードースで死ぬのが似合うひと、そうでないひと」というものだった。
オーバードース(drug overdose)とは過量服薬、つまりヤリ過ぎ、キメ過ぎということ。
「いけないこと」を書くのは勇気の要ることだが、敢えて書いてみると、似合うのは、やはりミュージシャンだろう。
ジミ・ヘンドリックス(享年27)、ジャニス・ジョップリン(享年27)、ジム・モリソン(享年27)、シド・ビシャス(享年21)、ヒレル・スロヴァク(享年26)・・・・・みんなオーバードースで、やっぱり似合う。
カート・コバーンの自死は世代的に「かなり」衝撃ではあったが、出来ればオーバードースであってほしかった。
映画俳優のオーバードース、その王者といえばリヴァー・フェニックスだろう。
享年23歳、いまのようなネット時代ではないのでラジオで訃報を聞いたと記憶するが、93年の冬は映画ファンの多くが喪に服したんじゃないだろうか。
しかし、いってしまえば、リヴァーのオーバードースはひじょうに似合っている。
彼の友人たちであるキアヌやジョニー・デップの「現在」を思うと「もったいない」気はするけれど、事故死でも自死でもないところが「リヴァーらしい」のだった。
結論からいうと、フィリップ・シーモア・ホフマンは似合わない。
ダメ。
ぜんっぜん、似合わない。
体型のイメージじゃん!! と突っ込まれそうだが、このひとには「糖尿病系」による病死こそ似合う。
ドラッグとフィリップ・シーモア・ホフマンは、結びつかないのだ。
だから享年46歳という若さではなく、ドラッグのオーバードースという死因に衝撃を受けたのだった。
ドラッグでキメなくても、ナチュラルハイな演技が出来るひとでしょ? みたいな。
実際にとても器用で、ダメ男からカリスマまでどんな役でも自分のものとしていた。
PTAことポール・トーマス・アンダーソン監督に出会った90年代後半から、俳優としての道が開ける。
ひたすら情けなかった『ブギーナイツ』(97)、
愛すべきサイテーキャラたちの群像劇―のなかでも、一際サイテーなキャラクターだった『ハピネス』(98)、
全キャラクターのなかで最も観客に近いであろう青年を好演した『マグノリア』(99)、
それまでのイメージから一転、主人公に助言を与えるライターを演じた『あの頃ペニー・レインと』(2000)、
そしてオスカーを取った『カポーティ』(2005)でのなりきり演技、
メリル・ストリープと演技合戦を繰り広げた『ダウト』(2008)、
『ザ・マスター』(2012)の異様さは、ホアキン・フェニックスとホフマンの演技によるものだと戦慄した。
フォレスト・ウィティカーやジョン・グッドマン同様、丸みを帯びた身体を持つ俳優に共通する「穏やかさ」があった。
だが、そのイメージのまま演じたキャラクターは『マグノリア』くらいで、
「笑いながら怒るひと」を得意とする竹中直人じゃないが、笑顔のまま狂気を表現出来る才能があり、映画ファンはそこに震えた。
と認識していたら、『あの頃ペニー・レインと』では格好よくて頼りになる大人を演じている。
その器用さから、将来的にはハーベイ・カイテルのような存在になると思っていた。
60歳を過ぎた表現者の死に対しては、悲壮感というものを抱かせない追悼文を書くよう心がけている、、、というか、自然にそういうものが出来上がる。
だが無限の可能性を感じさせる表現者の早過ぎる死となると、そういうわけにはいかない。
しかも、じつに似合わない死にかた。
「割り切れない」が強過ぎて、ただひたすらに、ひたすらに、残念だと思う。
フィリップ・シーモア・ホフマン、2月2日死去、享年46歳。
合掌。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『脚美人キャラ10傑』
少しだけ引用してみる。
「岸田智史首吊り死体で発見。これはどうだ。理屈でなく、すっと入ってこないか。なんか"あり"な感じはしまいか。MIEガス自殺。"あり"だと思う。GAOも"あり"だ。でも、TARAKOは違うと思うけど。田村英里子入水。頷ける。斉藤慶子服毒。ああ、わかるわかる。ルー大柴ピストル自殺。意外と"あり"かもしれない。だけど、ぼんちまさとでは忘れられ過ぎだ」
さすが松尾さん、「いけない笑い」全開で何度読んでも笑えるが、
これ読んで自分がすぐ考えたのが、「ドラッグのオーバードースで死ぬのが似合うひと、そうでないひと」というものだった。
オーバードース(drug overdose)とは過量服薬、つまりヤリ過ぎ、キメ過ぎということ。
「いけないこと」を書くのは勇気の要ることだが、敢えて書いてみると、似合うのは、やはりミュージシャンだろう。
ジミ・ヘンドリックス(享年27)、ジャニス・ジョップリン(享年27)、ジム・モリソン(享年27)、シド・ビシャス(享年21)、ヒレル・スロヴァク(享年26)・・・・・みんなオーバードースで、やっぱり似合う。
カート・コバーンの自死は世代的に「かなり」衝撃ではあったが、出来ればオーバードースであってほしかった。
映画俳優のオーバードース、その王者といえばリヴァー・フェニックスだろう。
享年23歳、いまのようなネット時代ではないのでラジオで訃報を聞いたと記憶するが、93年の冬は映画ファンの多くが喪に服したんじゃないだろうか。
しかし、いってしまえば、リヴァーのオーバードースはひじょうに似合っている。
彼の友人たちであるキアヌやジョニー・デップの「現在」を思うと「もったいない」気はするけれど、事故死でも自死でもないところが「リヴァーらしい」のだった。
結論からいうと、フィリップ・シーモア・ホフマンは似合わない。
ダメ。
ぜんっぜん、似合わない。
体型のイメージじゃん!! と突っ込まれそうだが、このひとには「糖尿病系」による病死こそ似合う。
ドラッグとフィリップ・シーモア・ホフマンは、結びつかないのだ。
だから享年46歳という若さではなく、ドラッグのオーバードースという死因に衝撃を受けたのだった。
ドラッグでキメなくても、ナチュラルハイな演技が出来るひとでしょ? みたいな。
実際にとても器用で、ダメ男からカリスマまでどんな役でも自分のものとしていた。
PTAことポール・トーマス・アンダーソン監督に出会った90年代後半から、俳優としての道が開ける。
ひたすら情けなかった『ブギーナイツ』(97)、
愛すべきサイテーキャラたちの群像劇―のなかでも、一際サイテーなキャラクターだった『ハピネス』(98)、
全キャラクターのなかで最も観客に近いであろう青年を好演した『マグノリア』(99)、
それまでのイメージから一転、主人公に助言を与えるライターを演じた『あの頃ペニー・レインと』(2000)、
そしてオスカーを取った『カポーティ』(2005)でのなりきり演技、
メリル・ストリープと演技合戦を繰り広げた『ダウト』(2008)、
『ザ・マスター』(2012)の異様さは、ホアキン・フェニックスとホフマンの演技によるものだと戦慄した。
フォレスト・ウィティカーやジョン・グッドマン同様、丸みを帯びた身体を持つ俳優に共通する「穏やかさ」があった。
だが、そのイメージのまま演じたキャラクターは『マグノリア』くらいで、
「笑いながら怒るひと」を得意とする竹中直人じゃないが、笑顔のまま狂気を表現出来る才能があり、映画ファンはそこに震えた。
と認識していたら、『あの頃ペニー・レインと』では格好よくて頼りになる大人を演じている。
その器用さから、将来的にはハーベイ・カイテルのような存在になると思っていた。
60歳を過ぎた表現者の死に対しては、悲壮感というものを抱かせない追悼文を書くよう心がけている、、、というか、自然にそういうものが出来上がる。
だが無限の可能性を感じさせる表現者の早過ぎる死となると、そういうわけにはいかない。
しかも、じつに似合わない死にかた。
「割り切れない」が強過ぎて、ただひたすらに、ひたすらに、残念だと思う。
フィリップ・シーモア・ホフマン、2月2日死去、享年46歳。
合掌。
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