第17部「フランシス・フォード・コッポラの物語」~第5章~
前回のあらすじ
「いいかい、わたしは仕事仲間にあざ笑われ、抗議されるような決定は毎日してるんだよ。
正直に言ってしまうが、『アウトサイダー』でトム・クルーズを大きな役に出来なかったのは、フレッド・ロス(コッポラと長い関係を持つプロデューサー)がロブ・ロウを望んだからなんだ。
そこで妥協したわけだ。
今回起きたことだって、これとまるっきり同じだ。わたしはこれしかないと感じていて、まわりのひとは頷かないキャスティングなんかいくらもある。『ゴッドファーザー』1作目のアル・パチーノがいい例だ。賛成の声なんかまったくなかったんだ」(コッポラ、自作に愛娘を起用した「問題」を語る)
…………………………………………
去年秋の東京国際映画祭―。
フランシス・コッポラは愛娘ソフィアと来日、筆者はツーショットを間近で拝む機会に恵まれた。
「枯れた」なんて印象は抱かなかったが、「鬼才」オーラは確かに感じられず、それより「よいおじいちゃん」みたいな雰囲気が漂っていた。
きらきらと輝いていたのはソフィアのほうで、フランシスはあくまでも「添え物」。
時代、時代だなぁ!! と思った。
映画史的な評価はともかく、子が親を越えていく―よい親孝行である。
だがソフィアの本音は、一緒にグリーンカーペットを歩きたくなかったそうだ。
「ほんとうに苦痛だったわ」
大きなコッポラ・ブランド―べつの世界ならともかく、同じ世界で生きていくことを決めたとなると、「足がかり」としては有効であっても、それ以降はかえって「足かせ」になるかもしれない。
親の七光りというのは簡単だが、我々では推し量ることの出来ない苦悩があったにちがいない。
…………………………………………
『地獄の黙示録』(79)を撮り終えて「抜け殻」状態となったコッポラは、「リハビリ」のような映画制作に乗り出す。
『ランブルフィッシュ』(83)と『アウトサイダー』(83)の2本は青春映画。
「若者とはうまくやっていける」と、おとなの世界から「逃避」して創ったともいえる小品だが、若手スターのフレッシュな魅力にも助けられ、一部に熱狂的な支持者を生むスマッシュヒットを記録した。
84年、莫大な制作費をほとんどセットのためだけに使った『コットンクラブ』で再び躓く。
「からっぽの赤字映画」と叩かれたが、リチャード・ギアは好演していた。
甥のニコラス・ケイジを起用した『ペギー・スーの結婚』(86)、戦争を多角的に捉えようとした『友よ、風に抱かれて』(87)は批評・興行の両面で失敗し、
その穴埋めとして、、、かどうかは分からないが、マイケル・ジャクソンとディズニーランドのために撮られた『キャプテンEO』(86)を「職業監督」として演出する。
※それを日本語ノーカット版で。
コッポラ版『スターウォーズ』のようだ。
…………………………………………
88年―40年代に「タッカー車」を売り出した実在の人物、プレストン・トマス・タッカーを描いた『タッカー』を発表。
個人的には、とても面白かった。
タッカーは何度も挑戦し、しかし成功はときどき、大半は失敗に終わっている。
だがいつでも笑顔。
「七転八倒、わが人生。」・・・誰もがタッカーとコッポラを結びつけてこの映画を鑑賞するだろう。
その観かたは間違ってはおらず、後年、コッポラ自身が「わたしそのものだ」と認めている。
89年―ウディ・アレン、スコセッシ、そしてコッポラの三巨匠によるオムニバス『ニューヨーク・ストーリー』の発表。
アレン・スコセッシが「らしさ」全開だったのに対し、二話目を担当したコッポラの『ゾイのいない人生』は、まったく退屈で、なにをやろうとしているのかさえ分からず、コッポラの「枯れた」評は、まさにこの映画で生じたものであった。
それに輪をかけたのが、90年の『ゴッドファーザー』最終章。
オスカー作品賞にノミネートされたものの、功労賞というより同情賞にちかいものがあり、筆者もどんな物語だったか、よく思い出せないのだった。
七転八倒は、なおもつづく。
92年の『ドラキュラ』は、「まだ死んじゃない」ことを証明した傑作だと思う。
血の躍動感といったらいいのか、この監督の「ふつうではない」演出能力は若い映画小僧におおいなる刺激を与えたのではないか。
(筆者が映画を学ぶ学生のころに公開され、同級生みんなが「すごい、すごい!」と興奮していた)
しかし。
つづく『ジャック』(96)は「なかったこと」にされ、『レインメーカー』(97)は主演のマット・ディモン「だけ」話題になった。
実際、このころのコッポラは自らのワイナリー経営のほうに夢中となり、映画制作は二の次だったようだ。
筆者もコッポラのワインを呑んだことがある。
味?
・・・・・う~~ん、ボージョレよりは美味かった、、、かな。
…………………………………………
90年代末にソフィアが映画監督デビューを飾ると、父親はしばらく映画を撮らなくなった。
映画制作の興味が失せたのか、あるいはリハビリがうまくいかなかったのか、はたまた娘にとって自分の存在が邪魔だと思ったのか・・・そのへんのことは分からない。
復帰は2007年のこと。
『コッポラの胡蝶の夢』(2007)も『ヴァージニア』(2011)も、かつてに比べれば小規模な映画である。
コッポラ自身は「小品こそ、、、」と発しているが、いやいや、いつかまたやらかしてくれるはずだ―多くの映画小僧は、そう確信しているのである。
…………………………………………
怒れる雄牛の物語、第17部「フランシス・フォード・コッポラの物語」おわり。
次回より、第18部「ミロシュ・フォアマンの物語」を、お送りします。
≪参考文献≫
『映画作家は語る』(デヴィッド・プレスキン著、柳下毅一郎・訳 大栄出版)
サイト『OUTSIDE IN TOKYO/フランシス・フォード・コッポラ インタヴュー』(http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/francisfordcoppola/)
…………………………………………
本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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本館『「はったり」で、いこうぜ!!』
前ブログのコラムを完全保存『macky’s hole』
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明日のコラムは・・・
『あの子がほしい♪』
前回のあらすじ
「いいかい、わたしは仕事仲間にあざ笑われ、抗議されるような決定は毎日してるんだよ。
正直に言ってしまうが、『アウトサイダー』でトム・クルーズを大きな役に出来なかったのは、フレッド・ロス(コッポラと長い関係を持つプロデューサー)がロブ・ロウを望んだからなんだ。
そこで妥協したわけだ。
今回起きたことだって、これとまるっきり同じだ。わたしはこれしかないと感じていて、まわりのひとは頷かないキャスティングなんかいくらもある。『ゴッドファーザー』1作目のアル・パチーノがいい例だ。賛成の声なんかまったくなかったんだ」(コッポラ、自作に愛娘を起用した「問題」を語る)
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去年秋の東京国際映画祭―。
フランシス・コッポラは愛娘ソフィアと来日、筆者はツーショットを間近で拝む機会に恵まれた。
「枯れた」なんて印象は抱かなかったが、「鬼才」オーラは確かに感じられず、それより「よいおじいちゃん」みたいな雰囲気が漂っていた。
きらきらと輝いていたのはソフィアのほうで、フランシスはあくまでも「添え物」。
時代、時代だなぁ!! と思った。
映画史的な評価はともかく、子が親を越えていく―よい親孝行である。
だがソフィアの本音は、一緒にグリーンカーペットを歩きたくなかったそうだ。
「ほんとうに苦痛だったわ」
大きなコッポラ・ブランド―べつの世界ならともかく、同じ世界で生きていくことを決めたとなると、「足がかり」としては有効であっても、それ以降はかえって「足かせ」になるかもしれない。
親の七光りというのは簡単だが、我々では推し量ることの出来ない苦悩があったにちがいない。
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『地獄の黙示録』(79)を撮り終えて「抜け殻」状態となったコッポラは、「リハビリ」のような映画制作に乗り出す。
『ランブルフィッシュ』(83)と『アウトサイダー』(83)の2本は青春映画。
「若者とはうまくやっていける」と、おとなの世界から「逃避」して創ったともいえる小品だが、若手スターのフレッシュな魅力にも助けられ、一部に熱狂的な支持者を生むスマッシュヒットを記録した。
84年、莫大な制作費をほとんどセットのためだけに使った『コットンクラブ』で再び躓く。
「からっぽの赤字映画」と叩かれたが、リチャード・ギアは好演していた。
甥のニコラス・ケイジを起用した『ペギー・スーの結婚』(86)、戦争を多角的に捉えようとした『友よ、風に抱かれて』(87)は批評・興行の両面で失敗し、
その穴埋めとして、、、かどうかは分からないが、マイケル・ジャクソンとディズニーランドのために撮られた『キャプテンEO』(86)を「職業監督」として演出する。
※それを日本語ノーカット版で。
コッポラ版『スターウォーズ』のようだ。
…………………………………………
88年―40年代に「タッカー車」を売り出した実在の人物、プレストン・トマス・タッカーを描いた『タッカー』を発表。
個人的には、とても面白かった。
タッカーは何度も挑戦し、しかし成功はときどき、大半は失敗に終わっている。
だがいつでも笑顔。
「七転八倒、わが人生。」・・・誰もがタッカーとコッポラを結びつけてこの映画を鑑賞するだろう。
その観かたは間違ってはおらず、後年、コッポラ自身が「わたしそのものだ」と認めている。
89年―ウディ・アレン、スコセッシ、そしてコッポラの三巨匠によるオムニバス『ニューヨーク・ストーリー』の発表。
アレン・スコセッシが「らしさ」全開だったのに対し、二話目を担当したコッポラの『ゾイのいない人生』は、まったく退屈で、なにをやろうとしているのかさえ分からず、コッポラの「枯れた」評は、まさにこの映画で生じたものであった。
それに輪をかけたのが、90年の『ゴッドファーザー』最終章。
オスカー作品賞にノミネートされたものの、功労賞というより同情賞にちかいものがあり、筆者もどんな物語だったか、よく思い出せないのだった。
七転八倒は、なおもつづく。
92年の『ドラキュラ』は、「まだ死んじゃない」ことを証明した傑作だと思う。
血の躍動感といったらいいのか、この監督の「ふつうではない」演出能力は若い映画小僧におおいなる刺激を与えたのではないか。
(筆者が映画を学ぶ学生のころに公開され、同級生みんなが「すごい、すごい!」と興奮していた)
しかし。
つづく『ジャック』(96)は「なかったこと」にされ、『レインメーカー』(97)は主演のマット・ディモン「だけ」話題になった。
実際、このころのコッポラは自らのワイナリー経営のほうに夢中となり、映画制作は二の次だったようだ。
筆者もコッポラのワインを呑んだことがある。
味?
・・・・・う~~ん、ボージョレよりは美味かった、、、かな。
…………………………………………
90年代末にソフィアが映画監督デビューを飾ると、父親はしばらく映画を撮らなくなった。
映画制作の興味が失せたのか、あるいはリハビリがうまくいかなかったのか、はたまた娘にとって自分の存在が邪魔だと思ったのか・・・そのへんのことは分からない。
復帰は2007年のこと。
『コッポラの胡蝶の夢』(2007)も『ヴァージニア』(2011)も、かつてに比べれば小規模な映画である。
コッポラ自身は「小品こそ、、、」と発しているが、いやいや、いつかまたやらかしてくれるはずだ―多くの映画小僧は、そう確信しているのである。
…………………………………………
怒れる雄牛の物語、第17部「フランシス・フォード・コッポラの物語」おわり。
次回より、第18部「ミロシュ・フォアマンの物語」を、お送りします。
≪参考文献≫
『映画作家は語る』(デヴィッド・プレスキン著、柳下毅一郎・訳 大栄出版)
サイト『OUTSIDE IN TOKYO/フランシス・フォード・コッポラ インタヴュー』(http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/francisfordcoppola/)
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本シリーズでは、スコセッシのほか、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、ブライアン・デ・パルマ、塚本晋也など「怒りを原動力にして」映画表現を展開する格闘系映画監督の評伝をお送りします。
月1度の更新ですが、末永くお付き合いください。
参考文献は、監督の交代時にまとめて掲載します。
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明日のコラムは・・・
『あの子がほしい♪』