Cape Fear、in JAPAN

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『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

キャラ立ち女子

2015-10-11 05:43:37 | コラム
今年の米オスカー授賞式で助演女優賞に輝いたパトリシア・アークエットは、そのスピーチで、女優のギャランティの低さを嘆き改善を訴えた。




とっても意外だった。
その内容に異を唱えることなんか「絶対に」ないが、それを発したのが(別に茶化しているわけではなく)あのパトリシアちゃんであったことに心底驚いた。

社会的政治的発言をするように思えなかったから。
それだけに、真に迫っていた。

先日は大女優のメリル・ストリープが、映画批評家の大半が男であり、そんな男社会のなかで女優や女を中心とした物語が正当に評価されるわけがない―と発言し注目を集めた。

メリルは以前にも、女優の役柄の少なさに言及し波紋を呼んだことがある。
若いころはチヤホヤされてそれなりの扱いを受けるが、おばさんになったら役を選択する自由がなくなる。大抵は、主人公のお母さん役をあてがわれるだけ、、、と。

真っ当な意見・主張だよな、、、と、キッタネー映画小僧でさえ思う。
受動的な女子キャラクターが多過ぎるよなと。
能動的で、きらきら輝く「キャラクターが立っている」女子が少ないよなと。

色味として、そこに添えられているだけのキャラクター。
女優さんはそのことに対し、なんも思わないのだろうか? と疑問を抱く映画は多い。

ちょっと前に調べることがあって、大嫌いな映画のひとつ『電車男』(2005)を観返したんだ。
もう10年も前の作品であることに驚くが、なにより腹立たしいのはエルメス(中谷美紀)のスッカスカ具合である。

彼女は、なんにもない。
なーーーーんも、ない。

こころもない。
だからいくらキレイでも、実体さえ感じられない。

美紀さん、それでいいの!? と思った。


そこできょうは、男優列伝を休載し「キャラクターが立っている」女子が登場する映画の12傑を展開したい。

単に女子が主人公というのではなく、助演であっても「ただ、そこに居るだけ」でない、能動的で力強い女子たち―自分ら? だって、そういう映画が観たいんですよ。


(1)『風と共に去りぬ』(39…トップ画像)

タラがある!!

能動キャラの王者は、やっぱりスカーレットでしょう。

(2)『TOKYO FIST』(95)

男ふたりが主人公のように見えるが、物語を引っ張るのは藤井かほり(ひずる)なのだ。




(3)『椿三十郎』(62)

睦田夫人(入江たか子)には頭が上がらない、三十郎のおかしみ。

(4)『にっぽん昆虫記』(63)

イマヘイによる、女子礼讃の映画だからね。



(5)『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)

セルマは一見すると受動的なキャラクターだが、その諦念も含めて、精一杯思うとおりに生きたのかもしれない、、、と思わせる力強さに溢れている。

(6)『誘う女』(95)

演じるニコール・キッドマンは、これで「お飾り女優」から脱した。

(7)『第三の男』(49)

彼女の意思が生んだ、圧倒的なラストシーン。



(8)『グッドフェローズ』(90)

スコセッシは男を描くのが巧い監督だが、この映画の女子キャラたちはみんな活き活きとしているし、自分の意思でコトを動かしている。

ビートたけしは「極妻みたい」と評したわけだけれど。

(9)『おとうと』(60)

ほかのキャラクターは、ほとんど記憶に残らない―ほどに、姉(岸惠子)が圧倒的なのだ。

(10)『独裁者』(40)

理髪師チャーリーは、ハンナ(ポーレット・ゴダード)に影響を受けているところが多分にある。

そこがハンナと花売り娘とのちがい、、、なのではないか。

(11)『月光の囁き』(99)

基本的に男は、女に振り回されていたほうが幸せだ。

(12)『ジャッキー・ブラウン』(97)

幸福は、自分で掴み取ってみせる。

クールで、とっても美しかった。



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明日のコラムは・・・

『にっぽん男優列伝(299)古谷一行』

コメント (2)
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