ぷろぐら「む」→「む」かしむかし
「A long time ago in a galaxy far,far away....」
これは、『スターウォーズ』シリーズ(77~)の、あまりにも、あまりにも有名なオープニング・クレジット。
簡単に訳せば・・・
「昔むかし、遥か銀河の彼方で・・・・」
・・・となる。
このシリーズを観ていないひとのなかには「未来の話」と思い込んでいるひと―も居るらしいのだけれど、これは昔話。
宇宙を舞台とする映画で「過去」を描いたものは少ない、
逆に、宇宙でないところ―つまり地球上を舞台とする映画は、その半数以上が昔話といっていい。
あくまでも、「近過去」を含めての話だけれど。
登場人物による回想は「その象徴」であり、映画とは、いや、物語るということは基本的に「昔話を展開すること」と同意なのだよね。
タイトルがそのものずばりなのは、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84…トップ画像)。
簡単に訳せば「かつてのアメリカ」。
昔話を聞かせるというスタイルで展開するのは、『シザーハンズ』(90)。
対峙する人物に過去の出来事を語って聞かせるスタイルは多い。
司祭に告白する『アマデウス』(84)、
刑事に自供する『ユージュアル・サスペクツ』(95)、
同じく自供する『羅生門』(50)、
バス停留所で居合わせたひとに語る『フォレスト・ガンプ』(94)、
老婆が中年女性を励ますために話した『フライド・グリーン・トマト』(91)などなど。
よく出来ているなぁと感心させられる映画は大抵、話しているほうに重きを置いている「ふりをして」、じつは聞き手の「心情の変化」を描いている。
「神は平等」といった司祭に食ってかかるサリエリは、モーツァルトとの確執を話し司祭の自意識を揺さぶる。
老婆の話に元気と勇気をもらった中年女性は私生活も変わり、夫婦の関係が「大」逆転する。
これですよ、これ。
本来の昔話には寓話の要素も多分に含まれているのだから、こうした構造が理想的。
・・・とも、いえないのが物語ることの難しさでもあったり。
そう、極めて稀なケースではあるものの、その昔話から「なにも生まれない」ことだってある。
ただ、その昔話も「なにも生まれない」という結果から不条理っぽいテーマが浮かび上がるわけで、だから「なにも生まれない」ではあるものの、「意味がない」ことにはならない。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』なんて、まさにそうじゃない?
多くの血が流れて、いまがある―みたいな読みかたも出来るが、いやいやそれより、観たあとの不思議な感慨は、なんというか、「あぁ無常」ということばが相応しくないか?
ラストのデ・ニーロの泣き笑いを観ていると、ほんとうにそう思う。
いずれにせよ。
昔話は、単純なようでいて深い。
自分は昔話でいうと、(群馬出身だから)『分福茶釜』を挙げたいところだが、そうではなく『耳なし芳一』が好き。
特殊能力を持った男が、殺されそうになる物語だった。
「ほぼ全身」に般若心経を書いた芳一を想像してゾクゾクしつつも、どうか殺されませんようにと祈りながら読んだ。
ガキのころに読んだだけなので細かいことは忘れてしまったが、琵琶法師として成功した結末にホッとした読後感だけは覚えている。
「昔むかし―」で始まる物語は、そのほとんどが「めでたし、めでたし」で終わる。
もちろんバッドエンディングなものもあるが、それは、映画の世界でも変わらない。
こんな自分でも思いますよ、いつか、少年少女が寝るのを惜しんでまで先が知りたくなるような、そんな昔話を綴ってみたいって。
あすのしりとりは・・・
むかしむか「し」→「し」ねふぃる。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(156)』
「A long time ago in a galaxy far,far away....」
これは、『スターウォーズ』シリーズ(77~)の、あまりにも、あまりにも有名なオープニング・クレジット。
簡単に訳せば・・・
「昔むかし、遥か銀河の彼方で・・・・」
・・・となる。
このシリーズを観ていないひとのなかには「未来の話」と思い込んでいるひと―も居るらしいのだけれど、これは昔話。
宇宙を舞台とする映画で「過去」を描いたものは少ない、
逆に、宇宙でないところ―つまり地球上を舞台とする映画は、その半数以上が昔話といっていい。
あくまでも、「近過去」を含めての話だけれど。
登場人物による回想は「その象徴」であり、映画とは、いや、物語るということは基本的に「昔話を展開すること」と同意なのだよね。
タイトルがそのものずばりなのは、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84…トップ画像)。
簡単に訳せば「かつてのアメリカ」。
昔話を聞かせるというスタイルで展開するのは、『シザーハンズ』(90)。
対峙する人物に過去の出来事を語って聞かせるスタイルは多い。
司祭に告白する『アマデウス』(84)、
刑事に自供する『ユージュアル・サスペクツ』(95)、
同じく自供する『羅生門』(50)、
バス停留所で居合わせたひとに語る『フォレスト・ガンプ』(94)、
老婆が中年女性を励ますために話した『フライド・グリーン・トマト』(91)などなど。
よく出来ているなぁと感心させられる映画は大抵、話しているほうに重きを置いている「ふりをして」、じつは聞き手の「心情の変化」を描いている。
「神は平等」といった司祭に食ってかかるサリエリは、モーツァルトとの確執を話し司祭の自意識を揺さぶる。
老婆の話に元気と勇気をもらった中年女性は私生活も変わり、夫婦の関係が「大」逆転する。
これですよ、これ。
本来の昔話には寓話の要素も多分に含まれているのだから、こうした構造が理想的。
・・・とも、いえないのが物語ることの難しさでもあったり。
そう、極めて稀なケースではあるものの、その昔話から「なにも生まれない」ことだってある。
ただ、その昔話も「なにも生まれない」という結果から不条理っぽいテーマが浮かび上がるわけで、だから「なにも生まれない」ではあるものの、「意味がない」ことにはならない。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』なんて、まさにそうじゃない?
多くの血が流れて、いまがある―みたいな読みかたも出来るが、いやいやそれより、観たあとの不思議な感慨は、なんというか、「あぁ無常」ということばが相応しくないか?
ラストのデ・ニーロの泣き笑いを観ていると、ほんとうにそう思う。
いずれにせよ。
昔話は、単純なようでいて深い。
自分は昔話でいうと、(群馬出身だから)『分福茶釜』を挙げたいところだが、そうではなく『耳なし芳一』が好き。
特殊能力を持った男が、殺されそうになる物語だった。
「ほぼ全身」に般若心経を書いた芳一を想像してゾクゾクしつつも、どうか殺されませんようにと祈りながら読んだ。
ガキのころに読んだだけなので細かいことは忘れてしまったが、琵琶法師として成功した結末にホッとした読後感だけは覚えている。
「昔むかし―」で始まる物語は、そのほとんどが「めでたし、めでたし」で終わる。
もちろんバッドエンディングなものもあるが、それは、映画の世界でも変わらない。
こんな自分でも思いますよ、いつか、少年少女が寝るのを惜しんでまで先が知りたくなるような、そんな昔話を綴ってみたいって。
あすのしりとりは・・・
むかしむか「し」→「し」ねふぃる。
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明日のコラムは・・・
『シネマしりとり「薀蓄篇」(156)』