むかしむか「し」→「し」ねふぃる(シネフィル)
シネフィルとは、簡単にいえば映画通のこと。
「映画を愛する」のフランス語版「造語」。
自分?
いえいえ、シネフィルではありません。
あくまでも映画小僧であり、少し気取っていえば「見巧者」。
えらそう?
すんませんね、このことに関してだけは自尊心があるので。
ほかのことに関しては、ゼロだけど。
「一般的」な話をすると、シネフィルは少しインテリのにおいがする。
映画を「心底」愛していることは共通しているけれど、
QTタランティーノはシネフィルじゃない、いうなれば映画オタク・・・訂正、質のいい映画オタク、
わが神スコセッシは「どう考えても」シネフィル、いや映画の福音を伝える伝道師かもしれない、
ゴダールは正統派ではないがシネフィル、
映画を「知り尽くしている」ように見える、コーエン兄弟こそ正統派のシネフィル、
黒澤はそうじゃないけど、オオシマは日本を代表して映画史を創ったくらいなのでシネフィル、
北野武は「映画なんか、ぜんぜん観ていない」と発言したことがあるが、あれは照れ隠し、彼の映画を観れば、彼がどれだけ映画を愛していて、映画をきっちり観てきたかが分かる。
でもシネフィルじゃないかな、自分と同じ映画小僧かも。
・・・といったら、やっぱり自分はえらそうだね苦笑
作家・阿部和重と映画監督・青山真治の対談を、ずいぶん前に読んだ。
ともにシネフィルのにおいが漂うインテリ系だが、そのなかでこんなやりとりがあったと記憶する。
「そんなこといって、シネフィルだなぁ!」
「ボクはシネフィルじゃないですよ」
そうなんだ。
どうやらわが国では、シネフィルは「ちょっと、恥ずかしいこと」とされているのだった。
なぜだろうね、世界的には「博士号」のような栄誉のはずなのに。
CSのチャンネルでも「シネフィル・イマジカ」というのがあるくらい、なのに。
自分がシネフィルであることを否定したのは、謙遜・・・ではない。
やっぱりどこか、恥ずかしさがあったから。
理由は自分でも、きちんと説明出来ないのだけれども。
一部の作家が「先生!」と呼ばれるのを強く拒否する感覚―ひょっとしたら、それにちかいのかもしれない。
なんとなく、なんとなくだけれども、「権威」というものがちらついて見えるからかな。
そういうものとは無縁でいたい、その表れが「シネフィルじゃないよ!」ともいえる。
映画小僧を名乗ったほうが気楽でいいもの。
映画について語っておいて、それで小銭もらっておいて、ちょっと無責任かもしれないが、無責任であるがゆえにいえることだってあると思うのだよね。
シネフィルを名乗ってしまったら、そうもいかない。
蓮実重彦のような発言をしなくちゃならない。
(そうだ蓮実重彦こそ、どこからどう見てもシネフィルじゃないか!!)
映画監督の崔洋一が、かつてこんな発言をしたことがある。
「―このくらいの理屈がこの映画だよ、、、というのがあって。それをなぞられたってさ、面白くもなんともないよ」
少なくとも日本では、それをなぞろうとするのがシネフィルだ、、、みたいな認識がある(ように思う)。
世界的には(たぶん)間違った認識なのだろうが、ここを変えないかぎり「シネフィルじゃない!」と強調する「シネフィルもどき」は減らないと思う。
もちろん、自分を含めての話です。
次回のしりとりは・・・
しねふぃ「る」→「る」ーじゅ。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『乾燥肌は指紋も取り難い』
シネフィルとは、簡単にいえば映画通のこと。
「映画を愛する」のフランス語版「造語」。
自分?
いえいえ、シネフィルではありません。
あくまでも映画小僧であり、少し気取っていえば「見巧者」。
えらそう?
すんませんね、このことに関してだけは自尊心があるので。
ほかのことに関しては、ゼロだけど。
「一般的」な話をすると、シネフィルは少しインテリのにおいがする。
映画を「心底」愛していることは共通しているけれど、
QTタランティーノはシネフィルじゃない、いうなれば映画オタク・・・訂正、質のいい映画オタク、
わが神スコセッシは「どう考えても」シネフィル、いや映画の福音を伝える伝道師かもしれない、
ゴダールは正統派ではないがシネフィル、
映画を「知り尽くしている」ように見える、コーエン兄弟こそ正統派のシネフィル、
黒澤はそうじゃないけど、オオシマは日本を代表して映画史を創ったくらいなのでシネフィル、
北野武は「映画なんか、ぜんぜん観ていない」と発言したことがあるが、あれは照れ隠し、彼の映画を観れば、彼がどれだけ映画を愛していて、映画をきっちり観てきたかが分かる。
でもシネフィルじゃないかな、自分と同じ映画小僧かも。
・・・といったら、やっぱり自分はえらそうだね苦笑
作家・阿部和重と映画監督・青山真治の対談を、ずいぶん前に読んだ。
ともにシネフィルのにおいが漂うインテリ系だが、そのなかでこんなやりとりがあったと記憶する。
「そんなこといって、シネフィルだなぁ!」
「ボクはシネフィルじゃないですよ」
そうなんだ。
どうやらわが国では、シネフィルは「ちょっと、恥ずかしいこと」とされているのだった。
なぜだろうね、世界的には「博士号」のような栄誉のはずなのに。
CSのチャンネルでも「シネフィル・イマジカ」というのがあるくらい、なのに。
自分がシネフィルであることを否定したのは、謙遜・・・ではない。
やっぱりどこか、恥ずかしさがあったから。
理由は自分でも、きちんと説明出来ないのだけれども。
一部の作家が「先生!」と呼ばれるのを強く拒否する感覚―ひょっとしたら、それにちかいのかもしれない。
なんとなく、なんとなくだけれども、「権威」というものがちらついて見えるからかな。
そういうものとは無縁でいたい、その表れが「シネフィルじゃないよ!」ともいえる。
映画小僧を名乗ったほうが気楽でいいもの。
映画について語っておいて、それで小銭もらっておいて、ちょっと無責任かもしれないが、無責任であるがゆえにいえることだってあると思うのだよね。
シネフィルを名乗ってしまったら、そうもいかない。
蓮実重彦のような発言をしなくちゃならない。
(そうだ蓮実重彦こそ、どこからどう見てもシネフィルじゃないか!!)
映画監督の崔洋一が、かつてこんな発言をしたことがある。
「―このくらいの理屈がこの映画だよ、、、というのがあって。それをなぞられたってさ、面白くもなんともないよ」
少なくとも日本では、それをなぞろうとするのがシネフィルだ、、、みたいな認識がある(ように思う)。
世界的には(たぶん)間違った認識なのだろうが、ここを変えないかぎり「シネフィルじゃない!」と強調する「シネフィルもどき」は減らないと思う。
もちろん、自分を含めての話です。
次回のしりとりは・・・
しねふぃ「る」→「る」ーじゅ。
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明日のコラムは・・・
『乾燥肌は指紋も取り難い』