38年11月10日生まれ・2009年8月12日死去、享年70歳。
京都出身。
公式プロフィール…表示が遅いかもしれません
なにで最初に山城新伍(やましろ・しんご)さんを見たのかは覚えていません―たぶん、『どん兵衛』のCMかな―が、ずいぶんとエラソーだなぁと思った記憶は残っています。
でも、イヤな印象は受けませんでした。
ただ一般的には、好き嫌いの分かれる俳優さんだったと思います。
一般的どころの話じゃない、
あれだけ仲良さそうに見えた『どん兵衛』の相方・川谷拓三とは仲違いしちゃいましたし、
乱れた女性関係により元夫人・花園ひろみとの仲は最悪となり、彼女は葬儀にも顔を出さなかった―そう、業界内でも、家族間でさえも、好き嫌いが分かれるほど、、、だったのですもの。
それでもひとつ、いえること。
演技力どうこうは、自分にはよく分かりません。
いえるのは、映画の見巧者としてはホンモノであったこと。
批評家の一面において、自分は好きだったのです。
<経歴>
流行語「チョメチョメ」でも有名、
それから映画好きのあいだでは、「ミスター・プログラムピクチャー」の名で知られる。
開業医の父、看護師の母という医師の家庭に育つ。
(実弟も医師になる)
元女優の花園ひろみとは、結婚・離婚・結婚・離婚と4度ほど籍を入れ替え? する。
医大に受験するも不合格、医師を諦めた57年に、「ニューフェイス」第4期生として東映に入社。
同期は、佐久間良子や室田日出男。
映画俳優デビュー作は、58年の『台風』。
60年、テレビ時代劇『白馬童子』(現テレ朝)の主演に抜擢され、これが大ヒットを記録し人気スターに。
浪人が白装束姿で悪人を倒す―もちろん自分は観ていませんが、父親が好きだったのでしょう、ガキのころ、よくこの物語を話して聞かせてくれた記憶が「うっすら」ではありますが、残っています。
その映画版『白馬童子 南蛮寺の決斗』(60)にも、もちろん主演。
さてここからは、映画にしぼって。
『赤い影法師』(61)、近藤勇を演じた『新選組血風録』(63)、『十三人の刺客』(63)、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』(68)、
梅宮辰夫が主演、たった5年で全16作も創られた『不良番長』シリーズ(68~72…山城さんは、第3作目よりレギュラー出演)、
『新網走番外地 流人岬の血斗』(69)。
『喜劇 トルコ風呂王将戦』(71)、
『女番長ブルース』の『牝蜂の逆襲』(71)と『牝蜂の挑戦』(72)。
(ちなみに、女番長と書いてスケバンと読みます)
『ポルノギャンブル喜劇 大穴中穴へその穴』(72)、『喜劇 セックス攻防戦』(73)。
70年代前期は、ライト・ポルノと呼べるであろうお色気映画の隆盛期。
『夜遊びの帝王』(70)、『女たらしの帝王』(70)、『未亡人ごろしの帝王』(71)、『ポルノの帝王』(71)、『ポルノの帝王 失神トルコ風呂』(72)の、いわゆる「帝王シリーズ」でも、山城さんの、阿呆でバイタリティ溢れる演技に触れることが出来ます。
『徳川セックス禁止令 色情大名』(72)、『温泉スッポン芸者』(72)、『昭和残侠伝 破れ傘』(72)。
このころの東映で活躍した「男優のほとんど」と同様、ほぼ自動的に『仁義なき戦い』シリーズにも参戦、
江田省一役として、『広島死闘篇』(73)『代理戦争』(73)『頂上作戦』(74)『完結篇』(74)に出演しました。
『温泉おさな芸者』(73)、
『殺人拳2』(74)、『逆襲! 殺人拳』(74)、『直撃地獄拳 大逆転』(74)、
『新仁義なき戦い』(74)、『仁義の墓場』(75)、『県警対組織暴力』(75)、『暴力金脈』(75)、『五月みどりのかまきり夫人の告白』(75)、『トラック野郎・爆走一番星』(75)、『雲霧仁左衛門』(78)。
ジャンルは偏ってますが、1年で何本も撮るシリーズ物に「いくつも顔を出している」ところなんか、まさに「ミスター・プログラムピクチャー」ですなぁ!!
80年、『ミスターどん兵衛』で映画監督業に進出。
やや冗談が過ぎる映画でしたが、これ以降も『女猫』(83)、『双子座の女』(84)、『せんせい』(89)、『本日またまた休診なり』(2000)などを監督。
とくに『せんせい』は悪くなかったですね、南果歩の初々しい姿も拝めますし。
『コータローまかりとおる!』(86)、『キネマの天地』(86)、『ハチ公物語』(87)、『塀の中の懲りない面々』(87)、『スウィートホーム』(89)、
『遠き落日』(92)、『岸和田少年愚連隊』(96)、『サラリーマン金太郎』(99)。
2005年に糖尿病で入院して以降は、宣言はしていないものの、事実上の引退。
老人ホームで暮らしていることなどを雑誌で明かしていましたが、2009年8月12日、誤嚥性肺炎で亡くなりました。
享年70歳、遺作は『晴れたらポップなボクの生活』(2005)。
勝新ほど豪快ではありませんが、それでも、左も右も山城さんだったら困る・・・そういうひとですよね。
100人にひとりくらいだったら、居てもいいかな。
そういう意味で、正真正銘の映画俳優だったと思います。
次回のにっぽん男優列伝は、山田孝之さんから。
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明日のコラムは・・・
『GARAN』
京都出身。
公式プロフィール…表示が遅いかもしれません
なにで最初に山城新伍(やましろ・しんご)さんを見たのかは覚えていません―たぶん、『どん兵衛』のCMかな―が、ずいぶんとエラソーだなぁと思った記憶は残っています。
でも、イヤな印象は受けませんでした。
ただ一般的には、好き嫌いの分かれる俳優さんだったと思います。
一般的どころの話じゃない、
あれだけ仲良さそうに見えた『どん兵衛』の相方・川谷拓三とは仲違いしちゃいましたし、
乱れた女性関係により元夫人・花園ひろみとの仲は最悪となり、彼女は葬儀にも顔を出さなかった―そう、業界内でも、家族間でさえも、好き嫌いが分かれるほど、、、だったのですもの。
それでもひとつ、いえること。
演技力どうこうは、自分にはよく分かりません。
いえるのは、映画の見巧者としてはホンモノであったこと。
批評家の一面において、自分は好きだったのです。
<経歴>
流行語「チョメチョメ」でも有名、
それから映画好きのあいだでは、「ミスター・プログラムピクチャー」の名で知られる。
開業医の父、看護師の母という医師の家庭に育つ。
(実弟も医師になる)
元女優の花園ひろみとは、結婚・離婚・結婚・離婚と4度ほど籍を入れ替え? する。
医大に受験するも不合格、医師を諦めた57年に、「ニューフェイス」第4期生として東映に入社。
同期は、佐久間良子や室田日出男。
映画俳優デビュー作は、58年の『台風』。
60年、テレビ時代劇『白馬童子』(現テレ朝)の主演に抜擢され、これが大ヒットを記録し人気スターに。
浪人が白装束姿で悪人を倒す―もちろん自分は観ていませんが、父親が好きだったのでしょう、ガキのころ、よくこの物語を話して聞かせてくれた記憶が「うっすら」ではありますが、残っています。
その映画版『白馬童子 南蛮寺の決斗』(60)にも、もちろん主演。
さてここからは、映画にしぼって。
『赤い影法師』(61)、近藤勇を演じた『新選組血風録』(63)、『十三人の刺客』(63)、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』(68)、
梅宮辰夫が主演、たった5年で全16作も創られた『不良番長』シリーズ(68~72…山城さんは、第3作目よりレギュラー出演)、
『新網走番外地 流人岬の血斗』(69)。
『喜劇 トルコ風呂王将戦』(71)、
『女番長ブルース』の『牝蜂の逆襲』(71)と『牝蜂の挑戦』(72)。
(ちなみに、女番長と書いてスケバンと読みます)
『ポルノギャンブル喜劇 大穴中穴へその穴』(72)、『喜劇 セックス攻防戦』(73)。
70年代前期は、ライト・ポルノと呼べるであろうお色気映画の隆盛期。
『夜遊びの帝王』(70)、『女たらしの帝王』(70)、『未亡人ごろしの帝王』(71)、『ポルノの帝王』(71)、『ポルノの帝王 失神トルコ風呂』(72)の、いわゆる「帝王シリーズ」でも、山城さんの、阿呆でバイタリティ溢れる演技に触れることが出来ます。
『徳川セックス禁止令 色情大名』(72)、『温泉スッポン芸者』(72)、『昭和残侠伝 破れ傘』(72)。
このころの東映で活躍した「男優のほとんど」と同様、ほぼ自動的に『仁義なき戦い』シリーズにも参戦、
江田省一役として、『広島死闘篇』(73)『代理戦争』(73)『頂上作戦』(74)『完結篇』(74)に出演しました。
『温泉おさな芸者』(73)、
『殺人拳2』(74)、『逆襲! 殺人拳』(74)、『直撃地獄拳 大逆転』(74)、
『新仁義なき戦い』(74)、『仁義の墓場』(75)、『県警対組織暴力』(75)、『暴力金脈』(75)、『五月みどりのかまきり夫人の告白』(75)、『トラック野郎・爆走一番星』(75)、『雲霧仁左衛門』(78)。
ジャンルは偏ってますが、1年で何本も撮るシリーズ物に「いくつも顔を出している」ところなんか、まさに「ミスター・プログラムピクチャー」ですなぁ!!
80年、『ミスターどん兵衛』で映画監督業に進出。
やや冗談が過ぎる映画でしたが、これ以降も『女猫』(83)、『双子座の女』(84)、『せんせい』(89)、『本日またまた休診なり』(2000)などを監督。
とくに『せんせい』は悪くなかったですね、南果歩の初々しい姿も拝めますし。
『コータローまかりとおる!』(86)、『キネマの天地』(86)、『ハチ公物語』(87)、『塀の中の懲りない面々』(87)、『スウィートホーム』(89)、
『遠き落日』(92)、『岸和田少年愚連隊』(96)、『サラリーマン金太郎』(99)。
2005年に糖尿病で入院して以降は、宣言はしていないものの、事実上の引退。
老人ホームで暮らしていることなどを雑誌で明かしていましたが、2009年8月12日、誤嚥性肺炎で亡くなりました。
享年70歳、遺作は『晴れたらポップなボクの生活』(2005)。
勝新ほど豪快ではありませんが、それでも、左も右も山城さんだったら困る・・・そういうひとですよね。
100人にひとりくらいだったら、居てもいいかな。
そういう意味で、正真正銘の映画俳優だったと思います。
次回のにっぽん男優列伝は、山田孝之さんから。
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明日のコラムは・・・
『GARAN』