前にも書いたことがあるが・・・
自分が関わったところは、潰れてしまう・閉鎖されてしまう傾向にある。
(1)高校生のころにアルバイトした映画館、『清流』は閉館。
(2)20歳のころにアルバイトした複合映画館、『多摩カリヨンシアター』も閉館。
(3)23歳のころに勤めたパン工場、『日糧製パン町田工場』まで閉鎖。
(4)18歳から30歳まで住んだアパート、『マカロニほうれん荘』は取り壊された。
そして、
(5)わが学び舎『にっかつ芸術学院』が閉校。
・・・・・切ないねぇ。
生きてりゃ、連続した偶然性なんていくつもある、それが世の常だというひとも居るだろうが、こうやってまとめて書いてみると、「そういうもの」を持っているヤツなんじゃないかって笑
トップ画像は、4年前だろうか、(5)に記した学び舎がなくなることを惜しんで開催された同窓会でのワンショット。
生意気に中央に陣取っているが、周りの子たちの恩師じゃないよ、みんな同級生だからね笑
そんなわけで今回の初体験シリーズは、「専門学校で交わした、初めての会話」でいってみたい。
うん、モノスゴはっきりと覚えているんだ。
一言一句、きちんと覚えている。
それだけ印象的だったということだが、そこから遡ること6年―中学1年時に交わした、初めての会話も「はっきりと」覚えている。
「岡田有希子、死んだね」だった。
隣りの席の子と、そんな会話を展開した。
その子の名前は、覚えていないけれど。。。
トップ画像を、もう少し解説していこう。
自分の下の位置でしゃがんでいる、キュートな女子Aちゃん。
自分と同じシナリオを専攻する子で、現在でもときどき連絡を取り合う仲である。
ひとりの女子として、まあまあ好きだった。
未だつながりのある子なのだから、すごく好きだった・・・くらい書いたほうがいいのだろうが、まぁ照れているのです、少し。
向かって左端に映っている、メガネ男子Nくん。
趣味嗜好が自分と似ていて、とても仲良し。
彼とも、ときどき連絡を取り合っている。
このNくんと最初に交わした会話が、今回のシリーズの本題である。
その内容は、あしたに譲るとして・・・。
自分が専門学校で映画術を学んだのは、92年~94年のこと。
90年代前半が、どんなだったかというと、社会的には「バブル後遺症」などと評された時代である。
バイト情報誌が見る見る薄くなっていき、就職氷河期などともいわれていた。
尤も自分のようなガキはピンときていなかった。
映画界ではミニシアターブームが到来し、インディーズ映画がもてはやされた。
その波に乗って、、、というより、彼自身が牽引したともいえるが、QTタランティーノが登場し映画ファンに衝撃が走る。
音楽はグランジ一色、誰も彼もがカート・コバーンの死に涙した。
漫画では小林よしのりが『SPA!』で『ゴーマニズム宣言』を連載開始、『朝まで生テレビ』を誌面で展開するような内容が画期的で、知的好奇心が旺盛な若者は、みんな読んでいたと記憶する。
自分より年上のひとには「まだまだ、だよ。」と突っ込まれるほどの近過去ではあるが、昔話が出来るほどには、時間が経過したのだなぁ、、、。
つづく。
※そのころに出会った、自分にとっての宝物のような映画
日本版『タクシードライバー』(76)みたいな物語―現代の感覚で再編集した予告編が、じつにいい。
…………………………………………
明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(216)』
自分が関わったところは、潰れてしまう・閉鎖されてしまう傾向にある。
(1)高校生のころにアルバイトした映画館、『清流』は閉館。
(2)20歳のころにアルバイトした複合映画館、『多摩カリヨンシアター』も閉館。
(3)23歳のころに勤めたパン工場、『日糧製パン町田工場』まで閉鎖。
(4)18歳から30歳まで住んだアパート、『マカロニほうれん荘』は取り壊された。
そして、
(5)わが学び舎『にっかつ芸術学院』が閉校。
・・・・・切ないねぇ。
生きてりゃ、連続した偶然性なんていくつもある、それが世の常だというひとも居るだろうが、こうやってまとめて書いてみると、「そういうもの」を持っているヤツなんじゃないかって笑
トップ画像は、4年前だろうか、(5)に記した学び舎がなくなることを惜しんで開催された同窓会でのワンショット。
生意気に中央に陣取っているが、周りの子たちの恩師じゃないよ、みんな同級生だからね笑
そんなわけで今回の初体験シリーズは、「専門学校で交わした、初めての会話」でいってみたい。
うん、モノスゴはっきりと覚えているんだ。
一言一句、きちんと覚えている。
それだけ印象的だったということだが、そこから遡ること6年―中学1年時に交わした、初めての会話も「はっきりと」覚えている。
「岡田有希子、死んだね」だった。
隣りの席の子と、そんな会話を展開した。
その子の名前は、覚えていないけれど。。。
トップ画像を、もう少し解説していこう。
自分の下の位置でしゃがんでいる、キュートな女子Aちゃん。
自分と同じシナリオを専攻する子で、現在でもときどき連絡を取り合う仲である。
ひとりの女子として、まあまあ好きだった。
未だつながりのある子なのだから、すごく好きだった・・・くらい書いたほうがいいのだろうが、まぁ照れているのです、少し。
向かって左端に映っている、メガネ男子Nくん。
趣味嗜好が自分と似ていて、とても仲良し。
彼とも、ときどき連絡を取り合っている。
このNくんと最初に交わした会話が、今回のシリーズの本題である。
その内容は、あしたに譲るとして・・・。
自分が専門学校で映画術を学んだのは、92年~94年のこと。
90年代前半が、どんなだったかというと、社会的には「バブル後遺症」などと評された時代である。
バイト情報誌が見る見る薄くなっていき、就職氷河期などともいわれていた。
尤も自分のようなガキはピンときていなかった。
映画界ではミニシアターブームが到来し、インディーズ映画がもてはやされた。
その波に乗って、、、というより、彼自身が牽引したともいえるが、QTタランティーノが登場し映画ファンに衝撃が走る。
音楽はグランジ一色、誰も彼もがカート・コバーンの死に涙した。
漫画では小林よしのりが『SPA!』で『ゴーマニズム宣言』を連載開始、『朝まで生テレビ』を誌面で展開するような内容が画期的で、知的好奇心が旺盛な若者は、みんな読んでいたと記憶する。
自分より年上のひとには「まだまだ、だよ。」と突っ込まれるほどの近過去ではあるが、昔話が出来るほどには、時間が経過したのだなぁ、、、。
つづく。
※そのころに出会った、自分にとっての宝物のような映画
日本版『タクシードライバー』(76)みたいな物語―現代の感覚で再編集した予告編が、じつにいい。
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明日のコラムは・・・
『初体験 リッジモント・ハイ(216)』